百七十九 小僧連、寸劇を鑑賞し喜劇に巻き込まれる事
人垣が割れ、以前上様の御前でその姿を見る事に成った鬼切奉行桂稲明様がその先に姿を表し、それに追い縋る様にしてやって来たのは、普段の役人然とした黒い羽織では無く父親と同じく青い裃に身を包んだ桂髭丸殿だった。
「髭丸っ! 父親に向かってなんだその口の聞き方は!? そんなだから貴様はその若さでハゲるのだ!」
ただでさえ歌の事で興奮している所に息子から糞親父呼ばわりされ、余りの激昂し過ぎた所為かそう怒鳴り返した桂様の顔は真っ赤を通り越してドス黒くさえ見える。
「なっ!? 頭は関係無い話でしょう! それに俺の頭はハゲじゃない剃っているだけだ! 何処ぞのハゲ親父の様な真性ハゲでは無いわ!」
売り言葉に買い言葉だとしても、幕府の御偉方が公衆の面前でするにはあまりにも低レベルな罵り合いだった。
だが彼がそう怒鳴り返した瞬間、俺は奇妙な違和感を覚えた……眩しく無かったのだ。
既に日は落ちかけている時間帯とは言えここは鬼切奉行所の前庭で、西日を遮る物は何も無い。
普段から艶やかに磨き上げられた桂殿の頭は、前世の世界で流通していた鏡にすら遜色無いほどの輝きを放ち、日の光の下では立ち位置に気を付けなければ成らない程だ。
にも関わらず、今は彼が姿を表したと言うのに誰一人顔を背ける者は無く、むしろ御上に属する者達が繰り広げるコントとしか思えない親子喧嘩を興味深そうに見ている様な状況だ。
「はっん! 何がハゲでは無い剃ってるだけ……だ。我が息子ながらそこまで愚かだとは思うても居らなんだわ。良いか髭丸よ……髪の毛と言うのは男親に似ると言われておる、つまり私が真性ハゲ成らば、貴様も必ずハゲると言う事よ!」
息子の不明さを嘲笑い、ビシッ! と音が聞こえそうな程に鋭く人差し指を突きつけそう言葉を放つ。
言われた桂殿が受けた衝撃の大きさを物語る彼の様に、彼の背に稲妻が落ちるのが見えた気がした。
「我が桂家の男子は先祖代々ハゲの家系、故に幼き内は髪を伸ばし、元服の折には来るべき日に備え己の髪で鬘を仕立てるのが我が桂家の慣わし……その鬘を既に使っているのだから貴様は当に桂家の若ハゲよ!」
……ああ、そこまで言われて違和感の正体がはっきりした。
普段の綺麗に丸めた輝かしい頭に、今は何故か髷がしっかり有ったからだ。
武士は公の行事等の場では髷を結うのが正式な身だしなみである、考えてみれば現在は同心とは言え桂殿は鬼切奉行を担う家の嫡男、父親の代行として職務の一部を肩代りする事も有るだろう。
そんなときに普段同様あの輝かしい頭のままという訳には行か無い、鬘の一つや二つ持っていて然るべきなのだ。
だがその言葉が本当だとすれば、鬘ど……桂殿だけで無く、桂様のあの髷も鬘だと言う事では無かろうか?
そしてそう思ったのはどうやら俺だけでは無く、ぴんふやりーち、助太刀してくれた鬼切り達、更には俺達を包囲していた捕方達までもが、桂様の後頭部……髷に熱い視線を注いでいた。
鬼や妖かし等と日常的に戦いを繰り広げているこの世界、気配に敏く無ければ武士として生きていくのは困難で有る、それも鬼切奉行ともなれば尚更だ。
皆の視線が己の頭に集まっている事を理解していた桂様は、徐ろに自らの髷をむんずと掴むとそれを引っこ抜いた。
辺りにどよめきが広がる中、負けを認めた様に崩れ落ちる桂殿と己の鬘を手に勝ち誇る様に高笑いを上げる桂様の姿が対照的だ。
「なに? このコント……」
思わず漏れた俺のそのつぶやきを誰も聞き止める事が無かったのは、余りにも見事な高笑いにかき消された故の事だろう。
そんな如何にも馬鹿馬鹿しい親子喧嘩が一段落した所で、小さく可愛らしい咳払いの声が聞こえた。
「兄ぅ……お兄様、お父様、随分と楽しそうなご様子ですが、この状況を解っていての事でございましょうか?」
そう言って二人の間に割って入ったのは、言うまでも無く歌である。
先程までの、少年らしい喋り方はやはり意識して作っていた物の様で、武家の令嬢らしい丁寧な物言いの方が板についている様に思えた。
「おおっと、そうであった! 歌江よ、無事で何よりだった。お父さんすんごく心配したんだゾ☆ミ」
なんと言うか、この感じ……、普段厳しい面構えで厳しい事を言っている署長が、一日署長とかのイベントでやって来た美少女アイドル相手にデレデレとだらし無い様を晒しているのを見ている様な気分だ。
「その割には、私の事を忘れてお兄様と楽しく喧嘩為さっていた様ですけれども……、そもそも何故私が拐かされたと言う話になっているのですか? お兄様がしっかりとお父様に報告して置くと言ってくださいましたのに……」
ちくりと嫌味一つを口にしつつ、そう疑問の言葉を歌右衛門――改め歌江……歌と呼び捨てが許されているのだから、今後も歌で良いか――が口にする。
「ああ、それはこのハゲ親父が俺の話を聞こうとせずに逃げまわったのが原因だ……」
「失敬な事を申すな、誰が逃げ隠れしたか。偶々私が腹を下して雪隠に篭っていただけであろう」
その疑問に応える為に、燃え尽きた様にへたり込んでいた桂殿が顔を上げ口を開いたのだが、それも直ぐに横から否定の言葉がかけられた。
罵り合う言葉を交えながら言い合う二人の言葉を、俺の独断と偏見を交えずに纏めるならば以下の様に成る。
今朝、桂様が登城する為家を出た後、歌の初陣を応援していた大奥様(桂様の妻)と若奥様(桂殿の妻)に見送られ歌は桂殿と共に家を出た。
その後歌を俺達に預けた桂殿は、彼女が初陣に出発したと報告する為一度家へと戻り正装を整えた上で登城したのだが、タイミングの悪い事に桂様はその日朝から腹の調子が悪く、午前中一杯厠に篭って居たのだそうだ。
桂様は桂様で飲んだ薬が効いて来たのか昼飯時には大分調子良くなり、本来午前中に済ませる筈だった外回りの仕事へ出かけ、ついでに自宅で昼食をと思い帰って見れば娘が居ない。
行方を家人に尋ねて見ても要領を得ない答えが帰って来るだけ……、これは奉行の職に有る私には言えない様な何かが起こっているに違いない……、もしや私の可愛い娘が拐かされその身柄と引き換えに悪代官の真似事でも命じられて居るのか!?
そう早合点した桂様は、もしも想像通りであった場合、自分の軽挙妄動が歌の身の安全を脅かすかも知れないと考え、誰にも悟られぬ様に何食わぬ顔で仕事を続行した……つもりだった。
だが幕府要職に有りながらも基本的に正直者で腹芸の苦手な彼は、部下たちが居る前でも思い詰めた表情で独り言を隠す事が出来ず、その結果部下たちが自主的に動き出す事に成った。
そうなれば当然桂様を探し報告しようとしていた桂殿にもその動きは伝わり、やっと二人が会うことが出来た時点で俺達はものの見事に包囲されていた……と言う事らしい。
……正直、自分が絡んで居らず端から見る立場であれば、これ程楽しいコメディは無かっただろうと思える。
多分、今回の顛末が市井に知られれば瓦版では面白おかしく書き立てられ、暫くもすれば落語の一席にでも語られる事にも成るだろう。
二つ名を以て語られる様にも成った俺で有るが故に、こんな滑稽噺の登場人物になればとんな脚色を受けるか解った物では無い。
「で……だ。私の可愛い歌江を呼び捨てにし、剰え傷物にした輩は何処の何奴だい? お父さん、怒らないからちゃんと話してくれるかナ☆ミ」
これ以上無い満面の笑顔でそう歌に問いかける桂様だったが、笑みという物がどれほど獰猛な表情で有るかを知っている俺は、それに対して素直に返事を返すつもりは無かった。




