二百二十六 小僧連足す一、暇を持て余し時間を潰す事
「暇だねぇ……」
「暇ですねぇ……」
詰め所に案内されてから暫く、何事も起こる様子も無くそれぞれの得物の手入れ等を済ませると、手持無沙汰になったらしい野火兄弟が縁側に腰掛けたまま声を揃えてそう呟いた。
詰め所とされているのは代官屋敷の居間とでも言うべき場所らしく、庭から縁側へと上がった直ぐの囲炉裏を囲む事の出来る部屋で有る。
秋口のまだ寒いとは言い難い時期では有るが囲炉裏に火は埋み火が入っている様で手を翳せば仄かに暖かく、自在鉤に吊るされた鉄瓶には保温状態と言える程度の湯が入って居る様だった。
「仕事の内容は聞いてたんだから、暇潰し様に本の一冊でも持って来れば良かっただろうに……」
そんな二人の様子を見た俺は、そう言って自分の荷物の中から何冊かの本を取り出した。
この仕事の拘束時間の大半は起こるか起こらないか解らない襲撃に備えた待機時間で、場合によっては襲撃が有ったとしても村人達だけで対処出来る範囲の相手で、俺達が出張る様な事は無い可能性も有る、と金太から聞かされていたのだ。
俺の感覚からすれば何時起こるか解らない事件に備え只管待機するだけ……と言うのは、前世の交番勤務によく似ていた。
しかし交番勤務ならば片付けなければならない書類仕事やら、警邏やらやるべき事は常に有り、暇潰しが必要になる機会と言うのは極めて稀だったが……。
まかり間違ってそう言う時間が出来たとしても、本を読んだりゲームをしたりすればそれを見た者からは『サボっている』と思われ、場合によっては何らかの処分が下りる事も有り得る話だ。
その為、少なくとも俺が居た交番では本当に暇な時間が発生した時には、昇進試験の為の勉強をする様に指導されていた。
『中たる奴』と『中らない奴』と言う言葉が警察官の中で真しやかに語られていた……要はソイツが勤務していると必ずと言って良いほど管轄内で事件が起きる奴と、何故か大きな事件に中らない奴と言う事である。
どうやら俺は『中たる奴』だったらしく、交番勤務に付いていた約三年間の間そんな暇な時間を過ごした記憶は無く、非番の日でも召集を受けて休みが潰れた事も幾度と無く有った。
そんな俺なので暇な時間の潰し方を知らないのかと言えばそんな事は無い。
捜査四課に移動してからは地元の連中が比較的大人しい質だった事も有って当直の時に事件が起きたのも数える程だったし、緊急招集を受ける事は稀と言って良い程だった。
とは言っても余暇の使い方の大半が、試験勉強とネット小説を読むことに費やされて居たのだが……。
流石に此方の世界では後者は取れないので、前者と何人かの先輩達が好んだ方法を合わせ信三郎兄上から借りた本を何冊か持ち込んでいた。
「いや……幾ら暇だって言っても時間潰しにコレは無いだろ……」
「うん……七は相変わらず生真面目すぎるわな……」
だが俺が渡した本を手にした二人の感想は、そんな釣れない物だった。
「「本を持ち込むなんて良い案なのに、なんで持って来てるのが『兵法書』と『軍学書』だけなんだよ!」」
……解せぬ。
取り敢えず昼寝を決め込む事にしたらしい野火兄弟は置いておくとして、歌とお花ちゃん達綺麗所に目を向けると、二人も時間潰しの為の物を持ち込んで居た様だった。
歌は裁縫道具を持ち込んで居たのだが、余り慣れていないらしくぎこちない手付きで刺繍の練習をしている様だ。
対してお花ちゃんの方は、何本もの筆、それに何枚もの絵の具皿を並べ、半紙位の大きさの紙に絵を描いていた。
「ふぅ……あまり根を詰めて仕事に支障が有っては困りますね……お茶でも入れましょうか」
集中して居る風に見える二人に声を掛けるのは躊躇われたので、静かに持ち込んだ本を読んで居たのだが、然程時間が経たない内に歌がそんな声を上げた。
「おや、歌は休憩ですか? 花嫁修業大変だね」
それを聞きつけて、誂う様にそう言ったのは寝ていた筈のりーちだった、どうやら横になって目を瞑っては居たものの熟睡していた訳では無い様だ。
対して並んで寝転がっているぴんふはものの見事に高鼾で有る、こっちはこっちで何か起こった時に問題が無い訳では無いが、常時気を張っている訳にも行かないし万一の時には蹴り起こせば済む話だろう。
「ええ、お華にお琴に裁縫料理……今まで毛嫌いして疎かにしてきた事ですが、武家の娘として最低限の嗜みも無いとなれば、縁談にも問題が出るかもしれませんからねぇ……」
歌は誂われたと言う素振りも無く、憂鬱そうな面持ちでため息を付きながらそう返す。
「おや、舞は入って無いのかい?」
料理は以前も話題に上げた事が有るが、軍事行動中に自分の飯の世話も出来ないと言うのは恥だと言う事から。
楽器や舞踊は何方も武芸に通ずるとされ、男ならば笛や三味線等と能を、女ならば琴や鼓等と舞を、それぞれ学ぶのが通例で有る。
男成らばそれら三芸を、女ならば更に奥向きの仕事とされる裁縫と床の間を飾る華の二つを合わせ五芸は、最低限身に付けて置くべきとされているのだ。
ちなみに茶道(抹茶道、煎茶道その双方)に類する物も此の江戸には息づいて居るが、それは必須の芸事とまではされて居らず、きっちりと学んでいるのは一部の上級武士と趣味人達だけだ。
以前上様の家に招かれた際に出して頂いたお茶が随分と美味しかったのは、抹茶そのものの質や価格が最高級品だったのは勿論の事、それを点てて頂いた上様の腕前が優れて居た事も大きかったに違いない。
「舞と鼓は武に親しい物と、幼いころから慣れているので問題無いんです。お料理もまぁ……慣れれば何とかなると思いますが、他はどうもじっと座っていると言うのが苦手で……」
そう言いながら鉄瓶から人数分の湯のみへと湯を注ぎ、それを急須へと移し茶を淹れる、その手際に淀む所は無く急須の中で茶葉を開かせる時間すら、会話をしながらでも推し量る事が出来ている様子だった。
「あ、美味しい……」
そっと出されたそれに口を付けたところで、思わずそんな声が漏れた。
無論使われている茶器も茶葉も、勝然様から自由に使って良いと言われた物で、決して高級品という訳では無いだろう。
それでも家で俺が適当に入れた物とは比べ物に成らない位には、そのお茶が美味しく思えたのは歌の手柄に違いない。
「お茶を入れたので、お花さんも一休みしたらいかがですか?」
りーちが寝入っているぴんふを揺り起こすのを横目に、歌がお花ちゃんにそう声を掛けると、
「んー……ふぃぃぃ……。頂くの~」
息を止め真剣な顔で筆を慎重に動かしていた彼女は、先程までの歳の頃よりも随分と幼く人懐っこい笑みとは違い、何処か妖艶で蠱惑的な物を湛え何処か瞳義姉上と通ずる物を感じさせる物だった。
だが歌に声を掛けられその一筆で手を止め、長く息を吐き出すと空気が抜けた様にソレは鳴りを潜め、俺が見知った緊張感のない笑みを浮かべそう言葉を返す。
「随分と熱心に描いて居た様ですけれども、どんな絵を描かれるのですか?」
どうやら猫舌の様で、湯のみを両手で持って息を吹き掛けているお花ちゃんに興味津々と行った様子で歌がそう問いかける。
すると彼女はやっと一口茶を啜り、
「んー、新作花火の図案なの~。うちのお父ちゃん花火師してるから、良い絵が出来たらお父ちゃんに花火にしてもらうの~」
そう言って見せてくれたのは、夜空をイメージしているのであろう紺色の空に色とりどりに描かれた花火と、ソレに照らされた江戸の町並みだった。




