百六十七 志七郎、御家継承の覚悟を傍観する事
「……よし、決めた! ワシが決めた、今決めた! 清一の縁談が纏まり次第、ワシは隠居し清一に跡目を譲る。近日中に上様にもそう報告して参る」
暫し苦しげに唸ってから、役満殿がそう怒鳴り散らす様に言った。
「ま、待って下され! あのような童子の戯言に躍らされては成りませぬ」
「そうでございます。殿は何を決めるにせよ、必ず我らに相談して下さったでは有りませぬか、その我等を蔑ろにしての決定、承服しかねまする!」
平和殿を藩主に祭り上げようと言う一派は、先程から変わらず声高に反対の意を唱え続ける。
「えーい、黙れ黙れぃ! ワシは兄上とは違い剣腕にも政にも秀でたる事無く、誇れるは算盤のみと自覚して居ったが故に、其方等の意を汲み続けた。だがその結果が今の状況では無いのか?」
一度そこで言葉を切るとぐるりと居並ぶ面々を睨め回し、家臣達が自分の言葉を聞く姿勢に成るのを待って、改めて口を開いた。
「其方等の忠義忠勤は疑う余地等無い。しかし今の其方等姿を見れば主家への忠義故と言うよりは、自分達に都合の良い神輿を担ぐ為に争っている様にしか思えぬ。誠に忠君の士だというのであれば、我が子の誰が跡目を継ごうと関係なく盛りたてるのが筋であろう」
その言葉に深く頷き同意を示す者、己の性根の浅ましさを自覚し唇を噛み締める者、反応は人それぞれでは有るが、それでも役満殿の言葉は皆の胸に突き刺さるに十分な鋭さを持っていた。
彼らの様子に満足したのか厳しい表情を緩め、りーちや母上によく似た柔和な笑みを浮かべ
「改めて宣言する。清一の縁談が纏まり次第、ワシは隠居し清一に跡目を譲る。この決定に意を唱える者は、構わぬ今この場から立ち去り好きに生きるが良い。他藩への再仕官の邪魔立てはせぬ、功有った者には感状も出そう」
と言い切った。
これは役満叔父上が最早決定を覆すつもりは無いという、言わば最後通告である。
主君と意見を違えての出奔や追放の際、その顛末は社交の場での噂や瓦版屋を通じて公の物とされるのが普通だ。
そして殆どの場合、藩に取って有利な内容が広められ、藩を出た個人の名誉は守られないケースが多い。
前世の感覚で考えるならば、外道社長やブラック企業を耐えかねて退社した者が、以前居た会社から再就職の邪魔をする為に悪評を流される、というのに近いだろうか?
叔父上はそれをせず、自分に反対する者は紹介状は書いてやるから別の藩に再就職頑張ってね、と言うかなり温情の入った措置を口にしたのだ。
その思いに応える彼の様に、一人また一人と浅雀藩士達が袴が汚れるのも構わず膝を付き、拳を地に押し付ける、そして深々と額づき
「「「「御意!!」」」」
皆の心が揃った声が上がった、きっとこの瞬間初めて本当の意味で彼らが主従と成ったのではなかろうか。
「だぁーーーー! 一寸待て! 何を良い話で終わらせようとしてやがるし! 俺ぁ縁談も跡目相続も、まだ了承してねぇし!」
そんな空気を読まない声を上げ、感動的なシーンをぶち壊したのは、当事者ながらに蚊帳の外に置かれていた清一だった。
「そもそも伯母だか婆ァだか知らねぇけど、家臣率いて他所の屋敷に押し入ってただで済む訳ねぇ、家がどうこうしなくても、幕府が黙ってねーし?」
気の立った猫の様に、手入れの行き届いて居ないボサボサ頭を逆立てながら、母上を威嚇する様に睨め付けそう嘯くも、
「あら、気概だけは一丁前のつもりみたいねぇ。でも貴方の言う通り、いきなり藩主にってのも無理な話よねぇ……。お前みたいな未熟者じゃぁ……」
鈴を転がす様な声で笑いながら言い終えるよりも早く、薙刀の石突が清一の足元を薙ぎ払って居た。
「え!? うわっと!」
完全に意識の外からの攻撃だっただろうが、辛うじて受け身を取り怪我らしい怪我を負うこと無く即座に体勢を立て直す、だがその喉元には既に薙刀の先端が突き付けられ、完全に格の違いを思い知らされた形である。
決して婆ァ呼ばわりされた事に怒り、打ち倒した訳では無い……と思いたい。
「手前で敵だと言っておきながら、得物を持った相手の間合いに不用意に踏み込んむんじゃないよ未熟者。その程度の大義名分も無くぞろぞろ引き連れてやって来る訳ゃ無いでしょうよ」
溜息を一つ付きながら刃を引き、改めて手にした薙刀を両手で捧げ持つ様に跪いて、それを清一殿へと差し出した。
「この薙刀は前藩主である我らの兄上の妻、其方の今は無きもう一人の伯母に当たる方へ、其方の祖母より受け継がれ、今際の際に私が預かりし物。野火家家伝の天下に二振りと無い宝刀に御座います」
母上が言葉使いを改めた上で語る言葉に拠れば、その薙刀の銘は『国士無双』代々浅雀藩主の妻に受け継がれて来た一振りなのだそうだ。
本来ならば叔父上が藩主に収まる際に、その正妻である龍の方に渡される筈だったのだが、家中の不和が噂される状況ではおいそれと渡す事は出来ぬ、と判断し今の今まで母上が手元に持ち続けていたのだという。
一応、若い頃に世話をした女中達など浅雀藩に残った伝手を伝い情報を集めては居たものの、龍の方や津母の方の側付きはどちらも新規に雇い入れた者達で、母上の所まで詳しい情報が流れて来なかったらしい。
「本当ならば、私から龍殿に受け渡し、それから其方の妻と成るべき女性へと受け継ぐのが筋ですが……。役満が隠居を決めた以上は、その必要も無いでしょう」
誰かが唾を飲む音が聞こえた、もしかしたら俺自身かも知れない、凄まじいばかりの緊張を漂わせ、母上はじっと静かに清一殿を見詰め言葉を続ける。
「コレを太刀に直して腰に下げるも良し、妻と成る女性に渡しその得物とするも良し。但しこれを受け取りそれを決めるのは次期藩主としての覚悟を決めた者です」
浅雀藩は三十二万石、その藩主と成るならば彼の肩にはそこに住む全ての民の生活が伸し掛かってくる。
「其方は未熟者とはいえ、たった今御父上殿より次期藩主の指名を受けました、これからは其方が全てを決めるのです」
前世の政治家達の責任が軽いとは言わないが、政が人の生き死にに直結するこの世界、為政者の責任の重さとプレッシャーは尋常な物では無いだろう。
そうして母上に詰め寄られている清一殿は、気圧されて居るのか先々に対する不安故か、押し黙りただ静かに母上を見つめていた。
「兄上が受け取らないと言うならば、私が頂いても宜しいでしょうか?」
と、唐突にそんな声を上げた者が居た、俺の直ぐ横に居るりーちでは無い、いつの間にやら清一殿の横に立って居たりーちそっくりの少年、平和殿である。
「兄上が藩主となる責任も覚悟も背負うつもりも気概も無いと言うならば、私がそれを背負い受け継ぎましょう……と言っても未だ元服もして居ない身ですから、今暫くは父上の隠居はお預けとなりますが……」
彼は何かを企んでいるかの様にわざとらしいニヤリ笑いを浮かべ、そう言って薙刀へと手を伸ばした。
「かぁー! 別に要らんなんて言うて無いし! 親父は俺に跡目を任せる言ったんだし! お前の出る幕じゃねーし!」
どうやら撚た性格と言われるだけ有ってかなり天邪鬼な性質の持ち主の様で、平和殿の言葉と手を遮る様にして、母上の手から薙刀をもぎ取って行く。
「こうして俺の手に家伝の宝刀が渡った以上、俺が次期藩主だし! 家中の者が縁談の世話出来ねぇってんなら、伯母さんに適当な見合い話見繕ってもらうし!」
平和殿に乗せられた感有り有りだが、清一殿は薙刀を片手で掲げ持ちそう声高に宣言した。




