二百六 『忠根子間仇討奇譚』前編
舞台の上には二人の男女……
「あれお前さん、産着なんぞ持って何処へ行くのかえ?」
いや、装いは女性のそれでは有るが台詞を口にした声は明らかに女性の物では無い、所謂女形という奴だろう。
とは言えその着物は前世の歌舞伎等で見た事の有るような派手な物では無く、この江戸の町ならば何処でも見る様な地味で安っぽい物だ。
大きく突き出した腹が目立つ女役の台詞と合わせて考えれば、臨月の女と言う役どころだろうか?
「へん! ンなこたぁ、言わねぇでも解ンだろうがよ! 博打だ博打! 此奴を質に入れて一発当てて倍にして返してやらぁな!」
対する夫役と思われる男はそこそこ身奇麗で、その台詞と態度からは『苦労している女房とヤクザな夫』と言うのが見て取れた。
「そんな事言ったって、アンタ勝ったら勝ったで片っ端から呑んじまうじゃないの。今日明日にも生まれそうだってのに、産着を持ってかれたら子供に何を着せりゃ良いのさ」
男の着物を掴み、縋り付きながらそう言うと、
「うるせぇ! 亭主のやる事に一々文句つけるんじゃねぇ! それに誰が何時ガキを拵えろなんて言ったよ、テメェが勝手に孕んだんじゃねぇか!」
頬を打ち女を振り払いそう言い捨てて男が去っていく、舞台に残った女は蹲り袖で顔を隠し泣くような仕草を見せた後、大きな腹を抱えて苦しげにうめき声を上げた。
舞台が暗転するとそれに合わせて赤ん坊の鳴き声が響き渡った。
再び舞台が照らされると、先程まで大きかった腹が無くなり赤子を背負った彼女が、身形の良い女性(こちらも女形の様だ)の髪を結っている姿が有った。
「しかし、アンタも大変だねぇ……。旦那の拵えた借金から逃げる為に、こんな遠くまで来たってんだから」
「それでも私はこうして髪結いが出来ますから、この子と二人で食べていくだけなら……何とか成りますし、他所様に比べればまだ恵まれているほうですわ」
「でも、あんた三行半も書いてもらえずに逃げて来たんだろう? それじゃぁいい人が出来ても上夫に成ってもらう事も出来ないじゃないか」
三行半と言うのは夫から妻に渡す離縁状で、それを得ること無しに女が再婚した事が公に成った場合、剃髪の上で親元へ戻されると言う罰が取られるのが一般的だ。
ちなみに男がそれを書かずに再婚すれば、所払い……追放の刑に処されると言うのだから、そこそこ重い罪と言うことに成る。
前世の江戸時代では女の側から離縁を希望しそれを夫が認めない場合には、縁切寺や駆け込み寺と呼ばれる寺院に逃げ込む事でその法的にも離婚が成立する……と言うのが有ったらしいが、此方では寺と言うもの事体を見かけないので、その辺はどうなっているのだろうか?
そんな事を考えている間にも舞台上では時が経っているようで、灯りが付いたり消えたりする度に赤子が少女へと少しずつ成長している様な演出が取られていた。
「おっかぁ……この子、一人で泣いてたの。家の子にしちゃダメかなぁ?」
五~六歳位の子役――七歳までは神の内と言う言葉が此処でも生きているのか、子役は女の子の様だ――が舞台に立った時だった、子供の手に乗るような小さな白い毛玉を差し出して母親役の女形にそう言った。
「あら、捨て猫かい? まぁ猫はネズミ避けにもなるし、構いやしないけどちゃんと世話をするんだよ?」
「うん! 有難うおっかぁ! お前の名前は小松、私がお松だから小松だよ!」
宝物の様に大切に子猫を捧げ持ったお松がそう言って、嬉しそうにはしゃぐ声を響かせたまま舞台は再び暗転した。
……たぶんこの猫がこの劇のタイトルにも成っている『忠根子間』なのだろう。
「お松がわざわざ奉公になんて出ず、家で髪結いを勉強しても良いんだよ? あんたは器用で頭も良いんだから……」
それから再び時間が立つ描写を挟み、お松役が十歳位の子供の女形へとバトンタッチした所で再び物語に変化が有った。
「心配しなくても大丈夫よ、おっかさん。紐儂屋は江戸でも一番の乾物問屋、そんな所に奉公出来るなんて夢の様だわ!」
どうやらお松が何処かの商家へと奉公に出される事に成った様だ。
直ぐ横で熱心に舞台に視線を注いでいるりーちに『紐儂屋』に付いて聞いてみるが、その答えは『そんな店は無い』だった、此処は『この物語はフィクションであり~』という奴なのだろう。
「小松はおっかさんとこの家を守って頂戴ね、藪入りには沢山お土産を持って帰ってくるから」
足元にじゃれついている三毛猫を抱き上げ、掲げる様にして目を合わせそう声を掛けると、猫はその言葉を理解したかの様に一声鳴いた。
「お松、旦那さんや女将さんの言う事をよく聞いて、奉公に励むんだよ。死んだおとっつぁんがお天道様から見てるからね」
母親がそう言葉をかけると、お松はそっと猫を降ろして一声返事を返すと、舞台袖へと去って行った。
と言う所で緞帳が降りてきて、小屋の中に幾つもの灯りが灯されていく。
「え……もう終わりですか? まだ導入が終わったばかりですよね?」
思わずそんな疑問が口を付くが、
「そりゃ、まだまだ続くでおじゃろう。取り敢えず第一幕が終わったから、次の幕の為に舞台を整えて居るのでおじゃる」
と信三郎兄上が呆れ混じりの声でそう教えてくれた。
「失礼します、幕の内をお持ちいたしやした」
そう声を掛けられ振り返れば、そこにはつい先程まで舞台に立っていた十歳お松が弁当四個と四本の土瓶(焼き物の水筒の様な物)を持って来てくれた様だ。
「おお、ご苦労でおじゃる。舞台での立ち振舞も歳の割によく出来ておった。これからも精進するでおじゃ」
それを見た信三郎兄上がそんな偉そうな事を言いながら、袂からポチ袋を取り出しお松の役者へと差し出した。
「へぇ、有難うございやす。あっしは小樽と発しやす新参者でござんす。まだまだ未熟者なれど精進して参ります故、ご贔屓によろしゅうお願いいたしやす。では、隣の枡にも届け物がありやすので、失礼いたしやす」
小樽と名乗った役者は兄上の差し出したポチ袋を大事そうに懐へと仕舞いこむと、そそくさと去っていく。
「兄上、今のは?」
「心付けでおじゃる、小芝居では幕の内を届けにわざわざ役者が来るのでおじゃるねー。以前行った大芝居では、普通に丁稚が来ておったでおじゃるが」
心付けと言うのは、前世で言う所のチップの事だ。
兄上の話に拠れば立見席や土間席に居るならば見せ場となるシーンで小銭を懐紙に包んで捻った『お捻り』を舞台に投げる物なのだが、こうして枡席にいる場合にはソレをするのではなく弁当を持って来た者に心付けを渡す物らしい……
「別にお捻りを投げても構わぬでおじゃるが、枡席から舞台は少々距離と高さが有るからの、下手に投げて役者に当たっては演目の邪魔になるでおじゃ」
「……えっと、手前達も出すべきだったんでしょうか?」
どうやらぴんふやりーちも観劇は初めての様で、兄上の話を聞き二人で顔を見合わせてから、恐る恐ると言った感じでそう疑問の声を上げる。
「其方等はあからさまに子供でおじゃるからの、年長の麻呂がその分多めに包んでおいた故心配要らぬでおじゃ」
得意そうに胸を張りフンスっと鼻から息を吐き出しドヤ顔でそう言う信三郎兄上。
「おお! 流石は我らが従兄殿、粋な振る舞いという奴をよく理解して居りますな!」
それに対してぴんふがそう煽て言葉を掛けると、兄上は益々得意気に胸を逸らし、
「さ、皆の者。さっさと弁当を食うでおじゃる。幕が開く前に食い切るのが作法でおじゃるからの」
そう言って土瓶の茶を口に含み……咽た。




