百八十七 三家連合、追跡を開始する事
義二郎兄上が斬られた現場は屋敷から然程遠く無い武家屋敷が建ち並ぶ中に有った。
ここは俺も普段から四煌戌達の散歩でも通る場所なのだが、こうして改めて見ると此処が危険な場所だと言う事に気付かされる。
南北に走る道が交わった四ツ辻なのだが、道沿いに張り巡らされた屋敷の塀が視界を遮っている上に、偶然なのか誰かの意図に拠るものなのか、この辻を見通せる位置には勝手口一つ見当たらないのだ。
各藩の屋敷が建ち並ぶこの辺りは、藩主が江戸に居る成らば家臣が定期的に見回りをしたりもするが、そうでなければ基本的に昼間でも人通りは少ない。
高い塀が多い閑静な住宅街は目撃者が少なく成りがちで犯罪者にとっても都合の良い立地だ、と言うのは前世の知識では有るが、此方でも然程大きな違いは無いだろう。
とは言え、此処を通るのは侍かそれに連なる者である以上、不審な振る舞いを目撃されれば叩き切られても文句は言えない、そんな場所でも有る。
まさかこんな所で、そう思える場所こそ犯罪の種が潜んでいるのものだ。
「凄い荷物だな……これだけの物を持っていた成らば鬼二郎が不覚を取ったのもやむを得ぬか……」
そんな所に緊急事態とは言え大荷物に馬まで放置していたのだから、置き引きの一つや二つ起こっていてもおかしくはない、と思ったのだが意外な事に誰が手を付ける様な事も無く、全ての品がその場に綺麗に積み上げられたままだった。
荷物を取りに来た若手家臣、名村と矢田の二人では背負子に括りつけられた荷物をそのまま運ぶのは辛い様で一度それをバラしてから運ぶらしい。
だがその脇に置かれた手提げ袋の一つ二つならば、誰でも簡単に持っていける程度の物で有る。
にも関わらず何故だれも荷物に手を付ける様な真似をしなかったのか?
運良く誰も通りかからなかったと言う可能性も有るが、それ以上に置引を躊躇わせるのは箱や袋に入れられた家紋の焼き印だ。
我が猪山藩猪河家の猪紋と並んで陰陽頭安倍家の籠目紋、更には帝家を示す『龍桜』紋が描かれているので有る、少しでも物を知っている者ならば間違っても手を出す事は無い。
たとえ物知らずな物取りが盗っていったとしても、武家や公家、帝家の紋が入った品をおいそれと買い取る様な商人は少なくともこの江戸市中に大っぴらに見世を出しては居らず、盗った物を自分で使えば足が付きかねない、一寸見かけたから簡単に盗ると言うのは危険過ぎるのだ。
流石に中身全てに紋が入っている訳では無く、また詳細に確認した訳では無いので、完全に手付かずと断言しきる事は出来ないとは思うが、彼らが来た時点で漁られた様な後も無くおそらくは無事であろうと言った所では有るが……。
無論故買屋の類が無い訳では無いが、そう言う見世を使うのは当然ながら玄人の盗人であり、計画性の無い盗みと言うのは、治安の割に結構少なかったりするらしい。
前世でも簡単な手続きで買い取りをする業者が増えて、その結果安易に盗みを行い売却し遊ぶ金を得る……と言う案件が増えたと言う話も有った。
少年課の同期は、某大手新古書店が新店舗をオープンすると周辺の書店等での万引きが増加し忙しくなる、と呑んだ際に愚痴っていたものだ。
閑話休題、十両を超える盗みや詐欺は一律死刑と定められているこの江戸では、こういう明らかに『お高い』品物は盗みの対象としても敬遠される為、仁一郎兄上は安心して荷物を放置し義二郎兄上だけを連れ帰れたのである。
「……荷物が有ろうと無かろうと、俺を庇わなければ義二郎が傷付く事は無かった。俺の落ち度だ」
桂殿の言葉に歯ぎしり一つしてそう仁一郎兄上が返した。
それに対して誰も何も言わないのは、下手な慰めの言葉は余計に兄上を傷つけるだけだと、皆が理解しているからだろう。
「……うぉん!」
そうしている間に兄上が連れてきた猟犬が向うべき方向を見定めたらしく、南を向いて一声小さく鳴いた。
連れてきたのは、兄上が飼っている三匹の中でも最も年嵩で経験豊富な猟犬『力丸』だ。
黒地に赤い縞が虎の様な模様を描く大型犬で体高は俺の背丈程は有る、流石に鎧兜を纏った状態では無理だろうが、普段街を歩くような軽装成らば俺を背負って走る事も出来そうな位パワフルさである。
単独で妖怪化していない熊ならば討伐した事が有る、と言うのは流石に誇張が入っているとは思うのだが、仁一郎兄上が育てている以上何が有ってもおかしな事は無いのだろう。
兄上から俺が預かった当初、俺のペースで行われる散歩では少々運動不足で欲求不満と言った感じだったが、豚面が彼を引き受けてくれた事で十分な運動量を確保出来、こうして急な仕事でも全く問題無さそうだ。
「「「わぅん」」」
「四煌戌も血の臭いを嗅ぎつけた様です。どうやら同じ方向ですね」
本当に彼らも嗅ぎつけたのか、それとも師とでも言える猟犬の判断に阿ったのか、同じ方向を見定め小さく一声鳴いたのを見てそう言うと、皆揃って無言で頷きあいその方向へと足を向けた。
「川か……」
「しかも船着場ですね……それも猪牙舟の」
二匹(四匹?)に導かれ俺達が辿り着いたのは、屋敷町と下町を隔てる小川の畔に設けられた小さな桟橋だった。
江戸市中には自然、人口問わず無数の川が東西に走り回っており、それらに船を浮かべた水運がかなり発達しており、下りの船ならばそれこそ子供の小遣い銭でも乗れる位の値段で有る。
「これ以上臭いを辿るのは難しい……ですかね?」
臭いは水に流されるので、追跡を逃れる為に水に入る……と言うのは前世に聞いた事の有る話だ。
そう思い、兄上の様子を伺いながら問いかけると。
「……犬の鼻はその程度では誤魔化す事は出来ぬ。それに此処で船に乗ったならば行き先は既に割れている」
川船は前世で言う所のバスの様な物で、それぞれの船着場から何処へ行くのか、基本的には決まって居る。
とは言っても、同じ船着場から行先は幾つも有る上にバス停の様に時間表も路線図も無い、普通は船頭に何処行きかを尋ねてから乗るか、割増料金を払って貸し切りにして目的地へ運んでもらうのが普通で有る。
だが俺以外の皆は此処から出る船が何処へ行くのかを知って居るらしい、その話に拠ればこの猪牙舟と言うのは船の種類を指す言葉で有ると同時に、有る特定の場所へと向う人気路線を指す代名詞にも成っているのだそうだ。
「……志七郎様が尋常な御子成らば、これから行く先へ連れて行くのは少々早過ぎますが、過去世持ちで大人の男であった記憶が有るのですから、まぁ構いますまい」
皆が皆、その船の行先を濁している中、笹葉が言い辛そうに顔を顰めながらそう前置きし、
「猪牙舟が向う先は江戸最大の遊郭、吉原に御座る。そこらの岡場所でなく吉原へ行けるとなれば、下手人は大大名か豪商か……」
前世の世界では、葦の生い茂る原を開拓して作った一大風俗営業地帯で、『葦=悪し』が縁起が悪いから『悪し→吉し』と言葉を変えたのが語源だったと聞いた事が有る。
残念ながら俺は一度も行った事は無いが、俺が生きていた時代でもその手の店が無数に集まっている地域だった筈だ。
此方の世界でも家安公が幕府を開くと同時に江戸一帯に幾つも有った女郎屋を一纏めにし、幕府の公認を与えてた上でそこを吉原と名付けたのである。
超高級路線の吉原に対して、お手頃価格で営まれているのが江戸市中に無数に点在する岡場所なのだが、一晩で一両二両は平気で飛んで行く吉原に対して岡場所は百文が相場、とその値段は数倍どころの話では無い。
しかも吉原では一見の客と遊女が直ぐに懇ろに成る事は無く、最低三回は通わねば男の本懐を遂げる事は無いと言うのだから、多少の財力では手がでないのも道理で有る。
「此処から船で移動したってんなら俺達も船で追いかけりゃ良い話だし。相手が吉原に行ったんなら得物も手放してる筈だし」
吉原にはたとえ武士でも帯刀したまま入る事は出来ない、それを考え危険な妖刀と切り合わずに手柄が拾えると、清一殿は嬉しそうに笑みを零しながら丁度やって来た船に飛び乗った。




