百七十七 小僧連、無知を知り蒙昧を恥じる事
歌の放った言葉に一瞬の沈黙が辺りを支配した、一撃で命を、首を刈り取るであろう兎鬼達の攻撃すらもがその瞬間には止まった様な気がする。
自分達の利益の為とは口にしていても、何の義理も無い俺達に助太刀する為わざわざ集まってきた者達だ。
助けを求めて置きながら助かった後に掌を返す様な輩も決して少ない無いらしい事を考えれば、彼らは相応のリスクを飲み込んだ上で救援に駆け付けてくれたと言えるだろう。
それを考えれば歌の言葉は、余りにも不用意な物では無かろうか。
はっきり言って俺もぴんふもりーちも既に緊張の糸は切れ、これから再び戦えと言われても先程までの様には行かない。
もしも歌の言葉に彼らが怒り……流石に直接刃を向けられる事こそ無いだろうが、それでもこの状況で見捨てられでもしたら、まず間違いなく命は無いだろう不幸な事故と言う奴だ。
「ぷっ! っ……くっ……くぁっははは!」
そんな最悪の事態を考えさせられた沈黙を破ったのは、誰が漏らしたかも解らないそんな笑い声だった。
「「「あっはっはっはっ!」」」
「「「どひぃっひっひっ!」」」
しかもそれはただ一人だけが、こらえ切れずに吹き出したなんて物では無く、助太刀に来た者達の大半が隠す素振りも無く大きな笑い声を上げ、中には涙を浮かべたり腹を抱えて笑う事でその隙を兎鬼に狙われそうに成り慌てて得物で攻撃を防ぐなんて者も居た。
ある種異様とも言えるその状況に恐れを成したのか、あるいはそれ以外の理由が有るのだろうか、角途切れる事無く現れて居た兎鬼の増援が途切れ始め、そしてとうとう新手が出てくる事は無くなった。
「そらぁ、お侍の子らしい理屈だ! 御武家様が鬼斬を為さるのはわしら民草の生活を護る為の事。なればこそ、そちらのお坊ちゃんの言う通り勇敢に戦い、そして勇敢に死ぬ事を馬鹿になんざぁする訳にゃいかねぇなぁ」
笑うのを止め、そう口を開いたのは先程から俺達の側に居た槍使いの鬼斬り者だった。
「だがわしらもそして躯を晒したあの二人もお侍じゃぁ無ぇ。市中の仕事で糧を得ることすら出来ず荒事を生業にした逸れ者だ。そんなわしらにとって鬼斬は決して命を掛ける名誉なんかじゃねぇ……日々の生活だ」
饒舌に語る彼の言葉に拠れば、首を飛ばされ命を落とした二名を含めここに居るのは皆鬼切りを生業とする町人達では有るが、決して優れた使い手という訳では無いのだと言う。
町人でも男子で有れば、初陣を済ませなければ『臆病者』『根性無し』等と嘲りの対象とされかねない為、多くの者が戦場へと出る事になる。
しかしその後も鬼斬りを生業とする者は極めて稀で、ごく一部の才有る者以外は市中で何らかの仕事を見つけ、そちらに注力するのが普通なのだそうだ。
だが江戸で仕事を探そうとすれば、その殆どが徒弟制度で有り師匠の下で修行期間を過ごすさずして定職に着く事は出来ない。
彼らは皆、誰かの下での下積みに耐え切れずドロップアウトした者達なのだ。
とはいえそういう者達に市中での仕事が全く無いかと言えばそういう訳でも無く、口入屋に行けば人足仕事や、参勤交代時の大名行列を水増しする為のエキストラ等、様々な日雇い仕事は有る。
けれども、そういう誰でも出来る仕事の賃金は決して高い物では無く、宵越しの銭も持てない程度の稼ぎにしか成らない。
それでも毎日真面目に働けば、長屋の家賃に女房子供を食わせる程度の事は出来るのだが、彼らはそう言った地道な働き方も出来なかったのだ。
だからと言って命懸けの鬼斬りを生業とし続けるには才能が足りず、格下の獲物を相手に数をこなす事で補っている。
雑魚相手とは言っても、鬼切奉行所から支払われる討伐報酬に素材の売却益を合わせれば、一日の稼ぎは口入仕事に比べれば雲泥の差で、数日に一度それも半日程度働くだけでも日々の糧を得るには十分なのだ。
「くたばった……熊八は先月祝言を上げたばかりだし、虎吉は女房が身重だ……二人とも吉事に気が逸って少しでも多く稼ぎたかったんだろ。手前の分って物を弁えねぇでな……」
そこまで話て言葉を切った彼の目尻に浮かぶ涙は、決して笑い過ぎによる物では無いだろうがそれを指摘するのは余りにも無粋と言う物だ。
「くたばっちまったら何にも成らねぇ……。その程度の事ぁガキだって解ってる道理だ。そんな事すら忘れて調子付いちまったんだから、馬鹿としか言えねぇじゃねぇか」
二人の死を悼む気持ちが無い訳では無く、むしろ彼らの死を以て自らの生き方に自戒の気持ちが有るからこその自嘲なのだ……と歌も理解できたらしく、それ以上彼らに何かを言う事は無かった。
「え!? 死者の身包みを剥ぐのですか!?」
周囲に残党が居ない事を何人かが確認しに行くのと平行して、仕留めた兎鬼の下処理を始める事と相成った。
そんな中、槍使いの彼――槍の権左と呼ばれる町人の鬼斬りとしてはそこそこ知られた男らしい――に、死体と成った二人の首と手形だけでなく装備品も持ち帰る様言われたのだ。
「おう。売っ払っておめぇらの稼ぎに足しても良いし、遺された家族に渡して葬式代の足しにしても良い。どちらにせよ此処で朽ちるに任せるにゃぁ勿体ねぇって物だ」
例え数打ちの安物だとしても庶民にとっては決して安い物では無い、普通の着物や褌すらもレンタルが主流のこの江戸で、武具だけはレンタルと言う訳に行かないのはこうして死んだ場合打ち捨てられたままに成る事が多々有るからである。
戦場で死体が有れば、見つけた者がその遺体に関する全てを決める権利を得る……と考えるのが一般的で、余程余裕が無い状況ならば手形だけでも持ち帰り、少しでも余裕が有るならば首を、更に余裕が有ればそれ以上を……と言うのが常識なのだそうだ。
遺族には首さえ返せば感謝される事は有れども恨まれる事はまず無い、一銭にも成らぬ死体を持ち帰るのは負担が大き過ぎ、剥ぎ取られた装備品は、首を持ち帰って貰えた手間賃と考えられているのである。
無論その死体が武士で身につけた装備品が伝家の秘宝と言うケースも有る、そういう場合には相応の銭を積んで密かに買い戻す事に成るらしい。
とは言え、死体を見つけたのが俺達の様に生活に困らぬ水準ならば、それらを自分の物とせず遺族に返す、と言う選択をする事も決して少ない事では無いのだそうだ。
そこまでの話を聞けば歌も流石に先程までの憮然とした面構えでは無く、納得したらしい表情に成っていた。
「それに手形を奉行所に届ければ、その戦績に見合った見舞金が家族にゃ出る事になっとる。首も手形も戻らず何処ぞで野垂れ死んだまんま……なんてのよりゃ余程良い」
命が軽い……と言うのは前世の日本を知る俺だからの感想だろう。
武家に生まれ鬼斬りと言う命をやり取りする場が非常に身近だった他の三人にとっても、武士ではない鬼斬り者達がどんな思いで鬼斬りに出て居るのか知る機会は無かった様で、それぞれ思う所が有るのが表情に有りありと出ていた。
「父上にも……兄上にも……聞いた事が無かった……。ただ鬼斬りに出る成らば勇敢に戦いそして勇敢に死するが定めと……」
その中でも顕著だったのは、今日が初陣の歌だった。
鬼斬奉行の子として誰よりも鬼斬りに付いて熟知している、と言う自負が有ったのだろう。
自分が知らない鬼斬り者の実態に、ひどく動揺しているのは一目瞭然である。
その表情は丸でコウノトリが子を運ぶ事を信じる無垢な少女が、性メディアを目の当たりにした時の物によく似ていると、俺には思えた。




