百九十七 志七郎、招きを受け夢中に成る事
家紋は別に武士だけの特権という訳では無い。
普段使いの物は兎も角、冠婚葬祭の時に身に纏う『晴着』には士農工商問わず紋付きの衣を身に纏うのが慣例なのだ。
法的にはどんな家紋を誰が所有し使おうと自由なのだが、男は自分の属する家の紋所を用い、女は生家の紋所を用いるのが基本で、自分の代で新たな家紋を決める事は極めて稀らしい。
無論幾ら自由とは言え大名や幕閣等の有力な家の定紋を好き勝手に使いそれがバレたりすれば、武士だとしても処罰は免れないし、町人階級ならば無礼討ちは必至である。
万が一詐欺の為にそれら紋入りの道具が用いられたりすれば、それを作った職人も連座と成ることはこの火元国では常識なので、そうそう偽物が作られると言う事も無いのだ。
とは言え似たような紋所が無い訳では無い、我が猪河家の家紋で有る『組み合い角に猪の紋――正方形を二つ重ね八芒星を描きその中に猪の横顔――』の類似として『丸に猪の紋』や『菱に猪の紋』等も有る。
ただ以前に聞いた限りではそれら『猪紋』は猪山藩の家臣や領民達が用いている物で、江戸の町民がそれを使っているとしたら、猪山郷出身者の子孫と言う事になるそうだ。
では今俺の目で戯作者水鏡が差し出した煙草入れはどうかと言えば、見る限り類似紋の類ではなく猪河家の家紋に相違無い、となれば考えられるのは、彼が家の血縁者と言う事か、もしくは父上や兄上達と余程親しい仲と言う事か、のどちらかである。
「こいつは鬼二郎様の鬼熊討伐を講談噺として書かせて頂いた折、猪山のお殿様に良い出来だとお褒めと共に頂いた物でござんす。以来猪山藩の皆様にゃぁご贔屓にして頂いてるんでさぁ」
彼の言うように御用商人や贔屓の職人に紋所の入った道具を下賜する事で、その家紋を持つ家が後ろ盾で有ると内外に示す事は、決して珍しい話では無い。
紋を入れる道具は相手が男成らば煙草入れや財布、女成らば櫛と言うのが定番である。
「どうやら間違い無いようですね、父上と懇意にされている方成らば、その御招待お受けいたします。丁度昼餉を頂く見世を探していた所ですしね」
彼の目は嘘を付いている者のそれはには見えないし、前世に数多くの犯罪者を見てきた自身の勘も目の前の男を悪党とは感じていない、とはいえそれだけで100%完全に信じたと言う訳でも無い。
鬼切りの経験は有るようだしそれなりに喧嘩慣れもしているだろう事は、その立ち振舞を見れば解る事だが、同時に彼が氣功使いでは無い事も理解出来た。
この程度の相手であれば例え荒事に成ったとしてもどうとでも出来る、そう判断したからこそ、その招待を受ける気に成ったのだ。
「ありがとうざんす、早速参りましょ」
そんな俺の胸の内を知ってか知らずか、水鏡は人好きのする笑みを浮かべて俺達を先導し歩き出した。
「あら、助こましの水鏡先生が幼気なお稚児さんを連れて来るなんて……宗旨替えかい?」
目抜き通りを一本入った所に有る小さな小料理屋に入ると、看板娘と言う言葉がよく似合いそうな愛らしい顔立ちの娘さんがそんな言葉を掛けて来た。
付け前に六つ席が有るだけの本当にこじんまりとした店内で、店の前には行列と言う程では無いが何人かの待ち人が居り、俺と水鏡はそれをすっ飛ばして店内へと踏み込んだ形で有る。
普通ならばそんな事をすれば、後ろに並べだなんだと文句の一つも言う者が出るだろうが、どうやら皆顔馴染みらしく店内外の客達に水鏡が軽く手を上げて声を掛けるだけですんなりと通された。
「人聞きの悪い事をお言いで無いよ。此方はあっちが世話に成っているお家のお坊ちゃんでね、昼餉を御一緒しようと誘っただけさね。上、上がらせて貰うよ?」
天井を指差しながらそう言った、どうやら二階には座敷席が有るらしい。
「そりゃ構やしないけど、そちらの……お犬様も上がるのかい?」
武家の子が飼っている犬や馬は法的には家臣と言う扱いで有り、町人達よりも上の立場と扱われる。
この辺の感覚は今一つ慣れないが、まぁそれでどうこうするつもりが無ければ然程気にする必要も無いだろう。
「いえ、この子達は座敷に上がらぬ様躾けてますから……そうですね店の前で待たせて起きましょう。四煌戌、此処で待て」
「「「おん」」」
俺の命令に一声返事を上げて四煌戌は見世の入り口横に座りこむ、お座りとも伏せとも命じて居ないので、適時楽な体勢で出てくるまで待つだろう。
「ここはあっちが駆け出しの頃から贔屓にしている小料理屋でござんしてね、形は小さいけれど季節の美味い物を手頃な値で食わせてくれるんでさぁ。お侍様を招待する格式の見世じゃありゃせんが、御子弟をあんまり高い見世に招くのも違うと思いましてね」
草鞋を脱いで細くて急な階段を上がりながら、水鏡がこの店を選んだ理由をそう語った。
二階もやはり然程広くは無く四畳半にちゃぶ台一つに小さな鏡台、端に畳んで置かれた布団を見る限り、此処は見世の席と言うよりは店主の居住スペースなのだろう。
「ささ、どうぞお座り下さいな。昼餉は日替わりの定食だけですんで、然程待ちゃしませんから」
勝手知ったると言った感じでちゃぶ台に座布団を据えると上座へ座る様に促される。
幼いとは言え俺は武士で先方は町人なのだからそれは当然なのだが、明らかに年上の相手に上座を譲られるのはどうも座りが悪い……とは言え、年上の部下を持った事が無いわけでは無いので、プライベートでは無く仕事だと考えればその違和感も直ぐに収まった。
「あい、お待たせ~。今日は枝豆飯に茄子と昆布の味噌汁、鯵の一夜干し、漬物は黄瓜の浅漬さね」
そして彼の言葉通り、程なくして料理を乗せた盆を持った先程の娘さんが上がってくる。
どうやら一人一人に御膳を出すというスタイルでは無く、ちゃぶ台にそれぞれの料理を置いていく、前世ではごく普通の方式だ。
「御武家様に出すにゃぁ、ちょいと粗末な物かも知れねぇけれど、おとっつぁんが腕によりをかけて拵えた物さね、味の方は保証できるよ。あ、流石にお酒を出すにゃぁまだ早そうだったんで、よく冷えた麦茶にしといたよ」
言いながら並べられていく料理は、器も含めて確かにお高い物には見えなかったが、どれも手抜かり無く仕上げられているのがよく解るそんな物だった。
「そんじゃ、まぁごゆっくり」
少々蓮っ葉な感じは受ける物の下町の娘さんといった風情で、その立ち振舞に卑しさは見受けられない。
「先達て亡くなった女将さんも気風の良いお人だったんですがね、日を追う事にあの子も女将さんに似て良い女に成って行く。そろそろ良いお相手が見つかりゃ宜しいんですがねぇ……」
立ち去る彼女の背を見て、水鏡がそう寂しそうに呟いた。
今日会ったばかりの相手に深く立ち入るのもどうかと思い、彼の言葉を聞き流し早速料理に箸を付ける。
「あ、豆が甘い……」
枝豆にほんのりと付けられた塩味が豆の持つ甘さを引き立てているのだろうが、これ程深い甘みと旨味を感じさせる枝豆は前世でも口にした事が無い。
これはおかず無しでも何杯でもおかわりしたく成る様な味だ、とは言えおかずが不味い訳でも無い。
鯵は干す段階で良い塩梅に塩を利かせているらしく醤油を掛ける必要も無く、焼き方もほんのりと付けられた焦げの香ばしさが絶妙だ。
味噌汁も具材の味が出汁を邪魔せず、かと言ってそれぞれの具材が全く自己主張をして居ない訳でも無く、これを口にすればたかが味噌汁等と言える者は余程の味音痴だけではないかと思えた。
浅漬も良い塩梅で黄瓜の歯応えがギリギリ残っている程度の浸かり具合で、しっかりと歯を受け止めつつも柔らかく噛み切れる、その軽妙さは癖に成りそうだ。
そしてそれらの料理全てが、主食である枝豆飯をより美味く食べさせる為に考えられて作られている事がよく解る、そんな味わいに仕上がっている。
思わず夢中で食べきり麦茶を口にすれば、それは未だ温まる事は無くキンキンに冷えたままであった。




