十九 志七郎、大江戸の海に巨大なる姿を見る事
木造の窓にガラスが無いこと以外、ほとんど現代の物と変わらぬ掘っ立て小屋がそこには有った、漁に使うのだろう網や綱、数珠繋ぎにつながれた壺は蛸壺だろうか、とにかく様々な漁具が外にも積み上がっている。
漁師小屋といえば付き物だと思っていたガラスや、プラスチックの浮き玉は流石に見当たらないが、俺がぱっと見で解る漁具は概ね揃っていそうだ。
そんな漁具の隙間を抜け小屋の戸を開けると、中では数人の漁師と思しき男達が囲炉裏を囲んで酒盛りをしていた。
「おぅ、なんだボウズ? お前さんにゃぁ酒はまだ早ぇぞ。腹が減ってるなら、ほれコッチの鍋位なら食っても良いぞ」
泥酔と言うほどでは無いのだろう、いい感じの酔いかたらしく誰一人として、平伏する者も居なければ、無駄に絡んでくる者も居ない。
「いえ、ここで銛を何本か借りてくるようにと、釣りをしている兄に言われまして……」
その一言に男達は弾かれた様に立ち上がった。
「釣りで銛だぁ? まさか外海でヤってんのか!?」
「なにぃ! そういう事なら、こんな安酒呑んじゃ居られねぇ!」
「おい! 他所の小屋にも応援頼んでこい! お武家様が大物狙ってるってなぁ!」
口々に歓声とも取れる声をあげ、皆が皆それぞれやるべき事は解っていると言わんばかりに、素早い連携で動き出す。
そうして持ちだされたのは、俺が思い描いていた『手持ちの銛』ではなく、大きなクロスボウ――その大きさはバリスタに近いだろうか?――の様なものに設置された物々しい、下手をしなくとも攻城兵器のそれであった。
……おいおい、鯨でも相手にするのかよ。
「儂ら漁師は外海での漁は禁止されとる。だが、お武家様のお零れに与るならば別だ! 外海の大物は一匹上げるだけでも、儂ら庶民ならば暫く働かなくていい位の稼ぎになる」
彼らのあまりの熱狂ぶりに面を食らっていた俺に、年嵩の漁師がそう解説してくれた。
だが、それだけの儲けが有るというのになぜ禁止されているのだろうか?
「外海の獲物はあまりにも危険でな、下手を打てば人死が出る。場合によっては近隣に迷惑をかけることにもなるからな。そうなった場合、庶民では責任が取れん。だからお武家様のお零れを狙うことになるんじゃ。それでも危険は無ではないがね」
よく見ればそう説明してくれた老漁師は、左足の膝から下が無く棒のような簡単な義足をつけている。
その口振りから察するに、彼が足を失ったのはその大物とやらを狙った故なのだろう。
それにしても、本当にこの身体は思っていることが表情に出やすいらしい……、多くの人が口に出していない疑問に答えてくれる。
まだ幼い内は良いだろうが、もう少し大きくなったらばそれが失態に繋がりかねない。一寸意識して顔に出さないよう訓練しよう。
釣りに行くとは思えぬ物々しい武装をした漁師たちを引き連れ兄上の元へと戻ると、既に魚信があったようで右へ左へと忙しなく竿を操りかかった魚との戦いを楽しんでいる様子であった。
「おお! 戻ったでおじゃるか……、この手応えはかなりの大物でおじゃる! 釣り上げたら即、頭を潰すでおじゃ!」
時折水面に映る巨大な魚影、そして弾ける尋常では無い量の水飛沫……、それらは兄上の言う通りかなり巨大な、それこそ怪獣と呼んでも差し支えないそんなバケモノが海中に居ることを知らしめている。
誰かがゴクリと喉を鳴らすのが分かった、それは巨大過ぎる獲物への恐怖故か、それともそれがもたらす富故か……。
「ぬぉじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁる!」
全身全霊を込めた雄叫びと共に、吹き荒れる猛々しい氣の奔流。
普段の稽古で見かけるゆらりとした湯気の様な氣とは段違いの、はっきりと目に見える焔のような氣が、爆発したかの如く激しく兄上の身体から吹き出していた。
そして高々と釣り竿が振り上げられ、巨大な……巨大過ぎる獲物が重々しい水音を上げ天高く舞い上がった。
「雷帝魚だ! 不用意に近づくな! お武家様の言う通り頭に銛をぶち込め!」
一瞬の沈黙の後、激しい地響きを立てて地面に落ちたそれに、誰一人として動じる事は無く漁師たちが動き出す。
雷帝魚、そう呼ばれた巨大な魚がその細長い(決して細いとは言えないが形状的に)身体をうねらせ跳ねまわる度に、地響きが起こり俺には立っているのも困難な状況だ。
だが漁師達はそんな事を気にも留めていないかのように、皆が動き出していた。
四方八方から打ち出される幾つもの銛が、何本かは弾かれたが大多数が魚の頭に突き刺さる。
中には眼球を貫いたり口の奥に刺さったりする物もあるが、それでも命を落とす様子は無く苦しげに身体をうねらせるだけだ。
……ああ、この大きさなら接近戦なんて危なくて出来はしないな。
先ほどの老漁師の言葉をそう理解したつもりになったその時、雷帝魚の身体を紫電が走り抜ける。
「!? 雷撃が来るでおじゃる! 皆、離れるでおじゃ!」
兄上の鋭く激しい叫びの直後、雷帝魚の身体から眩しい光が迸った。
殆どの者が忠告に従い距離を取って居たために無事だったが、濡れた足場を伝わった電撃に巻き込まれたらしく膝をついたり、倒れたりする者が何人か居た。
「雷撃は連続で打つことは出来ん! 近間の得物を持つ者は一気に仕留めろぉ!」
だが光が収まり誰かがそう叫ぶと、未だ元気にのたうち回るそれに巻き込まれる事を恐れた様子なく、男達がそれぞれの武器を手に突っ込んでいく。
「うぐぉ!」
無論俺も木刀を手に駆け出そうとしたが、先程の老漁師に襟首を捕まれ、そんな声を上げてしまう。
彼は足元に難があるためか、近接戦闘には参加せず銛撃ち機の担当らしい。
「そんな棒っ切れ一本で何をするつもりだ。せめて小屋から銛の一本くらいは持ってくればよかったろうに……」
言われてみれば突っ込んでいる者達は、三叉の矛や手持ちの銛、刀の様なものを手にしている者もいるが、全員に共通しているのは斬撃もしくは刺突武器であるという点だ。
確かにこの体格差では、打撃など殆ど効果は無いかもしれない。
それに比べれて小さくとも刃物ならば、多少なりと血を流し命を奪うことも出来そうだ。
見ていることしか出来ないのは歯痒いが、武器が状況にそぐわないのだから仕方がない。
だが兄上も武器らしきものは脇差し程度しか持っておらず、一応刃物とはいえその間合いは狭い、決して大人の体格とはいえぬ兄上が暴れまわる雷帝魚に巻き込まれればただでは済まないだろう。
現に近接戦闘を行っている漁師達も、少なからず怪我人が出ており、仲間に支えられて後送されている者も居る。
中には氣功の使い手も居るようで、そういう者は素早く間合いの出入りを繰り返す事で自身は無傷のまま、繰り返し武器を突き立てている。
兄上は何処に居るだろう? 乱戦とも言える状況に俺は兄上を見失っていた。
それから、どれ位の時間が経っただろうか、辺りは雷帝魚から流れる血で赤く染まり、それが流れ込んだ海も先ほどまでの深く澄んだ紺碧から、どす黒く変色しているように見えた。
それでも尚、未だに跳ね回ろうと身動ぎする事ができるその生命力には驚愕するしかなかった。
しかし、それも終わりが見えてきた様で、その動きは明らかに弱々しい物になっていた。
仕留めた! たぶん誰もがそんな風に思った瞬間だった。
雷帝魚の身体にバチバチと紫電が走り抜ける、それは先程見たのと同じ電撃の前兆だ。
多くの漁師達がいまだ近接戦闘を続けており、大多数はそれに気付くことができなかった。
まずい、間に合わない!
至近距離であの電撃を受ければ、その大半の命は無いだろう。
「金剋木! 霊符の力持て木気を禁ず! 急ぎ急ぎて律令の如く為せ!」
鋭い叫びと共に、雷帝魚の身体が激しく光り大きく一度跳ねた。
どうやら兄上はこうなる事を予測していたらしく、近接戦闘には加わらず今の魔法? のような物の準備をしていたようだ。
いわゆる最後っ屁と言う奴だったみたいで、それを境に雷帝魚は最早ピクリとも動いていない。
それに気が付いたのだろう、漁師達の高らかな勝ち鬨が大海原を引き裂き響きわたるのだった。




