二百三 志七郎、義姉達の静かなる戦いに慄く事
さしたる問題も無く、芝居見物当日がやってきた。
家からの参加者は男兄弟の全員と母上で有る。
姉上達は全員行くものだとばかり思っていたのだが、礼子姉上は枝豆や黄瓜、赤茄子等々の夏野菜の収穫で忙しく、智香子姉上は滅多に手に入らない素材の調合、睦姉上は友人と数量限定予約必須のランチを大分前から予約していたのだそうだ。
信三郎兄上は兎も角、こういった事に興味の無さそうな仁一郎兄上と義二郎兄上が行くと言ったのは少々意外だったが、義二郎兄上曰く「雅や粋を解さぬ武人はただの猪でござる」と解る様な解らない様な理由だった。
「あんさんが鬼斬童子君やね、今日はお誘い有難う。初めましてやないけど前に会うた時は、まだ小ちゃかったから覚えてへんかな? 仁一郎様の婚約者で河中嶋藩主、立嶋虎吉が長女千代女や。仲良うしたってや」
では仁一郎兄上が同行を決めた理由はと言えば、その理由が今俺の前に居た。
兄上に許嫁が居ると言う事は以前から何度か耳にしていたが、こうして『俺』が顔を合わせるのは初めてだ、『俺』の意識が無い頃には一度会った事が有るようだが、彼女の言葉の通り覚えが無い。
箱入り娘を絵に描いた、そんな形容がよく似合う穏やかそうな美人さんで、歳は十五、六といった所か。
しかし優しそうな笑顔で話しかけてくれたのだが、何故か刑事としての経験で培われた『勘』が危険だと信号を発して居る様に思えた、雌狐……なんとなくそんな言葉が脳裏を過ぎった気がしたのである。
「以前に会っているならば、初めましてと言うのは失礼かも知れませんね。ですが仰る通り覚えていないのであえて言います、初めまして義姉上、今後共よろしくお願いします」
彼女の何が危険だと言うのかは解らないが踏み込まない方が安全だと判断し、俺はあえてそう馬鹿丁寧な挨拶を口にして頭を下げた。
「……ほんまに過去世持ちなんやねぇ、ウチの『眼』が効いてへんわ。流石は人材のびっくり箱や」
「……千代殿、あまり弟達を誂わないでくれ。特に志七郎は義二郎以上に冗談の通じぬ部類、思わずズバッとやりかねぬ」
袂で口元を隠し目を細めて笑う義姉上に、こめかみ辺りを揉みながら仁一郎兄上がため息混じりにそう諌める言葉を掛けた。
兄上が説明してくれた話に拠れば、彼女の眼は『魅惑の魔眼』と呼ばれる特殊な力を持っており、その能力に抵抗できなかった者は彼女の言いなりに動く木偶に成り下がるのだと言う。
流石に永続的に如何なる命令でも……と言う程では無いが、格の低い鬼や妖怪相手ならば敵味方の区別を惑わせ同士討ちをさせる程度の事は出来るらしい。
無論人間相手でも効果は有るが相手の精神力が強ければ強いほど効果は薄く、元服を回る頃に成れば殆ど効果が出る事は無い程度の強さしか無いのだそうだ。
「ほんまに御免なぁ、もうせぇへんから堪忍したってやぁ」
そう謝罪の言葉を口にしては居るが、悪びれた様子も無く笑いながらでは全く以て説得力は無い。
とは言っても実害も無く半ば効果が無い事が解っていての悪戯に目くじらを立て続けるのも大人気ない、そうは思ったのだが俺が許す許さないと口にするのは、この場合には筋違いと成りかねないのが武家の面倒な部分で有る。
彼女は他家の子女で有り咎める事も許す事も本来成らば彼女の所属する家の家長の権限で行われ無ければならないのだ。
たとえソレが子供の悪戯だとしても、武家の者にとっては『家』と『家』の問題で有り、謝罪し許すと言う一連の行動で『家』同士の格付けだったり貸し借りだったりと言った外交上の失点に成りかねないのである。
流石に俺と小僧連の皆や、義二郎兄上と桂殿の様にある程度付き合いの深い間柄で有ればプライベートな事をわざわざ表立って騒ぐ事も無いと言う事に成るが、俺と彼女は初対面で有りどれ位気安い対応をして良いのか解らない。
下手を打てば『筋合いが無い』と彼女を怒らせ巡り巡って破談なんて事も考えられる……二人の間に深い交流が無く政略結婚そのもの、と言う場合もあり得るのだから面倒な事この上ない話で有る。
兄上の許嫁で有る以上彼の口からで有ればそんな筋違いとも成るまい、そう考え気にしていないと無言で兄上に目配せをした。
「ほら此奴はまたなんぞ色々と難しく考えすぎて面倒な事に成っておる……」
「ありゃまぁ……ほんまに生真面目さんなんやね……」
すると兄上はため息を一つ付いてそんなことを宣い、義姉上は笑顔を引き攣らせた。
どうやら本当に彼女の行いは子供の悪戯の範疇であり、俺の考え過ぎだった様だ。
「お前さんが御嫡男の許嫁かい? 初めまして。あたしは鬼二郎殿を婿に頂ける事に成った豹堂家の瞳って者さね。正式に祝言が済めばあたしが義姉って事に成るんだ、宜しくしておくれ」
義二郎兄上の右側、失った腕の代わりでもするかの様に直ぐ脇に寄り添うようにして、屋敷から出て来た瞳嬢……瞳義姉上が、千代女義姉上にそう言った。
彼女は普段身に纏っているやたら丈の短い太腿も顕な着物では無く、きっちりと踝まで覆う丈で膝下辺りに白波を配した瓶覗と呼ばれる薄い水色の着物を纏っている。
帯にも流水文が入っている事から、今日の彼女の装いは水をテーマにした物の様だ。
決して華美では無いが、仕立ての良さや装飾に使われている糸の質等から、品の良い良家の御嬢様と言った風情が感じられた。
千代女義姉上もそうだが今日は芝居見物と言うお忍びの外出なので、仰々しく着飾り誰が見ても一目で武家の娘と解るような装いはしない。
だがそれでいて見る者が見れば家格がひと目で解る、そんな相反する物を内包するのが女性のお忍び装束に求められる物なのだそうだ。
はっきり言って俺にはどういう着物がそれに該当するのか、全くもって理解出来ないのだが、二人が並んでどちらも見劣りする様には見えない辺り、調度良く釣り合っていると言う事なのだろう。
男性陣は無紋の着物と言う以外に縛りは無く、一応元服済みの上二人はその他に頭巾で顔を隠すが、未だ子供と見なされる他の者達はその必要も無い。
「……義二郎はんにも、ほんまに良え御縁が有ったみたいやねぇ。お義理様、此方こそ味様したっておくんなまし」
瞳義姉上の第一声から前世に聞いたマウンティングとか言う熾烈な主導権の争奪戦が行われるかと思ったのだが、どうやら義理の姉妹の顔合わせは無事に済んだ様で有る。
……それを少し離れた位置から見ていた母上に後から聞いた話に拠れば、腕を失う怪我を負い更には断絶した家に婿入りする、しかも行き遅れと言われてもしょうが無い瞳義姉上に……。
と、義二郎兄上が仁一郎兄上よりも数段劣る存在だと見なされる要素があり過ぎる為に、あえて自分が義姉だと主張する事で兄弟の格付けをさせない様にする為の牽制だったらしい。
千代女義姉上もそれを理解した上で瞳義姉上を立てる発言をする事で、お互いがお互い身内として協力関係を築ける間柄だと、言外に主張した……と言う事だそうだ。
幾ら兄弟仲が良くとも妻同士が不仲成らば家として永く協力体制を敷くのは難しい、一度格下と見なせば相手に何をしても構わない等と振る舞う者も居るため、最悪の場合此処での喧嘩を理由に豹堂家と猪河家の距離を置く、そんな思惑も見えたやり取りだそうだ。
……ちなみに母上から聞いたその話を兄上達にした所、そこまでの事は兄上達も解っていなかった、女同士の外交と言うのは全く以て奥が深い物の様だ……。




