二百七 『忠根子間仇討奇譚』中編
「……これお茶じゃない! 麺汁だ!」
出された弁当には米の飯は入っておらず、一口分ずつ綺麗に丸められた素麺が入っていた、これを土瓶の汁につけて食べるのだろう。
冷蔵庫に入っている水差しの中身が麦茶だと思って飲んだら、麺汁だったという経験は俺も有る。
人間は想定していた味と全く違う方向性の物を口に含んだ場合、思わず吐き出そうとするのが普通の反応なのだろう、俺もその時は盛大に吹き出した物だった。
兄上は咄嗟に他人に吹き掛けぬ様袖で口を覆い抑えこんだのだが、どうやら鼻や気管に汁が入りこんだらしく、激しく咽返っている。
背中を擦ってやりながら土間席を挟んだ反対側の桟敷へと視線をやれば、義二郎兄上も同じミスをした様で瞳義姉上に背中を擦ってもらっているのが見えた。
兄弟揃って迂闊な……と思わなくは無いが、よくよく見てみれば他の席にも咽返っている者の姿が少なからず見える辺り、劇場側が引掛けるつもりで貼った罠……と言う事の様だ。
「なんで素麺なんだ? この引掛けの為なら蕎麦でも良いだろうに」
夏場に素麺と言うのは確かに定番では有る。
だが素麺は冬場に寒い地域で作られた物を二~三年寝かせた物が最上とされ、蕎麦粉さえ有れば何時でも打てる蕎麦切に比べて値段が高く贅沢品と看做されている。
客の大半が大名家や大店の子女で有る大芝居なら、相応の格を見せる為に素麺を出すのも理解出来るが、小芝居の客層はどちらかと言えば決して裕福とは言えない家の者達で有る、利益率を考えてもわざわざ高い方を出すのは不可解だ。
勿論俺達だけに特別……と言う事もあり得るだろうが、見る限りに置いては土間席の者達が食べているのも蕎麦では無く、光り輝く様な白さの素麺の様に見えた。
「そりゃ……七夕が近いからでおじゃろう、七夕に素麺を食えば流行病を寄せ付けぬ……と言われておじゃる。この手の縁起や風習をよく理解し、さらりとこなすのも粋な江戸っ子、その条件の一つでおじゃる」
何時の間にやら復帰した兄上は手拭いで鼻と口元を拭いながらそう教えてくれた。
言われてみれば、歌の着物も七夕を意識した意匠だった事を思い出す。
「役者なんてのは粋がってなんぼの商売でおじゃる。この時期に蕎麦の方が安いから……と蕎麦切を幕の内に出すようでは、見栄も切れぬ無粋な一座と他所に嘲笑われるのが落ちでおじゃる」
芝居で切るのは見得でありその身を飾るのは見栄だ、その両方に引っ掛けて上手い事を言ったと得意気な表情で素麺を口に運ぶ、その姿こそが無粋と言う奴なのだろう……。
素麺の付け合せに夏野菜の天麩羅も添えられておりそれらを土瓶の汁に浸して食べる。
満腹になってしまえば折角の芝居だと言うのに眠気に襲われる事もあろう……と言う事らしく量は控えめだった。
食事を終えたその包みを丁稚なのか見習い役者なのか、粗末な着物を着た子供達が回収して行った頃、小屋の中を照らしていた灯火が落とされ、未だ緞帳の降りたままの舞台だけが闇に浮かび上がる。
特にアナウンスの様な物は無いが、それだけでも次の幕が始まる事は誰にでも解る、ざわついていた客席は直ぐに静まり返ってく。
完全に静かになった事を見計らってだろうか、緞帳が静かに上がって行った。
舞台には大店の屋内をイメージしたらしい、豪華な調度品が据えられた和室のセットが出来上がっている。
「お松、ここの掃除が終わったら直ぐに風呂に水を運んでおくれ。家は人様の口に入る物を商っているんだからね、汗臭いまま店先に立たせる訳にゃぁ行かないんだよ」
「はい、奥様。ただいま!」
豪華な着物を纏った中年女性役らしい女形と、先程此処にやってきた小樽扮するお松。
奥方は長い金色の煙管を燻らせながら、懸命に掃除をしているお松に次の命令を出す。
その姿を見てぴんふとりーちが小さく笑い声を上げた、奥方役の姿が以前の津母の方を彷彿とさせたからだろう。
もっと言ってしまえば、町人達がイメージする大店の奥方そのテンプレート的な姿があれであり、自分達の母がそれに合致してしまった事が笑いの原因だと思えた。
舞台の上では未だ幼い少女が、重い天秤を担いで水を運んだり掃除や洗濯と言った家事労働に従事している姿が描写されている。
先程の幕同様に灯りが付いたり消えたりする度にお松役の役者が変わるのは、彼女が成長していると言う時間経過を表して居るのだろう。
そして再び物語が動いたのは、お松が十四~十五と花盛りを迎えた頃だった。
「いけません、若旦那。私の様な女中では、大店の跡取りとは釣り合いませぬ」
お松と共に舞台に立っているのは仕立ての良い着物を纏った若い男。
「そんなつれない事を言わないでおくれ。例えどんな大店の、お大名のお嬢さんよりも、あっしが好いたんは、お松……お前さんだ。毎日手抜かりする事無く、手間隙掛けてしっかりと仕事をしてくれるお前さんが誰よりも愛おしいんだよ」
ぱっと見る限りでも優男と言う言葉がしっくりと来る細身の美形が、囁くように……だが客席にしっかりと通ると言う、そんな矛盾したとも思える様な事を見事にやってのけながら、お松に言い寄っていた。
しっかりと両の手を掴み顔を寄せるようにして言うその姿は、ゴールデンタイムのトレンディドラマと言うよりは、平日昼間のメロドラマそんな雰囲気である。
「堪忍して下さいませ、こんな所を奥様や旦那様に見られたら、明日からどんな顔で仕事をすればよいか……」
顔を逸らして身を引いては居るが手を振り払う事は無く、弱々しくそう拒否を口にしては居るが、その態度からはお松が言うほどに若旦那を嫌っている訳では無い、そのように見える。
「安心しておくれ、親父やお袋が何を言おうとあっしはお前さんを守る、お前さんと祝言を挙げて嫁にするからね」
強引に引っ張るで無く背けた方に身体を割り込ませ、見つめ合う二人……
そしてそのままの姿勢を保ったままで照明が落ち、舞台に大きな椿の花が影絵で浮かび上がり……その首が落ちた。
「なんと! なんと! あの小娘! 五八様の紹介だからって雇ってやったってぇのに、その恩も忘れて大事な大事な一人息子を誑かすなんて! だから何処の馬の骨とも知れない様な売女の私生児を雇うのは嫌だったのさ!」
そして暗いままで舞台の袖に灯りが向けられる、そこに居たのは袖を噛み狂おしいまでの怒りを顕にした奥方だった。
「おのれ! おのぉれぇ! 許すまじ! 許すまいぞ! お松! お前の様な下賤の娘が大店紐儂屋の奥が務まる物かえ! 絶対! 絶対に潰してやるから覚悟おし!」
鬼気迫ると言う表現がぴったり来るようなその台詞が小屋に響き渡る、並々成らぬ迫力を秘めたその演技に気圧されてか、誰かが息を飲む声が何処からか聞こえてきた。
再び灯りが舞台全体を照らすと、先ほどまでの狂気じみた姿は何処へやら、落ち着いた様子で紐儂屋の主らしき年配の男と並んで座る奥方達と、それと相対する様に若旦那とお松が並んで座っている。
「……女中に手を付けるたぁ情けねぇ! しかも孕ませた挙句に嫁にするだぁ? 孕ませた以上は責任取るのが男ってぇな者だがよぉ、それにしたって大店の跡継ぎだってな自覚ってもんがねぇのかぁ!」
煙管を灰皿に打ち付ける音を響かせ、旦那がそう若旦那を詰る。
「全くさね。奉公に来てる娘さん方は親御さんから預かった大事な身体、それを手籠めにしたなんて、人聞きが悪いったら有りゃしない」
奥方も口では息子を叩いては居るがその眼はお松から動く事は無く、直前のシーンの印象から完全にお松を悪者にしている事が見え見えである。
「何を言われようとも、あっしはこのお松を好いております。女中に手を付けたのが悪しと言う事ならば、あっしを勘当しておくんなし。女房一人子一人位、手前の才だけでも養って見せましょう!」
台詞だけを聞くならば、土下座の一つでもしてよう内容だが、その台詞を吐いた役者は此処が見せ場とばかりに大見得を切って見せた。




