二百十五 志七郎、隠れ屋へと至り母呆れる事
「いつまでも立ち話ってのもなんでしょ、そちらのお角力さんもおいでなさい。近くに良い見世があるから」
母上は一目見て此方で『何か』有った事を察したらしく、皆まで聞かずそう言って俺達を先導して歩き出した。
目抜き通りを外れ路地へと入り、入り組んだ道を勝手知ったるとばかりに迷う事無く進んで行った先、貧乏長屋に囲まれた一角のこんな所に見世が有るのかと疑わしく成るような場所に、その場所には似つかわしく無い豪奢な門構えが通りからは隠れる様に建っていた。
とは言え看板も暖簾も出ていないそれは見世には見えず、どこかの武家のご隠居さんが暮らす為に建てられた『中屋敷』そんな佇まいに思えた。
「ここはね何処の派閥にも属さず中立公平で、中で有った事が外に漏れる事の無い口固さが売りの『お忍びの中のお忍び』とでも言うような見世なのよ」
母上曰く、大名や幕府重臣等は時に派閥の垣根を超えての密談が必要な場合というのも時には有り、そういう時に使われる見世なのだそうだ。
前世でも政治家や官僚等が密談をする時には口の固い『高級料亭』の類を利用する事が有ったが、それと同じ様な物かと思えば不思議は無いだろう。
とは言え一般的な料亭はそれぞれがそれぞれに『支持大名』が居たり『お得意様』が居たりと、必ずしも『中立』の立場で営業しているとは限ら無い。
その為、人目を憚る必要がある時には夜、川に『船』を二艘浮かべ、偶然を装って並走させて……と言うのが一般的なのだが、天気や季節の都合でそれが難しい場合も有る。
そんな時に利用されるのが、此処のような『名も無き料亭』なのだそうだ。
「江戸には幾つか有るけれども此処はそんな中の一つ、政の都合で使う事も有るだろうし……逢引きにも使えるわよ?」
若い頃父上やその恋敵との逢瀬に来た事が有るのだと、いたずらっぽく笑いながら母上はそう言った。
男女の逢瀬を専門とする様な『出会茶屋』と言う物も有るらしいが、そこは完全に親密な男女が行く場所で、此方はそこまで重い場所では無いのだそうだ。
子供たちが居るので母上は敢えて暈しているが、俺の感覚で例えるならば『出会茶屋』はラブホテル、対して此方はデートにも使える隠れ家的飲食店……と言った所だろうか?
「さ、さっさと入りましょう。長く外に居ればせっかくの隠れ屋の意味が無いわいな」
どうやら母上以外に唯一この手の見世に来た経験が有るらしい津母の方がそう促した。
敷地の中は庭園の様になっており、その中に幾つかの建物が独立して建てられていた、俺達が案内されたのはその内の一つで蓮が無数に咲き誇る池の上に、浮かぶように建てられた美しい建物だった。
どうやらメニューは季節と時間帯で固定らしく、案内役の中居さんは母上が人数を告げ心付けを渡すと即座に去って行き、暫くも待たない内に飲み物と茶菓子が運ばれて来る。
「さて、これで夕食時までは誰も来ないわ……何が有ったか、詳しく聞かせて貰いましょうか……」
夕食を済ませてから帰るという連絡は、見世から各家へと使い走りを立てさせ、その分心付けを多めに弾んだらしい。
そして例え中居の口固さが折り紙付きだとしても、他所に余計な事を聞かせるつもりは無い、と母上は彼女達が離れるのを待ってそう言った。
「それは……」
「あれはもう手打ちも済んでござる故、母上が気にされる必要は……」
無かった事とあの場で手打が済んだ事とは言え、そう問われて隠し立てするのも何かが違う俺にはそう思えたのだが、メインの当事者で有る兄上達二人は、言い辛そうに口篭りながらもそう答えた。
「何を言うてはりますの。無かった事って言うたかて、そんなんただの口約束やないの。それに人の口に戸は建てられへんのや、野次馬連中の口から面白可笑しく噂に成ってから、義母様の耳に入ったかて遅いんよ!」
「そーだよ。唯でさえ猪山と雑貨は古くから因縁が有るんだ。あの場では丸く収まっても、それを切っ掛けにまた余計な火種が燃えないとも限らないじゃないかぃ」
だがどうやら義姉上達は俺と同じ意見だった様で、そう言って包み隠さず話す事を提案する。
「だが……」
「しかし……のう」
それでも歯切れ悪く言葉を濁す二人、仁一郎兄上はまだ二十歳を回ったばかりで義二郎兄上も十七と武士である事を除いても、男として見栄を貼りたい年頃で有る、婚約者とは言え女性に促されて母親に失態を話すというのは中々に酷であろう。
「しーちゃん……お前なら事の次第を簡潔にまとめて説明出来るでしょ? お願いするわ」
それは当然母上も解っている様で一つ小さなため息を付き俺へと話を振る。
今ここに居る他の子共達もそのくらいは出来る程度には聡いだろうが、今回の揉め事は我が家がメインの内容なので俺に振ったのだろう。
一応二人を立てる訳では無いが身内で恨みを買うのも困るので、答える前に視線をそちらに向けると、止め立てする事は出来ないと悟っては居るが自分からは言い辛い、そんな事が顔に書いてある様だった。
「どうやら兄上達では言い辛いみたいですから……」
と前置きし、先ほどまでの揉め事を掻い摘んで説明する。
「……呆れた。事を大きくしたのは仁一郎、お前じゃないか」
一通りの説明を聞いた上で、母上は怒りを通り越して心底呆れた……とそう言った。
「そもそも酒の上での喧嘩で、その尻拭いを私と笹葉がどれほどしたと思ってるんだい? 今更隠し立てする様な事じゃないじゃないか。それをわざわざ戦争なんて言葉を口にして煽ってどうするんだい」
仁一郎兄上が酒を文字通り溺れる程に呑む『笊を通り越して枠』などと言われる質なのは周知の事実で有る。
だがそれは酔わないと言う事では無く、飽く迄も潰れる事無く呑み続ける事が出来ると言うだけで、酒が原因の喧嘩や揉め事を幾度と無く起こして来たのだと言う。
それが何故今回は……と言えば、義二郎兄上が怪我を負った事事体が仁一郎兄上の醜態を庇っての事で有り、弟を庇うと言う大義名分を口にしながら、その実態は己の醜態を笑われた事に怒りを覚えた結果……と母上は指摘した。
「それに義二郎、お前も今まで勝手気ままにあたり構わず喧嘩を売り歩いて来たのよ。そのお前が片腕を落としたんだ、仕返しを狙う連中が出てくるのは当然でしょう? 自業自得さね……とは言えそれを一々買ってたんじゃぁ家に迷惑が掛かるってもんさねぇ……」
一郎翁は有りとあらゆる喧嘩や勝負を全て買い、また自分が気に入らないと思った相手には積極的に喧嘩を売ってきた、そしてそれに概ね勝ち抜いたからこそ『一郎だからしょうが無い』とまで言われるに至ったのだ。
対して義二郎兄上はまだ若く、そこまで至っているとは言い難い。
特に年頭には鈴木伏虎に公衆の面前で敗北し『鬼二郎は言うほど強くないのでは?』と言う世論が出来つつある状況に成り、そんな噂が下地に成って『辻斬り如きに片腕を失った』と言う嘲笑に繋がったのだそうだ。
「お前達の間では無かった事……で済むかも知れ無いが、千代女殿に瞳殿の言う通り、先方の上の方にも話を通さないと色々と面倒な事が起こりかね無い話さね……、さてどうした物か……」
「そやったら、そこのお角力さんに力借りたらええんちゃいます? 仁様の失態はウチの失態も一緒や。河中にも良えお角力さんが居はるし、勝ち負けに賭けを絡めて持ちかけたら、お互い角を立てんと詫び銭をやり取り出来ますやろ」
説教はまた後で……と後始末に付いて考えを巡らせ初めた母上に、千代女義姉上がにやりと裏の有りそうな笑顔でそう提案した。




