二百十一 『忠根子間仇討奇譚』完結編
若旦那が母に刃を向け、足音も高らかに一歩強く踏み込むと、舞台を見つめる観客が一斉に喉を鳴らし手に汗を握った。
前世の生活の中で様々なエンターテイメントに触れる事が有った俺は、比較的冷静さを保って居るが娯楽に飢えた江戸の人々にとってはかなり過激なシーンの様だ。
考えてみれば『忠孝』を何よりも重んずる火元国では子は親の所有物に過ぎず、子が親に逆らうと言う事事体が言語道断で有り、親殺しは重罪で有っても子殺しは比較的軽微な罪として扱われる社会なのだ。
そんな中に有って、例え愛した女の為と言えども母に刃を向けると言うのは、例え芝居だとしてもショッキングな出来事だろう。
親殺し子殺しが日常的に報道されていた前世の日本で、さらにその中で毎日様々な事件に触れてきた俺には『良くある話』でも、この国の人々にはセンセーショナルな物語と成るらしい。
と、そんな感想を俺が抱いているのを他所に、刃金と刃金がぶつかり合う鋭い音が舞台上から響き渡った。
舞台の奥に設置されていた襖の一枚が斜めに切れ落ち、その向こうからあの碌でなしを斬った用心棒が現れたのである。
「「先生!?」」
母と子、異口同音にそんな声を上げたがその言葉に篭っている感情は対照的で、母はこれで助かったと言う安堵が、子は厄介な相手が出て来たと言う苦々しさが、表情を見るまでも無くはっきりと伝わって来るほどだった。
「邪魔立てしねぇでおくんなせぇ、アンタは其処の女に使われただけだ。あっしが欲しいのはその女の命だけでござんす……」
下から上へと跳ね上げられた刀に合口を弾き飛ばされ、手首を抑えながらそう言うが
「……悪いがそういう訳には行かぬ。拙者の雇主はお主では無くこの女、例えお前がこの女の息子であろうとも、主君を殺させる訳には行かぬでな」
用心棒は静かにそう言いながら刀を返し八相に構える。
「この子はあの小娘に惑わされてるだけなんだ。先生、悪いがこの子に仕置き……けれども私の大事な一人息子……やり過ぎないでおくれ」
そんな女将の言葉に用心棒はため息一つ付いて刀の峰を返す。
「無傷……と言う訳には行かぬぞ?」
そう言って袈裟に振り下ろした刀を、若旦那は大きく飛び退いて身を躱し、
「……先生、どうしてもその女を庇い立てするってぇなら、あんたにも覚悟をしてもらうぜぇ?」
片肌脱いで床を強く踏み付け見得を切り、それから高く高く舞台の上から消える程に高く飛び上がった。
そして天井から落ちてくる彼の様に白い影が用心棒に襲いかかる。
刃がぶつかり合う音が幾度と無く響き渡る、余りにも素早く飛び回る姿は常人の目では捉えきれず、ただ無数の白線が舞った様にしか見えないだろう。
が、氣を殆ど無意識に纏う習慣が身についてきた俺の眼には、その姿がはっきりと写っていた。
小松である。
小さなその身で縦横無尽に飛び回り不規則に攻め立てるその技は、もしも実戦で相手取るならば相当手こずるだろう、見えはしてもアレを相手に出来る程の速さが今の俺には足りないのだ。
どうやら用心棒もその辺は俺と然程変わらぬ様で、受け止め捌き躱すのが手一杯で反撃を試みる余裕は無さそうである。
用心棒と小松の攻防に観客の全ての視線が集まった……その瞬間だった。
舞台袖から突如飛び出した若旦那が、女将を背後から刺したのだ。
貫かれた女将はそのまま後ろへと倒れこみ、若旦那の腕の中へと抱かれる。
「お松が奉公に来て以来『何処に嫁にやっても恥ずかしく無い様に……』そう言ってあの子を躾けたのは、おっかさん……アンタだったじゃ無いですかい……」
愛おしい女性を殺める糸を引いたのは間違い無いだろう、だが同時に彼女が母だった事も間違い無い事だった。
流れ落ちる血と共に少しずつ重さを増していく母の亡骸を抱きしめて、若旦那は一滴の涙を零す。
力無く伸ばされた女将の指がそっと彼の頬を撫で涙を拭い、
「……ああ、そうだったねぇ。なんでこんな真似をしちまったんだろうねぇ……。お前にもあの子達にも……謝らなきゃいけないねぇ……。向こうで謝れるかねぇ……、きっと無理だねぇ……あの子等とあてくしじゃぁ……逝く所が違わぁねぇ……」
途切れ途切れのか細い……だが、小屋中に響き渡るよく通る声で、そう呟き、
「お前が向こうであの子に会ったら、代わりに謝って置いてくれるかぇ? ……お前さん、我儘な女で済まないねぇ……最期まで迷惑を掛け通しで……済まないねぇ……」
伸ばされた腕が落ち……静かに事切れた。
「如何なる故があろうとも、尊属を殺めて許される事は有りゃしねぇ……」
母を貫いた合口を高く掲げて自らの喉へと向ける。
それが突き刺さるよりも早く、振りぬかれた刀が合口を跳ね飛ばす。
無論、小松の猛攻を受けながらその様な事をすれば無防備を晒す事に成る、用心棒は小さな猫の爪と言うには鋭く重すぎる一撃を受ける事を覚悟してそれをした。
「主君を討ち取られた以上、生き恥を晒す理由は無い。それが自業自得故の死で有るならば尚更の事……、主の最期の命令はお前を殺すなだったからな……。如何なる縁か知らぬが化け猫よ、我ら二人の命で満足しておけ……これ以上は殺めるな……」
そうとだけ言うと用心棒は再びその刀を振るう……と舞台が暗転し、鮮血が飛び散る影絵が舞台を染め上げた。
再び舞台に灯りが灯ると、其処には巨大な……虎と見紛う程の大きな猫と、直立した白い猫――小松が向き合い立っていた。
「……小松よ、根子間が直接人を傷つける事は許さぬ。そう申し付けた筈だったな?」
大きな猫は先程の影絵で現れた時と同様に威厳に満ちた声でそう言った。
「子に親殺しをさせておいて、自分は安全な所で高みの見物……それじゃぁあの女と同じじゃニャぁですかい。ニャーは仇さえ討てりゃぁ命も魂も要らねぇと……そう思ってたんだから当然の結末ですわ」
本当ならば、女将も自分が仕留めあの青年に手を汚させるつもりは無かった……と小松は淋しげにそう口にした。
ただ罪を自覚させ、苦しんで欲しくて若旦那を利用したと言うのだ。
だが、小松が思っていた以上にお松に対する若旦那の愛情が深かった、それ故に親殺しと言う大罪を犯させてしまった。
「とは言え、結局荷物を駄目にしたのが原因で、紐儂屋はお取り潰しに成っちまったし、結局あの親子も死罪……お前が手を汚したのは無駄な事で有ったな」
十両盗めば死罪と言うこの江戸で千両を越える損害を出せば只では済まない、無論補填する宛が有れば金銭的な損害だけで死罪と成るわけでは無いが、この場合には幕府への献上品を駄目にしたと言うのが大きな理由である。
「確かに無駄かもしれニャーけれど、ニャーの気持ちは晴れやした。後はあの母子の来世に幸が有りゃ万々歳ですニャ」
武士の仇討は武士としての面子を保ち、その家名を守るために必須となる制度上の物で有る、だが彼ら猫又の……いや根子間の仇討は飽く迄も本人の思いを晴らす為の物に過ぎないと小松は言い切った。
「だとしても、其方が猫の理を外れた以上、何の処罰もせぬ訳にも行かぬ。小松よ……其方の言う通り命も魂もこの世界に置いておく事は出来ぬ。千の時を掛け万の距離を歩もうとも辿り着けぬ、そんな場所へと追放とする……」
「へぇ……ご温情有難う御座いやす。あの母子の墓に参る事が出来ニャぁのは少し心残りじゃぁ有りやすが……」
小松が最後まで言い切らぬ内にその姿が唐突に消えた、それは猫の神により彼が追放された瞬間だったのだろう。
「千の時、万の距離それ以上の彼方ならば、生まれ変わりと会うことも叶うやも知れぬな」
小松を見下ろしていた猫の神が天を見上げて、そう呟いた。
舞台を照らしていた全ての灯りが消え、二組の母子とその傍らに座る猫の姿が影絵に浮かび……やがて消えていった。




