百八十五 志七郎、兄の危機を知り冷徹さを口にする事
義二郎兄上が斬られた。
そう慌てて駆け込んできた仁一郎兄上では有ったが、見た所義二郎兄上に大きな傷の様な物は無く、二人共血に汚れている様子は無い。
だがあの元気溌剌を絵に描いた様な義二郎兄上がぐったりと力無く横たわる姿を見れば、それが尋常な状態では無い事は一目瞭然である。
よくよく見れば、兄上の右手の甲にほんの小さな、それこそ普通ならば舐めておけば治ると流される程度の傷が有った。
だがその傷に気が付けば兄上の症状の原因がそれである事もまた、誰でも判断が付くそんな傷でも有る。
その傷を中心に肌がドス黒く変色していたのだ。
「刃に毒が塗られていた。そう考え破毒丹を与えたが、一瞬は楽になった様子を見せる物の直ぐにまたこの状態へと戻るのだ……」
通常の解毒剤はその毒に合わせた調合と、使用者がその用法に精通している必要が有り、どんな毒を受けたのかが解らなければ効果的な治療を施す事は難しい。
それは科学技術の発達した前世の日本でも同じ事で、ありとあらゆる毒を消す事のできる万能薬等と言う物は存在しなかった。
だが魔法や術が実在し、それらを用いる事で場合によっては死者の復活すら可能なこの世界、希少品とは言えほぼ全ての毒を治療する事が出来る霊薬が存在しているのだ。
破毒丹こそがその霊薬であり、仁一郎兄上が持っていたのは智香子姉上が以前虎殿に師事していた頃に作られた、虎殿謹製の世界的に見ても最高級の品と言える物だ。
それを用いて尚、回復の兆しを見せないと言う事は破毒丹では消せない特殊な毒で有る可能性が高いだろう。
既に兄上達が持っていた分は使い果たしていたので、俺が持っていた分を苦痛を堪える為か歯を食いしばって苦しげに呻く義二郎兄上に差し出すと、意識自体は有るようで強張る口元をほんの少し開いた所に押し込む様に含ませた。
すると眉間の皺も薄れ、呼吸も安定し傷の周りの毒々しい色合いも消える。
しかしやはり聞いていた通り、傷口から再びじわじわと変色が広がり始めると、同時に耐え難い苦痛も蘇った様で、顔中から脂汗を流しながら音が出るほどに奥歯を強く噛み締めそれに耐える表情へと逆戻りだった。
「……手持ちの霊薬では焼け石に水程度の効果しか有りませんね、俺の友達が皆を呼びに走ってくれています、虎殿やお花さんなら何か知っているかもしれませんし、俺達は落ち着いて待ちましょう」
破毒丹を含め手持ちの霊薬には限りが有る、即座の回復が見込めない状況で無闇矢鱈に投与を続けるのは下策だろう。
普段ならば冷静さを売りにしていると言っても過言ではない程に、感情の起伏を表に出すことの無い長兄が目に見えて狼狽している。
そんな様子を目の当たりにした事で、前世に同僚が殉職し動揺する部下達を叱咤し、それを成したヤク中と連なる者達を検挙した頃を思い出した。
冷静さを失えばより状況は悪化する、例え身内を失う事になろうと人の上に立つ者が慌てふためく訳には行かないのだ。
「あ……そうだ……な。済まぬ……」
次期藩主としてその事をよく知る仁一郎兄上は、俺の言葉だけでざわめく気持ちを無理矢理飲み込んで、普段通りの鉄面皮を取り戻したのだった。
江戸市中ではみだりに武士が走る事は禁じられている、無論相応の理由が有れば咎められる事は無いのだが、それをすれば後の詮議で義二郎兄上が斬られた事を公にする事にも成る。
ぴんふやりーち、歌は元服前の子供で有る事と、お忍び……という訳では無いが武士らしい装いをしていなかったのを幸いと、それぞれ頼まれた場所へと走って向かったらしいが、それで呼ばれた者達はそうは行かない。
結果早々に戻ってきたのは武士階級では無いお花さんと虎殿達だった。
屋敷に残っていた者達は、仁一郎兄上達が斬られた場所へと、その場に置きっ放しに成っている荷物と馬を回収に行き、小僧連の三人はそのまま帰宅する為この場に居るのは、俺達兄弟と、異国の先達たちだけである。
「狐狸ぁ、独では有馬温泉ネー。いあ……独は毒だけれども……不味町買い無く呪われてるネ」
虎殿は破毒丹を飲ませた際の反応を見てそう断言した。
「ティーガさんの見立てで間違い無いでしょうね。『毒』属性の魔法でも似たような症状は出せるけれども解毒されればそれまで。何度解毒されても同様の症状が戻るとなれば呪い以外には無いでしょうね」
錬玉術師として数多の術具を生み出してきた虎殿、三百年近い年月を冒険者として過ごして来たお花さん、経験豊富な二人の見解が一致したと言う事は間違い無いのだろう。
二人の話に拠れば『呪い』というのは人間に使える様な物では無く、強力な鬼や妖怪――諸外国においては悪魔に分類されるモンスターのみが使うことの出来る外法なのだと言う。
世界樹の理では無く異世界の法則によってもたらされるそれは、人間が使うありとあらゆる魔法や術は勿論、神仙の力ですら解くことが出来ぬ物なのだそうだ。
呪われた物を開放するには呪いを掛けた者を倒すか、その呪いを掛ける際に定められた解呪方法を読み解き実行するしか無い。
そして妖刀の傷と言うのも呪いの一種で有り、斬られた結果呪われたと言う事は、妖刀に依る被害で先ず間違いは無いだろう、と言うのも二人共通の見解だった。
「ミー共に出来るのは、擬似ローを猪っ戸でも品瀬ない事岳ネ。血空不足で孟子訳無いよ……」
「……大魔法が使えたとしても、呪い相手では無力だわ。私に出来るのも、毒を以て毒を制す事位……とは言え治癒には程遠い、精々彼の苦痛を和らげる程度の事しか出来ないわね」
二人の力を以てしても兄上を救う事は出来ない、と力無く謝罪の言葉を口にする。
「……それだけ御助力頂ければ十分にござる。妖刀の傷が原因と解ればその妖刀使いを草の根分けても探しだし、叩き折ってくれば済むだけの事」
……表面上は冷静な様子で仁一郎兄上はそう口にしたが、内心に滾る熱い感情は誰から見ても明らかなものだった。
「ですが、事件が起こり始めてから五ヶ月以上、各奉行所も幕府ですらその正体どころか手掛かりすら掴めて居ないのですよ……」
感情に任せて急いて行動を起こしても事体が良くなる事は殆ど無い、経験的にそれを知っている俺は家族を義二郎兄上を見捨てる様な言葉を苦渋の思いで口にした。
「……奴の刀には義二郎の血が付いている、長く時間を置けば臭いも散ろうが、今直ぐに動けば俺の猟犬達が追えぬ筈が無い」
警察犬による犯人の追跡、それは前世の世界に置いても初動捜査の常套手段だった。
猟犬や愛玩犬はこの世界にも一般的に存在しているが、犯罪捜査に奉行所が犬を駆り出したと言う話は少なくとも俺は聞いた事が無い。
獣神の加護を受けた仁一郎兄上が育てた猟犬で有れば、兄上の言う通り追跡は可能かもしれない。
いや、兄上の猟犬だけではない霊獣として力をつけ始めた四煌戌も、追跡の力に成るだろう。
「……皆が戻り次第、妖刀使いを討ちに行きましょう」
話に聞いた腐れ街の変事では百を超える捕方がたった一人の妖刀使いの手で命を落としたと言うし、少しでも手勢が居たほうが良いだろう。
武勇に優れし猪山に足手纏に成る様な弱卒は居ない。
「いや俺が行く。義二郎が斬られたのは俺の油断が故。俺の愚かさの尻拭いに家臣を巻き込むのは筋違いだ」
そう思い俺が提案した言葉を、兄上は頭を振って否定した。
「何を馬鹿な事を仰います、主家の危機に駆け付けぬ家臣は居りませぬ。少なくとも二度の妖刀狩りを経験しております拙者を外す等とは申されますな」
しかし明後日の方向から兄上の言葉を更に否定したのは、知らせを受け駆け付けて来た家老の笹葉だった。




