百六十六 志七郎、道理を提案し、無理を引っ込ませる事
終わることの無い打撃音、きっと格闘ゲームか何かならば『二十六連撃!!』等という数字がガンガン上昇している事だろう。
最初に繰り出されたアッパーカットの様な掌底で、宙を舞った役満殿はその身を地に付けることすら許されず、母上の空中コンボを受け続けていた。
あれだけ殴る蹴るの暴行に晒されれば、普通ならばとっくに命を落としていてもおかしく無いとも思うのだが、そこは腐っても武士と言う事か絶妙に急所を外したり氣を用いた防御をしたりしている様だ。
まぁ母上がしっかり手加減しているのも間違い無さそうだが……。
あの二人の事は暫く放っておくとして、気になるのは離縁を仄めかされた龍の方と、勝利宣言を受けたに等しい津母の方だ。
ちらりとそちらに視線を走らせれば、龍の方は泣き疲れたのか瞳嬢の腕の中で身動ぎ一つする事も無く、もう一方はどうかと見れば流石に酔も覚めた様子で、打ちのめされている亭主を心配半分、憤慨半分と言った複雑な表情で眺めていた。
どうやらあの様子ならば役満殿の口にした離縁云々は有耶無耶に出来そうだ、というか離縁――すなわち離婚は前世の日本程簡単な物では無かった筈だ。
そもそもこの火元国の結婚と言うのは、好き合った男女の個人的な結び付きでは無く、家と家が繋がる事こそを重視する物である。
江戸時代の離婚というと、三行半と短な離縁状で簡単に離婚が出来ると誤解されがちだが、三行半と言うのは夫が妻に叩き付ける離縁状では無く、妻が夫からもぎ取っていく『再婚許可状』だったらしい。
また妻が結婚の際に持ち込んだ嫁入り道具(着物や箪笥が一般的らしい)は飽く迄も妻の財産として実家の家紋が入れられており、それらを質に入れたり売り払ったりした状態では決して離婚は認められないのだそうだ。
その他にも離縁から一ヶ月以内に後妻を迎えた場合、後妻打ちと呼ばれる一種の敵討ちが認められていたりと、こと婚姻離婚に関しては男よりも女の方に選択権が有った。
この世界でもその辺の扱いは変わらないらしく、男の一方的な都合で離婚が認められる事は無い。
特に今回は龍の方に一切の落ち度は無く役満殿に離縁を口にする資格は無い、逆に津母の方に対してであれば『正室を立てず家中に不和の種を巻いた』と、離縁を申し渡されるに足る理由付けは成り立つ。
だからこそ、皆津母の方に対しての離縁だと思った。
恐らくはこれまでの龍の方の扱いから、彼女が喜んで三行半を受け取ると思ったのだろうが、それにしたって彼の方からそれを言い出して良い事では無く、それを聞いた女性陣から顰蹙を買ったのは当然の事だろう。
事実、折檻を敢行し続ける母上だけで無く姉上達も瞳嬢も、それどころか浅雀家中の女中たちすらもが、宙を舞う役満殿に白々とした視線を向けている。
しかし何の考えも無くそんな事を口にしたとも考えづらい、事の是非は兎も角、今浅雀藩で勃発仕掛けている内紛を解決する一手では有るだろう。
龍の方が離縁され、無理矢理にでも津母の方を正室に格上げされれば、平和派が口にする正室の子と言う大義名分が瓦解し、清一殿が跡継ぎに確定する事に成る。
とは言え、この方法では表面上は鎮火するかもしれないが、蔑ろにされ続けた龍の方や、結局大名の妻の父と言う立場が崩れる事に成る彼女の父、と恨みを募らせる輩は決して少なくは無いだろう。
そう考えると、その恨み辛みが何処でどんな形で噴出するか解らなくなる分、より危険な選択肢にしか思えない。
……ならば、他にどの様な方法であれば、この騒動を解決する事が出来るだろうか?
結局の所、跡継ぎとなる者が確定して居ないのが、根底に有るのだから……。
「……叔父上に、申し上げたき事を思いつきました。母上一度手を止めて下さいませ」
本当に良い方法かは解らない、もしも悪手だと周りの皆が思ったのならば、子供の口にした戯れ言と流してくれるだろう……たぶん。
内心を圧し殺し、真面目くさった顔を作り声を上げると、母上の乱舞が止み、役満殿が地に落ち立ち上がる事すら出来ず、助かったと言わんばかりに此方へと顔だけを上げ熱い眼差しを向けて来た。
「浅雀藩の内紛は、結局の所跡目争いが発端。なれば叔父上が早急に隠居し、御子息等の中で唯一元服している清一殿が新藩主と成れば解決するのでは無いでしょうか?」
俺の台詞を受け、周囲の反応は真っ二つに別れた。
「殿! 童子の戯言に耳を貸しては成りませぬ!」
「おい! そこな小僧! 幾ら殿の甥子とはいえ他家の家中に口出しするなど、差し出がましいにも程が有る!」
とヒートアップしている平和派と、
「それは名案! 殿を押込にする様で少々心苦しくは有りますが……」
「清一様も跡目を継ぐには良い頃合い、隠居と成ればある程度殿も好きな事をして生きられますしな!」
賛成の声を上げるのは清一派だけでなくりーち派の者達も含まれて居る感じだ。
なお、押込とは気性や能力に問題があり過ぎ、御家取潰の原因に成り兼ねない様な主君を、家臣達が無理矢理隠居させる一種のクーデターの様な物である。
俺がそんな事を言ったのは、跡目争いとは少し違うが前世の世界でもよく耳にした遺産相続の事を思い出したからだ。
その中でも特に前世の家族、曾祖母さんが亡くなった時に曾祖父さんが言った
『遺産の事で兄弟が揉めるなんてのは、親不孝以外の何物でも無い。だが親の側もくたばった時に揉め事の種に成らない様に準備をしておくべきだ』
と言う台詞が、俺の発言の根拠といえるだろう。
事実、曾祖母さんも曾祖父さんも金に替えれる物は可能な限り売り払い、それを毎年少しずつ生前贈与と言う形で子や孫に与え、葬式代以上の貯金は一切無し、と言う状態を作っていた。
爺さん婆さんや親父達もそれに倣って日々準備を怠らなかったらしいから、兄弟仲が決して良いとは言えなかった俺と兄貴もそれを巡って争う様な事は無かっただろう。
とはいえ、そんな準備など考えた事も無く、早々に逆縁の親不孝を成してしまった俺に言えた事では無いが……。
前世の事は兎も角、藩主の隠居と早期の跡目相続は猪山藩でも、話題に上がる事は有る。
父上が藩主に成ったのは祖父、為五郎が一郎翁が起こした騒動の責任を取って隠居したからだが、主君が耄碌して色々と問題を起こしてから相続を行った場合に比べれば、かなりスムーズな世代交代が行われたそうだ。
そう考えると、決して悪い手では無い……と思いたい。
「役満……お前が隠居したとして、清一が直ぐに跡を継ぐ事は出来るのですか? 室がこの有様では、社交も出来ておらず縁談も難しいのでは無いのですか?」
そう母上が問いかけるあたり、やはり間違った提案では無かったのだろう。
だが清一殿が跡を継いだとしても、妻を娶り子を成す事が出来なければ火種は燻り続ける、先代の様に子が生まれる前に命を落とす様な事に成れば、平和殿やりーちが再び跡目争いをする事にも成り兼ねないのだ。
「能力や教育に付いては、銅鑼がしっかりと手綱を握っておる故、問題無かろうが……縁談と成ると確かに何の準備もしておらんな……」
自分が隠居しろと言われているこの状況にも関わらず、役満殿はあっさりとそう返事を返した。
むしろその表情を見る限りでは、さっさと隠居する事を決意しているようにも見える。
「……清一、其方は何処かに懇ろに成った娘でも居るのか? 最悪何処かの遊郭の女郎でも構いませんよ。一朗辺りの養女にすれば文句を言う者も居ないでしょうし……」
「はぁ? なにをいきなり! んなこたぁ考えた事もねーし!」
急に話の水を向けられた清一殿は、勘弁してくれと言わんばかりに顰めっ面でそう怒鳴り返した。




