二百十九 「無題」
「んで、弟クン所の家臣ゆうんは、結局どないなもんやったん? きっちり落とし前付けて来れそうなん?」
猪山藩へと早朝出稽古から帰って来た力士達が庭に跪くのを見下ろしながら、父上が苛立ちを隠さぬ様子でそう言った。
「へぇ。油断したとはいえ馬蓮があっちゅーまに電車道食ろうて、ワテは魂を削る様な釣り合いの末、釣り出され、岡太が勝てたんはワテが削るだけ削った御蔭ですわ。ありゃ本気で角力に駐力すりゃぁ三役は狙えるタマちゃいますか?」
三人の力士を代表して口を開いた柿布の言葉を聞き、
「そやったらええんや。知らぬとは言えウッ所の娘に要らんちょっかいかけよった怒阿呆を、直接叩きのめす訳にゃぁいかんゆうんは気に入らへんけどなぁ……。嫁入り先の面子を潰すわけにもいかんし、ホンマに武士の面子ゆうんは面倒やわ」
と腹立ちは収まらないまでも、納得せざるを得ないと言った面持ちでそう答え、尻を畳に落とす音を響かせながら胡座を掻いて座り込んだ。
「そやかて雑賀っちゅうのんはホンマに阿呆ばっかやな、お互いお忍びやゆうんに相手は兎も角、手前ぇの家名を出すような真似したら引くに引けんよう成るんは解りきっとる事やないかい」
腕を組んで少し悩む様な素振りでそう言いながら目線が此方を向く。
「……そう心配せずとも家の連中は弁えていますよ。我が河中嶋は武よりも算を尊ぶ、金持ち喧嘩せず、が家訓ですからね」
小さくため息を付きながら、父上が望むであろう言葉をただ静かに口にした。
だが……
「そや、普段はそれで良え。けどな酒に呑まれて暴れる様な阿呆が家中から出るようならきっちり家で〆なアカンし、阿呆に舐められる様な事が有りゃ一揆や下剋上やらでもっと大変な事に成るんや。お前の冷静さは長所やけどな、その辺はもちっと何とかせなな」
と此方に向かって説教の矛先が回って来た。
「判っていますよ……その為に多くの財を割いて力士を抱え、また武勇に優れし猪山と縁を結んだ……ですよね?」
我が立嶋家が治める河中嶋藩は、京から最も近い大湊を有する火元国一の物流拠点で有る。
作付面積こそ五万石余りとぎりぎり中大名に名を連ねるが、その経済規模は下手な大大名を軽く凌駕し、『家』の規模としては大名家の中でも上から数えた方が早い位だ。
そんな立嶋の姫で有る我が妹が小大名に過ぎない猪山へと嫁入りが決まった切っ掛けは妹の初祝の日だった。
生まれながらに『魔眼』と呼ばれる異能を持っていた妹はその能力を制御出来て居らず、また大人には効果を示さない程度の強さだった事でその能力の危険性を大人達は誰も理解して居なかった。
正妻の子で江戸に生まれ育った拙者と、側室の子で国元で生まれ育った千代女が初めて顔を会わせたのがその日で有る。
そしてそれは千代女が自分以外の子供と初めて出会ったのもその日だった。
初めて会う妹に目を奪われ、三歳の幼い妹の虜と成ったのだ。
七歳の男児が別腹とはいえ血の繋がった妹に劣情にも似た浅ましい感情を抱いたのだ。
今ではそれは明らかに彼女の持つ『魔眼』に惑わされたが故の『魅了』と呼ばれる状態異常に拠るものだと誰もが理解しているが、当時は当然拙者の気が触れたと判断されかけた。
だが千代女の初祝を祝う為に招かれていた他藩他家の子供達も、また同様の反応を示したのだから問題が有るのは拙者では無く、千代女に有る事はすぐに知れる事となる。
そしてそんな一種異様とも言える状況に置いて、全く普段と変わらぬ反応をしていたのが、未来の義弟で有る仁一郎だった。
魅了された子供達が妹の『無邪気』な命令に従い殴り合い取っ組み合いする中、独り別の世界にでも居る様に千代女に関心を示さなかった彼だったが、何か天啓の様な者でも受けた様にふらりと立ち上がると、静かに千代女へと歩み寄りその目を両手で覆ったのだ。
魔眼はその視線を遮る事で効果が消える、それを知っている者はその場には居らず、何故彼がその様な事をしたのかは解らないが、それでもその場の混乱が収まった事は誰の目にも明らかだった。
その後の調査の結果、千代女の持つ『魔眼』が彼女の母親の先祖に居た『魔族』と呼ばれる種族に由来する物で、諸外国では決して珍しい物ではない事は我が藩内では周知の事実と成ったが他藩他家では違う。
鬼や妖怪をも恐れぬ武勇を誇る藩ほど、得体の知れない搦め手とも言える力を恐れたのである。
そんな中で魔眼を物ともしなかった仁一郎本人だけで無く、先祖代々有りと有らゆる鬼や妖怪と交わってきた猪山藩の者達は、何一つ恐れる事無く千代女との縁談を持ちかけて来たのだ。
それはある意味我が藩に取っても願ったり叶ったりの縁談だった。
我が家の二つの家訓を鑑みれば、我が藩の家臣もそして藩主である父上や拙者自身も、決して武勇に秀でているとは言い難いのは、想像に難くないだろう。
だからこそ銭で有力な力士を抱え込み、武勇に優れた家と縁を繋ぐのだ。
虎の威を借る……と言えば言い過ぎかも知れないが、様はそういう事である。
同時に力有る者を家臣に迎えたりする事を避けて来たのは、父上が口にした通り下剋上を恐れての事だ。
力こそ正義……とまでは言わないが、鬼や妖怪山賊盗賊その他民の生活を乱す輩は数多い、それらを平定出来るだけの力有る者が、取って代わる事は禿河幕府の治世と成ってからも決して無い話では無い。
強さが有ればある程度の無理は正当化出来てしまう世の中なのだから、それを避ける為に可能な限り手を打つのは当然とも言えるだろう。
「そやで、富美男。とは言うても今回の一件、猪山にだけ丸っと任せとく訳にもいかんやろ。家が舐められるっちゅーんもアカンけど、多分あっこの奥方はんのことや、儲け話の一つや二つも兼ねる様な手を打つ筈やし、乗り遅れる訳にゃぁいかんでー」
そう言う父上の目は完全に『舐められる問題』よりも『儲け話』の方に向いているのは、一目瞭然の事だった。
「それは今回の事だけでは無いでしょう。先だっての妖刀使いの一件と言い、猪山と上手く連携を取る事で得られる利益は金銭的にも名声的にも莫大です。ですが問題は……」
妖刀使いを討ち果たした一件は事が起こってからまだ日が浅い為、然程大きく広がっては居ないが東町奉行が自決した事と相まって、大きな手柄として語られる様に成るだろう。
それを成したとされる仁一郎だけで無く、彼に力を貸した浅雀の嫡男と鬼切奉行の嫡男にも相応の声望を得るのは間違い無い。
千代女が仁一郎と結ばれる事で縁戚と成るのだから、拙者も斯様な機会が有れば参戦する名目は十分に有る。
「そやな……、問題はお前もワテも彼処の連中程、腕が立たんゆうこっちゃ。笹葉はんに聞いた話の通りやと、ワテやお前が勇んで参戦しとってもズンバラリンと殺られて、あっちゅーまに川の向こうにサヨナラや……」
流石にそこらの氣も纏う事も出来ない様な町民に負ける程には弱くは無いが、二つ名を持つ程に武名高い連中とガチでやり合える程に強くも無い。
結局のところ何処まで行っても我が立嶋は銭を武器に戦うのが最も効率の良い戦略だと言う事だ。
「……美味い話を掴める様ならば家にも、拙者の婚家にも一枚噛ませる様、猪山と交渉して参ります。万が一コケた時の危機管理を考えりゃ、味方と言い切れる賛同者は多い方が先方の利にも成るでしょう」
「ホンマにワテもお前も根性糞色やなぁ……、そやけどそうやなかったら腕の立たんワテらが大名面してられへんのも事実……、思う様にやったりぃ、ケツはワテがしっかり持ったるしな」
武を尊ぶ武士の世界……算盤で渡って行くのは生中の事では無いのだ。




