百九十五「無題」
秋元正義、享年二十一、坂東町傘張り長屋の住人、浪人者。
十五年前、父親は稲香藩の家臣で有ったが、評定中に屁をこいた事を同僚に糾弾され、激昂の余り殿中にも関わらず抜刀、その咎により追放処分を受ける。
通常ならば切腹を申し付けられる所だが、切腹とも成れば詳細を幕府に報告する必要も有る、高々屁などという下らない事で幕府を煩わせる必要も無い、そんな言う理由での仕置きだったらしい。
追放に際して妻とその実家からは離縁され、二人で江戸へとやって来た秋元親子は傘張り長屋に腰を落ち着け、その名の通り傘張りの内職で糊口を凌ぎながら父は再仕官の道を探していたが、大した手柄も武名も無く縁故も無ければそれも難しかった。
それでも武士である事に拘り手柄も武名も手に入れれば良いと、鬼切りに出た先で命を落としたそうだ。
良く有る……とまでは言わずとも決して珍しい事案では無く、恐らく江戸中を探せば似たような境遇の者は百など簡単に超えるだろう。
だが彼はその他大勢と大きく違う面が有った、父同様鬼切りで名を上げ仕官の道を探す……と言うのが普通だろう、けれども彼の正義と言う男は度胸も根性も全く持ちあわせて居なかったのだと言う。
幼い頃から喧嘩だろうとなんだろうと直ぐ逃げる『腰抜け正義』や『逃げ足だけは一丁前の名前負け野郎』等と呼ばれる様な男だったそうな。
無論そんな男が自ら鬼切りに出る訳も無く、鬼切り手形を持たぬ浪人者と言う、江戸でも……火元国中を見回しても稀有な存在に成った訳だ。
そんな男が偶々買った富籤で大当たり、十両もの大金を手に入れた彼は、その金を吉原に突っ込んだ。
そこで出有った女郎に入れ揚げ、今回の一件を起こした……と言う事らしい。
「……手形改めで下手人が解らぬ筈だわ、まさか手形を持たぬ浪人とはな」
江戸市中を騒がせていた妖刀使いの辻切り、その一件に関する報告書に目を通しそう呟いた。
身元が解れば、これらの情報を纏めるのにさしたる時間も必要なかった様で、つい先程それなりの量の報告書が届けられのだ。
近頃は歳のせいか書面を読むのが辛く成って来ては居るが、それでも読まない訳には行かない。
事体が此処まで大きく成っていなければ報告書を読む振りでも構わないだろうが、この一件に関しては報告を鑑みた上で、関係各所へ再発防止策の発案と責任者への処罰を決めねば成らないのだから。
「……板東町は東町奉行所の管轄、少なくとも己の管轄内の下手人を打ち取れなんだ以上、何らかの処罰は下さねば成るまいな……無論他の町奉行も何も無しとはいくまい」
東町奉行を務める柴耕作と言う男は決して無能では無い、むしろ彼が奉行に就任して以来、東町だけで無く江戸全体の治安が大きく改善された。
地味で堅実な目立たぬ事を厭わぬ仕事振りは代えがたい物が有る、今回の一件で想定外の事体に対応する能力には疑問が浮かんだ事にはなるが、失うには勿体無い人材と言えるだろう。
だがそれでも処罰をしない訳には行かない、信賞必罰は統治の基本なのだ、これを蔑ろにすれば次代にまで尾を引く問題に成りかねない。
流石に切腹は重すぎる故、柴は蟄居隠居、南北西の三町奉行は減俸一年……辺りが妥当だろうか?
「おーう、邪魔するぜ?」
己の中である程度結論を出した時、不意にそんな声がかけられた。
仮にも征異大将軍足る己に、こんなぞんざいな言葉を掛けられる者は片手で足りる数しか居ない。
「おお、為五郎。久しいの、京はどうじゃった? 陰陽寮との折衝の首尾は?」
その中でも儂が最も信頼する立場を越えた数少ない親友で有り、血の盃を交わした義兄弟猪河為五郎だった。
彼には江戸への術者及びその養成機関誘致の為、火元国の術者を統括する陰陽寮との折衝を頼んで居た。
古くから帝の下で術者達を統括してきた陰陽寮は建前上幕府と同格とされている、彼らはあくまでも帝に使える公家で有り、禿河の家臣では無いのだ。
そんな彼らの利権や縄張りに手を突っ込む事に成るこの政策に協力を求める為、陰陽頭で有る安倍家に対して伝手を持つ彼を頼る他無かった。
「ん、ああ。向こうさんにも決して利の無い話じゃ無かったからな、然程譲歩する事も無く話は通ったぜ」
そう前置きして為五郎が口にした条件は、どれも彼に任せた権限の範疇に収まる程度の物で有り、首尾は上々どころか大満足と言い切って良い話に成っていた。
「流石は兄者じゃ! 其方の様な義兄を持って儂は本当に恵まれた将軍じゃ」
半分くらいは本気でそう煽てる言葉を口にすると
「何を都合の良い時だけ……そもそも儂らが交わしたのは五分の盃、兄も弟も有るかよ。たぁ言え、ホントなら馬鹿息子の為に残して置きたかった手札を幾つか切る羽目に成ったんだ、相応の報酬は頂くぞ?」
苦笑いを浮かべそれでも満更でも無い様子でそう言葉を返し、それから腹に二つも三つも抱え込んで居る様な笑み顕にする。
引退するまで『事、悪意に於いて為五郎に勝る者無し』と謳われたこの男がこの表情を見せる時、それは相手からケツの毛まで毟るつもりで交渉を挑むその時なのだ。
若い頃からこの表情を誰かに向ける時に、最も大きな得をしていたのは誰でも無い儂だった。
儂の為に数多の相手に対して武知を駆使して結果を出し続け、多くの者に蛇蝎の如く嫌われ、時には自藩の利益よりも儂の利益を優先する様な事までしてくれたのだ。
その為五郎が儂に対してその表情を向けた、その意味が理解出来ない筈が無い。
「何を当たり前の事を言っておる! お前にゃあそう簡単に返しきれぬ程の借りが山程有るわ。儂の生きておる内に返せる成らば多少どころでは無い無茶でも聞くぞ」
頬が緩むのを抑える事が出来無かった。
まだガキの頃、幕府も将軍も関係無く己の為に生きて居た、猪山藩邸で暮らして居た頃の様に笑えた気がした。
「おう、実はな……」
だが為五郎は誰彼憚る必要が有る事を口にするかの如く、辺りを伺う様に見回してから声を潜め、その要望を口にした。
「ほぅほぅ……」
天井裏に居る飯蔵にも聞かせたくは無いのだろう、しかしそれは私情を口にするのを憚る故という訳で無く、それを明かす事で周りをあっと驚かせるのを目的としての事だ。
「……でな」
「……なるほど」
そろそろ俺等も米寿が近いと言うのに、此奴のこういう悪戯心は本当にガキの頃から変わらない。
報酬と言いつつも、為五郎が求めた幾つかの案件は決して自身の為の物では無く、猪山藩にもそして幕府にも大きな利益をもたらす提案で有った。
これらを全て実行したとして不利益を被るのは、様々な理由で処分を免れている儂としても幕府としても切りたくて仕方のない馬鹿共だけだ。
「……相変わらず悪辣な奴じゃ、じゃが上手く行けば次代に継がせる膿をかなり捻り出せるの」
「おうともよ、上手くいきゃぁお前ぇさんが白寿を迎える前に隠居しても問題無ぇ位にゃ成るだろ」
……言外に長生きしろ、とそう言っているのだ。
此奴と共に若い頃に修行を積んだ事で、此奴程では無いにせよ氣脈の奥伝に踏み込んでいる。
その甲斐有って儂の身体は年齢よりもずっと若々しい状態を保っては居る、だがそれでも氣脈を極めた此奴や、生まれ持った命数その物が違う一郎程には長く生きる事は出来ないだろう。
……あの時盃を交わした五人の友の内既に二人は亡く、恐らくは次に逝くのは儂であろう事は想像に難くは無い。
「後十年か……長いのか短いのかは解らぬが、それくらい有れば息子達では無く、孫、曾孫のいずれかが将軍に成っても良い状態には出来ようか」
「なんでぇ! 随分と気弱じゃねぇか。そんなんじゃ後十年生きるのも厳しいだろ。そういや土産を持ってきてたんだ、良い百薬の長を取り上げて来たからな、此奴でも呑んで気晴らしすっぞ」
残りの寿命を心配する儂を笑い飛ばし奴が取り出したのは、儂でも中々目にする事は出来ない程に名高い銘酒美酒数々だった。
「おお! 康龍に無双満月、神帝……何処から持ってきたかは知らぬが、これらに見合う肴を用意させねばな!」
出処を深くは追求するまい。
……久々に痛飲した翌日、柴が自裁したと言う知らせが届き、儂は何故直ぐに通達を出さなかったのか、と後悔の海に沈む事になった。




