二百十八 志七郎、廻しを締めて稽古する事
腰を落として力強く踏みこんだ、そのたった一歩が地響きを立て大地を揺らす。
いや比喩ではない、彼がたった一度足を下ろしただけで間違いなく地面が、屋敷が揺れた。
天高く、殆ど垂直と言っても良いほどに高々と振り上げられた右足は、飽和し空気が弾ける音を絶え間なく鳴らす程の氣を孕み、一気に振り下ろされ大地へと叩き付ける。
普段から皆の稽古で踏み固められた驚く程硬い筈の地面が、たった一度踏み締めただけで無数の罅割れが入り、表層の土が飛び散り、下層の土が凹み、小さなクレーターを作り上げた。
それを成したのは、豚面である。
彼が全力で四股を踏んだ、たったそれだけで上記の様な事体を引き起こしたのだ。
体感では有るがソレにより発生した揺れは震度4に相当する物ではなかろうか?
人の身で大地を揺り動かす程の力を発生させるその姿を見て、俺は改めて氣という物の出鱈目さ加減を痛感した。
豚面は侍であって、本職の力士では無い。
だが四股を踏むその姿にぎこちなさは無く、高々と振り上げた足は揺らぐ事は無い。
しっかりと軸が通ったその動きは、相当に慣れ親しんだ物と見受けられた。
「ありゃぁ、義姉上が押すだけは有るでおじゃるな……。得物を手に勝負するなら兎も角、角力では義二郎兄上よりも上なのではおじゃらぬか?」
その姿に感心した様子でそう口にした信三郎兄上は、普段同様の狩衣姿では無く、純白の廻し一丁のみを身につけた姿で有る。
本の虫という表現でも足りない位の本好きで有る兄上だが、その体は普段の釣りや稽古で鍛えられて居り、全身に無駄な肉らしきものは見当たらずよく締まった身体を晒していた。
特徴的なのは肘から下や顔はよく日焼けしているのだが、それ以外の普段着物に覆われた部分は全くと言って良い程に焼けて居ない、その姿は前世で言う所の『野球焼け』した少年に酷似している様に思える。
その姿は信三郎兄上だけでは無い、俺もそして朝稽古の場に居る家臣たちもそして俺自身も、今日は廻し一丁の姿で角力を取っているのだ。
ちなみにその場には仁一郎兄上と義二郎兄上の姿は無い、二人は昨日の一件に付いて母上と笹葉に夜通し説教を受けていたので、今は自室でダウンしている筈である。
力有る力士は公的に武士と同等の立場として扱われる、それは力士が武士と同等の『強さ』を持っていると言われているが故、となれば逆に武士が力士と角力を取っても同等の強さが無ければ面目が立たない。
その為武士にとって角力は剣術と並んで必修科目と言っても過言ではない扱いを受けているのだ。
当然、武勇に優れし猪山と謳われる我が藩である、角力にも自信を持っている者も少なく無い。
お抱えの力士こそ居ない物の角力で勝負と言われれば、相手が『本物』の力士であろうとも受けて立てるだけの人材は普通に居るのだ。
その彼らに比べても豚面の四股は別格の物に見えた。
氣を全身に巡らせその身を強化し力として放つ、それらは武士であればほぼ誰でも出来るであろう氣の運用における基本で有る。
だがそれはあくまでも『強化』で有り、氣を用いずに行う身体運用をより強くする物に過ぎず、基礎的な技術が整っていない者が氣を使うと動きの正確さを失い、場合によっては暴発や暴走を引き起こしかね無いのだ。
豚面の真似をして氣を込めた四股を踏もうとした矢田が、氣を弾けさせるタイミングを誤ってその身を宙高く舞わせたのを見れば、それがしっかりとした技術の下地が有ってこその物で有る事は明白だった。
とは言え四股と言うのは儀式的な意味も有るが、筋トレとしての側面も強い基礎的なトレーニング法で有り、それに氣を纏わせる意味は殆ど無い筈だ。
「ほなら、身体も温まったし……一つ稽古付けてもらいまひょか」
わざわざそんな事をしたのは、豚面が武士の習いとしての角力ではなく、相応の技術を身に付けている、と言う事を誇示する為だった。
それは彼の視線の先、静かに準備運動をしている三人の客人に対してだ。
「御武家様の稽古に付き合う程度の心積もりでしたが、こらぁ思ったよりも楽しませて貰えそうやなぁ……」
火元人離れした彫りの深い顔立ちの綺麗に手入れされた髭が特徴的な彼は馬蓮、出身は世界樹諸島と言う事なので、所謂外国人力士である。
「お姫さんが嫁入りする家や言うから、接待のつもりやったけど……そら失礼やったみたいやなぁ……」
義二郎兄上や一郎翁と比しても明らかな巨漢、六尺を軽く超え七尺《約210cm》に届くのではないかと言う背丈と、それに見合うよく鍛えられたそれでいて鈍重そうには見えない張りの有る筋肉、そんな彼は柿布。
「いやいや! おまはん等、ちょ、待ちぃや! 外で本気に成ったらアカンがな! どんだけ被害が出る思うてんねん!」
肉食獣の笑みを浮かべて豚面を見やる二人の様子に、慌てて自制を口にしたのは、端から見ても幸薄そうな苦労人……力士として十分立派な体躯なのだが、不思議と小さく見える彼は岡太で有る。
彼らは千代女義姉上に請われて、豚面が本当に毒島と同等に闘える器かどうか、試すためにやってきたのだそうだ。
とは言え、豚面一人が四股を踏んだだけで局地的とはいえ地震と呼ぶには十分な揺れが起こったのだ、岡太の言う通りそんな彼らが本気でぶつかり合えばどんな被害が出るか解った物では無い。
「んなもん、言われんでも解っとるわ。素人とちゃうんやで、神域外で氣を廻す様な分別無い真似するかいな」
小さく笑う様に鼻を鳴らしながら、柿布がそう言えば、
「そやそや、遊びにもならんと思とったのが、それなりに成ったゆうだけの話やないか」
馬蓮が相槌を打つ。
「そやから、おまはん等はなんでそー、角が立つ様な物言いしか出来へんのや……。えらいすんまへんなぁ御武家様方……。ただガチで氣を廻しての角力はアカンねん、下手せんでも大事になってまうから、氣ぃ抜きでお願いしますわ」
そんな不遜な彼らに胃が痛むのか、岡太は腹あたりを擦りながら此方に向かって頭を下げた。
「よーし、今日はこの辺にしといたるわー」
それからしばしの時間が経った、氣を抜きにしても彼らは強かった。
流石に体格が余りにも違いすぎる俺や信三郎兄上が直接彼らと闘う事は無かったが、それ以外のこの場に居る元服した男児は皆彼らに挑み、投げられ、打ち倒され、寄り切られた。
とは言っても、一方的な力負けで良い所一つ見せられずに負けた……という者は、若手の中でも更に一人だけで、それ以外は互角以上の力を見せた上で技で負けた、と言う感じで有る。
しかしそれは飽く迄も我が藩の家臣達の事だ。
我が藩の家臣では無い豚面は、一人彼ら本職の力士に引けを取らない力と技で一番一番互角以上の勝負を繰り広げた。
豚面は体格的には恵まれているとは言い難く、その背丈は五尺三寸に僅かに届かず、前世の相撲であれば身長不足で力士になる事は出来ない程度だ。
だがその小柄な体躯に見合わぬ剛力を超えた怪力とも言うに相応しい腕力と、それを活かす為の技術を見せつけた。
結果、最初に組み合った馬蓮は彼を舐めていたのだろう、あっさりと間に寄り切られ。
それを見た柿布は慎重な取り口を見せたが、思い切りが足りなすぎたのだろう、がっぷり四つに組み合ったまま体力を絞る様な取組となり、最終的に豚面が釣り出した。
最後に岡太と組み合った際には、使い果たした体力が回復しきって居なかった様で、今度は豚面があっという間に押し出され、最終的に三十七回の練習試合で、彼ら三人に勝ったのは僅か四回と言う結果だった。
まるで魚河岸の様に力なく横たわる我が藩の家臣達を見回しながら、
「アレと闘るのは、流石に麻呂達には無理でおじゃるな。まだまだ子供の身体が恨めしいでおじゃる……」
そう呟く信三郎兄上の表情は、言葉とは裏腹に明らかな安堵の色を見せていた。




