二百八 『忠根子間仇討奇譚』後編
「いょっ! 伝志郎!」
「伊達男!」
「火元一ィ!」
踏み込む足音も高らかに片肌脱いで力瘤を見せ付ける、そんな大見得を切ってみせた若旦那役――伝志郎と言う役者らしい――に向かって、そんな掛け声と共に無数のお捻りが飛んで行く。
これが大芝居であれば役者の個人名を呼ぶのは無礼に当たるとの事で、屋号や異名で掛け声を掛けるのだそうだが、こういった小芝居の一座の場合その大半が家族だったり弟子だったりで屋号が同じ、苗字は武士の特権なので結局名前を呼ぶしか無いと言う事になる。
中には小芝居で人気を博し大芝居の一座に引き抜かれていく役者が居ない訳では無く、そういう場合は小芝居一座の屋号を背負って大芝居に立つ……と言う事に成るらしい。
とはいえ一子相伝が常識だと言う芸事の世界、そんな立身出世は極めて稀な話で、少なくとも江戸四座が成立してからは『花吹屋 玉重郎』という役者の一人しか成し得ていない事だそうだ。
飛び交うお捻りが一段落するのを待ってか、全体を照らす灯りが消え舞台下座に龕灯が当てられる。
そこに現れたのは、小汚いぼろを纏い髪も髭も伸び放題な、如何にも山賊盗賊の類で御座い、と言わんばかりの男だった。
男は何かを探す様に二度三度と辺りを見回し、それから嫌らしい笑みを浮かべ悠然と歩き出す。
その視線の先を示す様に向けられた灯りの中にはお松の母親が居た。
「ようよう、やっと見つけたぜぇ! お前が逃げて十と余年、酒も飲めず博打も打てず足を棒にして探した甲斐が有ったってモンだぜ、なぁおい!」
男は彼女に声も掛けずに駆け寄ると、行き成りその襟首を掴まえ無理やり引き倒してからそう言った。
「ちょいと、行き成り何をするんだい! 何処の何方様かぁ知らないが、こんな無体な真似をして御奉行様が黙っちゃいないよ!」
身を捩り、その腕から逃れつつ乱れた着物を抑えそう言うが、
「へん! お前の旦那の面も忘れちまったってか? だが生憎、オイラはお前と離縁した積りなんざ無いんでな。聞いた話じゃお前の産んだオイラのガキゃ大店に奉公してるってな話じゃねぇか」
男は彼女の言葉を意に介した様子も無く、胸倉を掴み地面へと叩きつける様にして押し倒す。
「ま、まさか!? まさかお前さん……なんで!? どうして此処に!?」
恐怖と驚きに表情を歪めるのが、この距離でもはっきりと解った。
いやはっきりと見えている訳では無い、だがソレが見ている誰もが理解出来るそれほどの演技だったのだ。
「親切なお人が教えてくれたのよぉ、離縁状も持たねぇ女が髪結いをして父無し子を育て、そのガキが大店の奉公人に成ったてさぁ。しかもそのガキゃ若旦那を咥え込んで夫婦に成ろうってな話らしいじゃねぇか」
乾いた音を響かせて男は彼女の頬を打ち、
「しかも奉公に出したのは五年も前、今でもこんな見窄らしい長屋住まいって事ぁ、稼ぎの大半を貯めこんでんだろぉ? 折角の娘の縁談なんだ持参金を少しでも多くするのに、協力してやろうじゃぁねぇか」
それから顔を寄せ、懐柔するつもりなのか努めて優しい声色を作りそう持ちかける。
「ば、馬鹿をお言いで無いよ! お前さんの事だ、私の貯めこんだ銭で博打を打とうってんだろ!? その手にゃ乗りゃしないよ、アンタみたいな碌でなしに渡す銭なんざぁ一文ポッチも有りゃしないよ!」
だが流石に母は強しと言う事か、彼女は男の顔を張り返しながらそう叫んで突き飛ばした。
「ってぇ……なぁ……人が優しくしてやりゃ付け上がりやがって! お前は黙って銭を差し出しゃ良いんだよ!」
激昂した様子で懐から抜き出した合口を振りかざし、男が一歩踏み出したその時だ。
男の顔目掛け舞台の遥か高みから飛びかかる様にして小さな白い影が落ちてきた、立派な成猫へと成長した小松だった。
小松は男の頬に綺麗に一撃を決め、二人の間に着地すると全身の毛を逆立てて威嚇の声を上げる。
「……たかが畜生の分際で人間様の面を足蹴にするなんざぁ、飼い主に似て躾ってもんが成っちゃいねぇなぁ。皮ぁ剥いで三味屋に売っぱらっちまうか。大人しく銭をだしゃ命だけは見逃そうと思ったが、こうまで虚仮にされちゃぁしょうがねぇやな」
「小松! 私は良いからお前はお逃げ!」
汚らしく唾を吐き捨て、男は手にした合口を振り上げ……そこで舞台の灯りが落ちた。
数瞬も待たず舞台に灯りが灯されると場面は再び紐儂屋に移って居た。
ただ先ほどまでの豪華なセットでは無く、大きな紙に描かれた絵が背景に成っている。
「お松! お松は何処だ!」
そう叫んでいるのは、紐儂屋の奥方で有る。
「はい、義母様ただ今!」
血相を変えた、と言うしか無いような様子で呼びつける彼女に、そう返事を返しながらお松が箒を抱えてやって来る。
「どうしなさったのですか、義母様が声を荒げるなんて珍しい……」
困惑した様子で問いかけるお松に、
「良いかいお松、落ち着いて聞いておくれよ」
一つ二つと深呼吸してそう言うが、
「落ち着いて居ないのは義母様ですわ、いったい何が有ったと言うのです?」
微苦笑を浮かべてそう言い返された。
「……お前の、おっかさんが物取りに刺され……死んだそうだ……」
言い難そうに逡巡しそれでも言わねば成らぬと覚悟を決め、そう口にした。
何を言っているのか解らない、と言わんばかりに瞬きをし、
「嫌だ義母様、四月馬鹿にはちょいと季節がズレてますよ。それもそんな話で担ごうなんて縁起でも無い」
少々間を置いて言葉の意味は理解したが、それを事実と認められないと言う事か、そう言い返す。
「……お松、お前の気持ちは解るが、嘘や冗談で言える話じゃ無いだろう? お前の所は母一人子一人、嫁入り前では有るがお前はもう家の身内だ、葬式云々の世話は馬鹿息子にさせるから、お前は直ぐにおっかさんの所へ行っておやり」
奥方に促され店を出て駆けているお松。
その場に残った奥方がニヤリと悪辣そうな笑みを浮かべながら、彼女は滑る様にしてお松とは反対側へと消えていく。
駈け出したお松は、走っている筈の方向とは反対に舞台の真ん中へと進み、それと同時に背景の絵が動き出す。
どうやら大きな紙に描いた背景を動かす事でお松が移動していると言う表現の様だ。
そうして走る事しばし、再びお松が下手に向かって逆走りしていく、どうやら目的地へと付いたらしい。
「お、おっかさん!」
どうやって居るのかは解らないが、倒れたまま動かない女性が上手側から滑り出て来るのに合わせ、お松がそう叫び声を上げ駆け寄り抱き上げた。
「お、お松……どうして此処に? わ、私の事は良いからお前は早くお逃げ……」
最早助からぬ……演技の上での事とは解っているのに、その表情や声色には死相が有り有りと出ているのが感じ取れた。
「よぅ、お前がオイラの娘ってぇ奴か? お前のおっかさんは亭主の言う事も聞きやしねぇ愚図だったから、ついつい殺っちまった。あの糞猫にゃぁ逃げられたが、お前さえいりゃどうでもいいやな」
そんな懸命な母の忠告も、残念ながら一時遅かった。
紙に描かれた長屋の背景の扉部分が開き、中から男がそう言って現れそう言いながら合口を振りかざす。
「お前に生きてて貰っちゃぁ困るお人が居てな、お前の命の御足に五両たぁ張り込んだもんじゃあねぇか。ついでにこの糞女が貯めこんだ銭も頂いて行こうってな魂胆よ」
下卑た笑いと共に、合口が振り下ろされそして……またも灯りが落ちた……。
申し訳有りません、後編で終われませんでした……
次回より「疾風編」「怒涛編」そして「完結編」で……終われると良いなぁOTZ




