二百九 『忠根子間仇討奇譚』疾風編
舞台中央が再び照らされるとそこには一本の柳の木が立っており、その木陰に隠れる様に頭巾で顔を隠した女が佇ずんでいた。
「随分と遅かったじゃないか、何処で油売ってたんだい……って湯屋にでも行ってきたのかい? 見違えたよ」
女が振り返りそう声を掛けた先には、髪と髭を綺麗に整えボロ布では無く下品なまでに派手な着流しを身に纏った、そんな男が悠然とした足取りでやって来た。
「ガッハッハ、あの女思った以上に溜め込んでやがったからな。折角良い事を教えてくれたお人に会うってんだ、多少は身奇麗にしようと思ってな」
その装いに負けず劣らず下品な笑い声を上げながらそう答えたのは、母子を殺め彼女達が貯めていた銭を奪ったあの男だ。
「見ろよほら、こんな大きな甕一杯の小判なんざぁ初めて見るぜ! これでお前さんから貰う、約束の五両も合わせりゃ暫くは博打三昧酒三昧出来るぜぇ」
左の脇に抱えた人の頭ほどの大きさの甕を見せ付ける様に晒しながら、男はさっさと銭を寄越せと言わんばかりに右手を突き出した。
「折角身奇麗にしたってのに性根は相変わらず下衆な男だねぇ。手前の女房子供を殺めてきたってのに悪びれる素振りも無しかい。本にお前の様な男の血を引く娘が家の嫁なんて事に成らなくて良かったよ」
そんな男を嘲笑い、そう言いながら女は懐から取り出した財布から金色に輝く小判を五枚取り出す。
「そんな下衆にこんな下衆な仕事を頼むなんざぁお前だって、立派な下衆じゃぁねぇかい。それによく見りゃその財布にゃぁまだまだ幾らも入ってそうだわなぁ……此処まで来れば二人も三人も同じ事……か?」
嘲られた事で腹を立てたのか、それとも言葉通り五両を出してもまだ重そうな財布に眼が眩んだのか、男は剣呑な台詞を吐きながら右手を懐へと突っ込む。
だが男が動くよりも、女が手にした五両を男の足元へと放り投げる方が早かった。
甲高い音を立てて地に落ちた小判に男は思わず目を向けた、その時だった。
か細い柳の陰からゆらりと影か煙の如く現れた輪郭も不確かな何者かが、足元へと視線をやるために頭を下げた男の首を一刀両断に跳ね飛ばし、蹴倒された身体が何処かへと転げ落ち、川に岩を投げ込んだ様な水音が響き渡ったのだ。
いや、実際に跳ね飛ばした訳では無い、振り下ろされた刀もあの光具合から察するに竹光だろう、しかしその担い手が繰り出した気迫の篭った一振りは斬り殺された男の姿を幻視させるには十分だった。
唐突に何の前触れも無く現れたその男は、刀に付いた血糊を振り払うと音も立てずに納刀し、
「……また、つまらぬ者を斬ってしまった」
とそう呟いた。
「流石は先生、相も変わらず見事な腕前です事……。それにしてもこの男、本に間抜けとしか言いようが有りゃせんわいなぁ。上手い話にゃぁ裏が有る、真っ当に儲かる筈が無い……そんな事ぁ、子供でも解る事だろうに」
恐らく彼は凄腕の用心棒と言った立ち位置なのだろう、目の前で人を殺めた男が居ると言うのに女は怯える素振り一つ見せずに斬り捨てられた男が落ちた方向へと視線を飛ばしてからそう口にした。
「……そんな子供でも解る様な事すら解らぬ様な愚か者だからこそ、妻子を殺す様な真似が出来たのであろう。咎無き者を斬れば我が身に咎が刻まれる、故に間に下衆を挟むは常套手段、ああいう愚か者が居らぬ様に成れば商売上がったりだがな」
罪を犯せばその罪は魂に刻まれ手形を改めればソレが確認出来てしまうこの世界だが、斬り捨てたのが罪人であればその限りでは無い。
それを利用して依頼殺人からの口封じと言うコンボは良く有る……とまでは言わないが、それでも犯罪捜査の大部分を手形改めに依存しているこの火元国では、真犯人に到達するのが難しく成る手法かも知れない。
「さて……あの愚図が来るのが遅かった所為で、予定よりも大分遅く成ってしまったわ。人目に付く事は無いとは思うけれども……さっさと帰りましょうか」
女がそう言って身を翻すと、用心棒の男は物言わず頷き再び柳の陰へと身を潜めた。
二人が舞台の上から姿を消すと、舞台の袖に龕灯が当てられる。
「……そういう事か、おのれ紐儂屋……全ての糸を引いていたのは、あの鬼婆か!」
そこには一匹の白い猫が身を隠す様に伏せて居り、二人が完全に居なくなったのを見計らって立ち上がりそう気勢を上げた。
「だが……だがしかし所詮は猫の我が身、あれほどの達人を抱えたあの店に如何にすれば、仇討など出来ようか……。せめて御山で修行をして居れば良かったのだがニャァ……」
けれどもそれもつかの間、悔しそうにそう言ったのは小松と名付けられたあの猫である。
「猫の神様、猫の仙人様……ニャーの願いが聞こえて居りますれば、どうかどうか……ニャーに復讐を遂げる力をお貸し下さいませ!」
跪き両前足を合わせて天に祈る小松、するとどうだろう地響きの様な太鼓の音が建物の中に響き渡り、雷の様な光が二度三度と舞台を照らし出し、柳の木が燃え上がった。
炎に包まれた柳から立ち上る煙の中に巨大な獣の影が映し出される。
「小松よ……我は猫の神也……。其方の苦渋に満ちたる願い我が元に確かに届いた」
その声は建物中に響き渡り、何処から喋っているのか判然としない不思議な物だった。
そしてその言葉に篭った威厳やおどろおどろしさは、観客の息を飲ませるには十分な物である。
前世に多くのエンターテイメントに触れてきた俺ですらも、その雰囲気に呑まれ思わず手に汗を握って居るのだから本当に大した物だ。
「されど仇討は猫又に成って初めて認められる、十年の時を生き十月十日の修練を積んで初めて許されるのだ。ただ生きただけの根子間に過ぎぬ貴様には許されぬ事よ」
猫は十年の年月を生きて霊力を身に着け根子間と成り、更に十月十日の間根子ヶ岳を初めとした『猫の御山』で修行を遂げて初めて猫又と成るのだそうだ。
猫魔と猫又の間には決して小さくない力の差が有り、また出来る事許される事にも大きな差が有るのだと言う。
それを逸脱すると言う事は猫王に逆らうと言う事で有り、また力を持たない猫達が人間達に排除される原因とも成りかねないと言う事も有り、あらゆる方法を用いて阻止されるのが猫達の法なのである。
「……そこを何とか! 十月十日では無く十日位に負かりませんか? それほど長い月日御二方の御霊を無念の海に沈めたままにするのは、余りにも忍びないのです」
「修行を負けろとは話に成らぬ……が、恩を受けた者の無念を晴らしたいと願うその心根は真当な物、なんとかしてやりたいのが猫の情という物では有るが……」
勝手気ままに生きてる様で猫にも強い情が有る、その情を鑑みれば例え法を捻じ曲げてでも小松の願いを聞き入れたい、猫の神はそう言っているのだ。
だが神といえどもおいそれと特例を認めていては秩序は維持出来ない。
「……仇討が成就したニャらば、ニャーの命も魂も差し出したって構いやしませぬ。何卒、何卒どうかお力添えをお願い致します!」
土下座する猫と言うなんともシュールな絵面では有るが、芝居とは言え彼は真摯で真剣だった。
「そこまで言うならば仕様が有るまい……根子間のままで許されるぎりぎり仇討ち、その策を授けよう……されどその枠を越えた時にはその言葉の通り、命も魂もこの世にあり続ける事は出来ぬと心得よ」
その態度に心動かされた……と言う事だろう、猫の神はそう言うと姿を消し燃え上がっていた柳の木は、何事も無かった彼の様に元の姿で物言わず立っていた。




