二百十 『忠根子間仇討奇譚』怒涛編
「ありゃぁ。旦那さんこっちの当たり目もダメですわ。片っ端から齧られてらぁ」
「こっちの昆布も全滅だぁ、包みごとズタズタだぁ」
「うわぁ……鮑に鱶鰭もやられてらぁ……」
蔵に積み上げられた品々を見聞し、ため息を付いているのは紐儂屋の番頭手代の面々だろう。
「なんだってまぁ、家の蔵にだけこんな阿呆程ネズミが湧いたんだろうねぇ……。せっかく北前船から仕入れた品物が殆ど全滅じゃぁないか……」
言葉通り、無数に並ぶ木箱や俵その大半が食い破られ、見るも無残な惨状が舞台の上には有った。
「ネズミ避けの猫絵も片っ端から破られてますよ……、ありゃ鏝絵の猫も綺麗に割れてらぁ……」
ネズミ避けには猫……これは前世の世界でも此方の世界でも変わらぬ事だ。
食い物を商う様な見世では猫の毛が商品に入るのを嫌い猫そのものを飼わずに、猫の姿絵を張る事でネズミ避けのお守りとする……そんな事が日常的に行われているのだと言う。
前世の世界の江戸にもそんな風習が有ったと聞いた覚えはある、だが此方の世界の猫絵はただの迷信やプラシーボでは無いらしく、優れた絵師のソレには魂が宿り実際にネズミを食らう事すら有るのだそうだ。
無論、大店の紐儂屋が蔵に飾るソレをケチる様な真似をする筈もなく、柱や壁に張られた猫の絵は色使いも鮮やかで如何にもお高そうな絵に見える。
だがそれらは舞台の演出の為とは言え、見るも無残に破られ切り裂かれていた。
「絵も品も決して安い物じゃぁねぇだんがなぁ……、このお蔵が全滅となりゃぁ被害は千両を下りはしねぇ……。五八様方との約束の品も収められねぇと成りゃぁ、紐儂屋の信用も地に落ちる……何より上様への献上品がパァと有りゃ俺等の首も危ういかね」
ため息を付きながら首筋を手刀で叩き打首を示唆する旦那さん。
「滅多な事を言わんで下さいな。旦那様が打首だってんなら、あっしら奉公人だってタダじゃ済まねぇ話じゃねぇですか……。それにしてもなんだってこんな事に成ったんだか……」
恐怖に身体を震わせてそう言ったのは、旦那と同年代に見える番頭だった。
「俺っちが婿に入って二十年、今までこんな事ぁ無かったんだがねぇ……恨み辛みを買って祟られる様な無体な商売をした覚えも無い……、先代様の言う通り損して得取れを信条としてきたってのにどうしてこんな事に成ったんだか……」
どうやらこの旦那さん、元々は番頭と同じく奉公人で女将と結婚して見世を継いだ、と言う立場らしい。
一通りの被害を確認し終わったのか、彼らは舞台袖へと消えていく。
そして天井から落ちてくる一匹の白い猫、無論小松である。
「根子間が人を直接殺めちゃ行けねぇってのが世の理と、猫神様に言われたからにはしょうが無い……。そう思っては居たけれど、なんだかんだでこの方法だって十分えげつニャぁ手じゃニャーか」
彼は二本足で立ち上がり、肩を竦めながらヤレヤレと言わんばかりに首を振ってそう口にする。
その言葉に拠れば、猫絵や猫を象った鏝絵と呼ばれるレリーフを破壊し、近隣のネズミをこの蔵に追い込んだのは彼と、彼に協力する猫達だと言う事だった。
直接手を出すのが禁止だと言うならば、間接的に締め上げれば良い……と猫神が彼に授けた策、それがコレである。
人間は銭の為に同族でも殺す稀有な生き物で有る、そして銭が無ければ死ぬしか無いのが人間と言う生き物なのだ。
相手が間接的に銭で殺された、と言うならば此方も銭で間接的に殺してやれば良い……そう言われ半信半疑で行った事で有ったが、効果の程は小松が考えて居たよりも随分と深刻そうに思えた。
「こりゃぁ……あの糞婆も最期にゃぁ死ぬるだろうが、それ以外にも随分と多くの人間がくたばるんじゃねぇかニャ? 流石にやり過ぎ……てニャ気もするが……」
基本的に善良だったあの二人に育てられた小松もまた善良な心根の持ち主らしく、二人を殺させた女将とその用心棒を相手に恨みを晴らそうとは思えども、紐儂屋に関わる全ての人間を殺すのは筋が違う……と考えているらしい。
「おや……誰か居るのかい? まさかと思うが、蔵を台無しにしたネズ公共の親玉じゃぁねぇだろうな?」
蔵の中一匹で腕を組んで悩んでいると、小松の声を聞きつけた様子で若旦那が舞台へと上がって来た……所で暗転した。
次に灯りが灯されると、舞台は再び紐儂屋の奥向きらしい座敷へと変わっていた。
肘掛けに寄りかかりしだらない格好で煙管を燻らせる女将と、対照的に生真面目そうな姿で文机に向う若旦那の姿がそこにはあった。
「お前にぴったりな娘さんが居るんだぇ、先方も我が紐儂屋と縁付けるってんで大乗り気さね。明日にでも一席設けるからね、今日は髪結いを呼んで流行りの髷でも結って貰うんだよ」
女将は猫撫で声とでも称する様な甘い声で息子にそう言う。
「……お松とその母……あっしの好い人とそのおっかっさんが逝んで、喪どころか四十九日も明けぬ内から斯様な話を持ち込むたぁ……義理も人情もへったくれも有りゃしねぇ」
だが若旦那は母の言葉に視線をやる事すら無く、吐き捨てる様に言いながら帳面仕事を静かに続けている。
「なんだい! 母親に向かってその物言い! いったい誰に育てて貰ったと思ってるんだい!?」
威圧のつもりだろうか煙管を灰皿に打ち付ける音も高らかに気炎を上げる女将だったが、
「てやんでぇ! こちとら忘八にも劣る様な腐れ外道を親に持った覚えはねぇ! 百歩譲った所で親父に育てて貰った覚えは有っても、御前様にゃぁ育てるって程の事ぁされた覚えは毛微塵ほども有りゃせんわ!」
文机を蹴り飛ばしながら立ち上がりそう言い返した若旦那、その表情は鬼か般若と見紛うばかりに怒り満面に歪んでいる。
「何時までも何も知らねぇガキだとでも思ってたのかい? この糞婆ぁ! 聞けばお松とおっかさんを殺った下手人は墨田川に浮かんだってな話じゃねぇか。思い返せばあっしが拾った子犬も懐いた乳母も、アンタが気に入らない者は皆墨田に浮いたモンだわな!?」
足音も高らかに一歩踏み出し片肌脱いで、凄んで見せる若旦那。
「な、何を馬鹿な事をお言いだよ、あてくしの様な手弱女が斯様な恐ろし気な真似など出来よう筈が有りゃせんわいな。それにお松達を殺めたは物取りは奪った銭を見せびらかして、更に物取りに襲われた……てのがお奉行様の見解だっただろう?」
気圧された様に袂で口元を隠し、弱々し気に振るまいながらもそう反論するが、
「……誰も見てねぇと思ってたんだろうがね……その物取りを用心棒に命じて柳の下で斬らせたのを、見ていたお方が居たんだよ……」
柳の下と言う、現場を匂わせるキーワードが出た事で、その言葉通り目撃者が居た事を確信したらしく、女将は一瞬身体を硬直させた。
「真逆たぁ……思ったが、本気でお袋が糸を引いてやがったか……」
実の母親がそんな外道な真似をしていた……と、信じたくないと言う思いも有ったのだろう、母親の態度に強いショックを受けた様に二歩三歩とたたらを踏み……それから地に手足を付いてがっくりと項垂れた。
「……あてくしは……あてくしはお前の為を思って……、あの女の父親はたかが五両ぽっちの銭で母子を殺す様な下衆だった……、そんな男の血を引く女をお前の嫁になんざぁ、出来よう筈が有りゃしませんぇ?」
母として子を心配して……そう口にしつつ彼女は崩れ落ちた息子に膝を付いたままにじり寄り、そっと優しく背に手を乗せる。
「触るんじゃねぇやぃ汚らわしい! 何があっしの為だぁ、何時何時あっしがそんな事ぁ頼んだよ!? あっしの為だと言うならば、何時まで経ってもあっしが来ねぇとお松が迷いでる前に、逝んで詫びの一つも入れておくんなせぇ!」
そう言って母の手を打ち払った彼の手には、鈍く輝く合口が握られていた。




