百八十四 仁義兄弟二人旅 その四
緩い勾配の峠道を下って行くと、連なる木々が途切れた先に白木で作られた堅牢な関が見えた。
あの関を超えればそこから先はもう江戸州で有る、出立から四ヶ月を超える旅路もとうとう終わりを迎えるかと思うと感慨深い物が有る。
往路では行く先々で様々な災難に見舞われもしたが、それはそれで良い思い出だ。
流石に復路では色々と懲りたと言う事か、余計な真似をする事無く順調に旅程をこなし、ここまで帰り着く事が出来た……今朝までは。
「いやぁ……それにしても腹が減ったでござるなぁ……。兄者そろそろお天道様も中天に差し掛かる時分、関を超える前に彼処に見える炒飯売りの屋台で昼餉にせぬか?」
本来であれば開門に間に合う様、日が登るよりも早く昨夜泊まった湯宿を出立する筈だった。
だが久々に顔を出した馴染みの湯宿である猫屋の女将以下従業員達が盛大な歓迎をしてくれた結果、俺は呑み過ぎ義二郎は食い過ぎ、目を覚ました頃には他の客は皆出立し宿に残っているのは俺達だけ……と言う状況だったのである。
と言って慌てる様な事も無く、ここまでくれば江戸は目と鼻の先とゆったり峠を降りて来た……という訳だ。
「……つい先程あれだけ食ろうたと言うに、良くもまぁ腹に入るものだ」
朝餉に出して貰った蜆の味噌汁は美味かったが、此奴はそれら五人前をぺろりと平らげた上で未だ一刻少々しか経たないと言うのに斯様な事を抜かしおった。
「兄者と違いそれがしはこれだけ多くの荷物を背負って居るのだ、腹が減っても仕様が無いでござろう」
この馬鹿の言う通り義二郎はその巨体に合わせた巨大な背負子に幾つもの葛籠や木箱、俵を括りつけ、纏めて背負った総重量は恐らく百貫を超えて居るだろう。
更には両手にぶら下げた幾つもの布袋も含めその姿は、着物は別としても武士の装いには見えず連雀商人もしくは夏冬年二回の祭りに参陣した趣味人のそれにしか見えない。
その大半は京で買い求めた土産物だが、中には俺と猪七徳が帝賞二着入賞した褒美として帝から賜った品や、陰陽頭から信三郎に届ける様頼まれた参考書の類も入っている。
馬を連れているのだからその全てを義二郎が背負うのではなく、猪七徳に振り分けても良いのだが、此奴は「これも修練」とか「いざという時馬が無ければ兄上は足手纏」等と言いおったのだ。
「はぁ……、貴様は自ら望んでソレを背負うて居るのだろうが、泣き言を口にする位ならば荷物を振り分ければ良かろう? まぁ、もう路銀を気にする必要など無いし二人前は出してやるが、それ以上は自分の小遣いからだせよ」
溜息を交えてそう口にするも荷物の多さ等只の言い訳で、腹が減ったと言う言葉の通り朝餉で食った物全てを消化し終え胃袋が空に成っているのだろう。
「おう、言われずとも自腹でござるよ。京では思ったよりも稼げたしな! 親父、炒飯十人前だ!」
俺が帝賞に備えて準備に時間を使っている間、義二郎は昼間は京周辺の戦場で鬼切りに励み夜には賭場を荒らし回り、一寸えげつないまでに稼いでいた。
流石に帝より賜った報奨金よりは少ない筈だが、奇天烈百貨店で土産を買い求めた際に見せた御大尽ぶりを考えると、勝るとも劣らない額に成っていたのでは無かろうか。
……それにしても十人前は頼み過ぎだろうに、此の愚か者が。
大盛りどころではない量を平らげた頃合いで、俺達が関を潜る順番が丁度回ってきた。
「うむ、手形に問題無し。鳥獣司殿に鬼二郎殿、ご無事の帰還何よりでござる。江戸市中までもう数里、気を抜かず歩まれよ」
手形を検めた同心がそう、江戸への帰還を祝う言葉を掛けてくれたのに、短く返礼を口にしそのまま街道を行く。
関所を無事越えた所で椿丸達にも休暇をやる事にし、三日程で帰参せよと空に放つと早速獲物を見つけたのだろう、揃って一声鳴き連れ立って近くの森へと飛んでいった。
「……おお! やっと思い出した!」
普段のべつ幕なしに要らんことを喋り続ける義二郎が、珍しく暫し無言で歩んで居たかと思った所で唐突にそんな叫びを上げよった。
「……何を思い出したが知らぬが、叫ぶな喧しい」
とは言いつつも、此奴がこうしてわざわざ大きな声を上げたのは、俺に聴かせ無ければ成らない何かを思い出したのだと解って居る。
「いやな先程昼餉を買うた担ぎ屋台の店主、何処かで会った様な気がしておったのだが……ありゃ、上様に謁見した時に屋根裏に隠れておった隠密の気配と同じだったのだ」
……義二郎の強さは武神に与えられた加護による数多の武芸も然ることながら、それ以上に一郎師匠に鍛えられた気配に対する敏感さに有る。
上様との謁見の際に隠れていた隠密という事は、上様を護衛している御庭番のそれも最強と名高い生天目飯蔵、それと同じ気配と言う事は本人若しくは子弟と言った所だろう。
そんな男が何故こんな所で炒飯など売っているのか?
「と言う事は、あの男が言って居った江戸を騒がせている辻斬りに気を付けろ……と言うのも冗談事では有るまいな」
俺が少し考え込んでいる内に、義二郎がそんな言葉を続けて吐いた。
「……待て、辻斬りだと?」
「うむ、兄者が関の役人と話している間に聞いたのだが、拙者等が江戸に居らぬ内に結構な騒動に成っているらしい。流石に武士や幕府の威信に関わる事故、役人が口にするのは憚られたので有ろうが……」
それ以上の事は義二郎も聞けて居ないらしいが、それでも分かった事は有る。
幕府の御庭番や各奉行所がその様な不埒者を放おって置く訳が無く、それだけ厄介な手合だと考えられる。
そして御庭番と目される者がわざわざ俺達にその事を伝えたと言う事は、俺達が襲われる可能性を考えていると言う事では無かろうか。
……とは言え、日は未だ天高く此の分ならば俺達が屋敷に付く頃でもまだ『誰そ彼』とも言えぬ時分だろう。
そんな頃合いに正体を隠しての辻斬りも無かろうて。
……その油断を俺は後々後悔する事になるとは、今はまだ知る由も無かった。
「兄者! 何を呆けておるか! いくら江戸州に入ったとは言えまだ屋敷には付いて居らぬ! 城屋敷に付くまでが旅路と父上もお師匠様も言って居ったでござろう!」
義二郎にそうどやしつけられて、はっと周りを見回せば先程まで広がっていた田園風景は何処へやら、既に目の前には武家屋敷が立ち並ぶ江戸市街が迫っていた。
「……済まぬ」
「全く……ここまでは見通しも良く不埒者が潜む様な場所は無かったでござるが、市街地に入れば塀や門、火消し桶の陰……何処に辻斬りが潜んでおるかも解らぬ、余り気を抜いて斬られては武門の恥でござるぞ」
……普段から己の身体能力や才能任せで、油断したり事前準備不足だったりする此奴を叱り張り倒すのは俺の役目だ。
それが逆にこうして叱りつけられるとは、長旅の疲れだけで無くもう少しで屋敷に付くという安心感から来る油断も有っただろう。
そして同時に危機の臭いに敏感な義二郎の感覚を過剰に信頼し過ぎて居たのだ……。
あと一つ角を曲がればその先には我が家が待っている、そんな所まで来た時である。
辻に面した塀の陰から、浅葱の烏賊頭巾で顔を隠した浅葱木綿の男が飛び出して来たのだ。
こんな真っ昼間っから顔を隠し、それも上級武士のお忍びと言うには余りにも野暮ったいその装いは、その男が尋常な者では無いと一目で理解出来た。
「兄者! 危ない!」
義二郎がそう叫び荷物を持った両手で俺を突き飛ばすのと、その男が抜きざまに斬りつけてきたのは殆ど同時だったと思う。
男は一太刀浴びせると、韋駄天もかくやと言った目にも留まらぬ速さであっという間に別の屋敷の角を曲がり駆け抜けていく。
「義二郎!? 無事か!?」
不意を付かれた上に速さこそ上等と言える一撃では有った、だが俺の目から見ても決して鋭いとは言えないその攻撃に自ら当たり所を調整する余裕は十分に有ったはずだ、大丈夫だと確信しながらそう問いかけつつ猪七徳に飛び乗った。
しかし弟が返答を返す事は無く……見下ろせば手の甲を抑えたまま苦しげに呻いているだけだった。




