百八十九 三家連合、事の次第を知り激突する事
「……僕だけだって言ったじゃないか、年期が明けたら僕の所に嫁に来るって起請文に血判まで押してくれたじゃないか、病の事を聞いた時だって千人斬りで治ったら……駄目でもあの世で一緒になろうって言ったじゃないか」
その表情に反して声を荒げる無く、男は静かに淡々と……しかし何故か妙に通る声でそう言った。
「だって……秋元様、全然お見世に来なかったじゃない。今まで来たのだってたったの四回。それも安いお酒に料理、揚げ代だってご祝儀だって最低限しか払わない……。年期明けなんてまだ十年は先の話……御大尽な若旦那からの身請け話と比べる事なんか出来ないわ!」
そう言い返す女の声は多少怯えを孕んでは居るものの、悲壮感らしき物は感じられず、自分が本気で命の危機に瀕している事を理解出来ていない様にも思えた。
俺達が階段を登り切り、間合いを詰めるまでのその短い会話を聞いただけで、この事件の概要が概ね想像出来た。
恐らくは遊び慣れていないあの男が遊女の『お前様だけ……』等と言う社交辞令丸分かりの手管にのぼせ上がってしまい、本気で遊女が自分に惚れていると思ったのだろう。
そして時を同じくして、他の馴染客であった大店の若旦那から身請け話が持ち掛けられ、それを隠したまま彼を振る為の方便として『不治の病で余命幾許も無い』等と言ったのだ。
遊女と言うのは過酷な仕事であり、極一部の稼ぎ頭とでも言える様な売れっ子以外は、その生活も貧相らしく、病気に成っても真当な治療を受ける事すら出来無いのが普通で、年期明けまで生きている事の方が稀なのだそうだ。
遊女相手に本気に成るのは野暮であり、騙されたふりをするのが粋な遊び……と言うのがこの吉原での常識だと言う。
となれば『不治の病』と言う言葉も決してリアリティの無い事では無いし、例え嘘でも騙されたふりをして諦めるのが普通……と言う事に成る。
だがそれを本気に受け取った野暮天は『千人斬り如何なる病も治す』と言う言い伝えを実行に移したのだろう。
『千人斬りで病気が治る』というのは前世の世界でも有った言い伝えである。
所轄外で通り魔殺人が続けて起こった時、何故この様な事件を犯人が起こしたのか、その動機を推理する中で時代小説を好んでいた先輩刑事がそんな事を言っていた覚えが有った。
とは言えそんな理由で無辜の民を斬り殺して良い筈も無い。
前世の感覚で考えれば、キャバ嬢に入れ込んで全財産を食いつぶした挙句、癌だと言うキャバ嬢の治療費を稼ぐ為に強盗殺人を繰り返した……そんな感じだろうか。
はっきり言って情状酌量の余地など無い。
どうやら俺以外も同じ考えらしく皆が皆鯉口を切り、何時でも斬りかかる事のできる体勢へと移行していた。
女の言葉に怒りか恥辱か、全身を小刻みに震わせながら男はゆっくりと大上段に刀を持ち上げた。
そこでやっと女は凶刃が自らに向けて振るわれそうに成っている事に気がついたのだろう、たじろぐ様に数歩後ろへと下がり、背が壁にぶつかると逃げ場を探すように周りを見る。
流石に目の前での殺しを容認出来る者は居らず既に俺たちは駈け出して居たが、辿り着くよりも早く、その凶刃が真っ直ぐに女を両断せんと振り下ろされた。
肉を斬り血飛沫が舞う……そのはずだった。
しかしたった一人だけ刃と女の間に滑り混む事に成功した者が居たのだ。
若い者達の誰よりも早く、意識加速を使用したとしてもなお認識できるかどうか怪しい程の速さで気が付いた時には既に、振り下ろされた一撃を己の得物で受け止めている笹葉の姿がそこにあった。
「悪いのぅ妖刀使い……ワシの得物はお主等を相手にする時こそ最も力を発揮するのじゃ……。吉原は遊女の嘘に騙される事を楽しむ遊び場じゃ、それに入れ揚げ己の身持ちを崩すだけなら笑い話で済む……。だがこれだけ人を殺めたのだ、只では済まぬぞ」
刃と刃が交差し、刃金と刃金が打ち合わされる甲高い音が続け様に鳴り響く。
老いたりとはいえ武勇を尊ぶ猪山の家老、日々の鍛錬を欠かすことは無いがそれでもその速度は余りにも速すぎた。
十分な幅を取られた作りでは有るが所詮は廊下、数を頼んでの一斉攻撃を仕掛けるには狭過ぎる。
その結果笹葉がたった一人で妖刀使い――秋元と呼ばれた男と打ち合う事に成っていた。
無論その間に俺達が何もしなかった訳ではない、お美月と呼ばれていた遊女の手を引き二人の邪魔にならない場所へと逃げるよう促し、周りの部屋へと通じる襖を蹴り倒し少しでも広い位置で戦える状況を作る努力をしていた。
「なんで邪魔するんだよぅ……あの女が悪いんじゃないか……あの女だけでも斬らせてよ……」
暗く濁った瞳でそんな事を呟きながら、既にこれ以上無いほどに悪くなった顔色が変わることも無く、一瞬する間だけでも二十合撃、三十合撃と超高速の斬撃を繰り出している。
それに対していなし、捌き、受け続けている笹葉の方は文字通り息を付く暇も無く、ほんの短い間の打ち合いだと言うのに、滝のような汗が流れ落ち、唇の色が僅かでは有るが紫がかった色へと変わっている様に見えた。
……せめて後一歩か二歩前か後ろへ移動してくれれば、近場の部屋を利用して他の皆が介入する事も出来るのだが、相手は一歩も動く事無くその場でひたすらに刀を振り続け、笹葉もそれを防ぐ事で精一杯で、小細工をする余裕は無さそうだ。
「……このままじゃ不味いし、爺さんの体力が持たねぇし」
決して相手の技量が優れている訳では無い、むしろその剣技だけならば間違いなく笹葉の方が上だ、なのに何故笹葉のほうがこうまで一方的に押されているのか?
それは相手が圧倒的に速いからだ、笹葉がどんなに上手くいなし身体が流れる様な事に成ってもその隙を付く前には既にもう元の体勢を立て直し次の斬撃を繰り出している。
その速さはどんなに氣を上手く操ろうと達する物では無いだろう、恐らくは速さだけならば一郎翁すらも超えているかも知れない。
この場に居る者達では笹葉意外にあの速度で繰り出される連撃を一人で受け切れるのはいないだろう。
だが、それでもこのままではジリ貧だ、息を止めて全力での対応をし続けなければならない以上、氣も体力も遠くない内に底を付く。
「俺が介入します、皆さんはそれに合わせて下さい」
誰かが何らかの手を打たねばならないこの状況で、最もリスクの少ない手を持っているのは俺だった。
「なれば拙者と清が前に出る。仁一郎殿の得物は槍、遠間より牽制を」
長物はどうしても速度で劣る為、あの速さを相手にするのは向かない、そう主張し桂殿が清一殿と共に笹葉との入れ替わりを提案した。
内心はどう思っているかは解らないが、兄上が無言で小さく首肯したのを確認し、俺は懐へと右手を突っ込んだ。
前世ならば例えどの様な状況でも致命傷を避ける為に狙う場所は膝と決めていた、たとえ相手が銃を持ったマフィアであろうと……だ。
狙いがそれたり、外れた弾が跳弾して偶々急所へ当たったりして、結果殺かけた事が無い訳ではない。
それでも前世の俺は『殺意を持って』人を撃った事は一度も無かったし、幸いどの案件でも被疑者は一命を取り留めている。
だが、俺は今間違いなく、明確な殺意を持って銃を相手に向け引き金を引く。
胸に三発頭に二発、決して口径の大きな銃では無いが、それらの場所ならば一発でも当たれば只では済まない筈である。
火薬が弾ける乾いた音が響くと、それまで絶え間なく鳴り続けていた金属のぶつかり合う音が止む。
銃弾が妖刀使いを撃ち抜いた訳では無い。
笹葉へと向けて振るわれていた妖刀が迫る銃弾を叩き落とし、その隙に前へと出た二人が物言う暇も無く斬りつけたのを、後ろへ大きく飛び退り躱した事で、間合いが開き一旦攻撃が止んだのだ。
「ひぃ……ひぃ……助かりましたぞ……、流石に……寄る……年波には……勝てぬ……」
既に限界近い所まで体力を振り絞ってしまった、笹葉は荒い息を付きながらそう口にし、自慢の霊刀に縋り付く様にして座り込むのだった。




