百六十四 志七郎、母の怒りを知り、喧嘩を目撃する事
母上が構える事すら無くただ静かに一歩足を踏み出しただけで人垣が割れた。
無論、浅雀藩士達が皆主家の奥方を守る気概すら無い腑抜け揃いという訳ではない。
事実、年若い者達は母上の行く手を阻む様に立ち塞がろうとしていたのだ、だがそれらも年嵩の家臣達が押し留め、袖を引き、結果として道が出来たのである。
そうして開いた先には、たった一人残された形で立つ恐らくは奥方と思われる女性が居た。
何故、一目見て断言出来なかったのか、その理由は簡単な事だ。
若すぎるのだ。
役満氏は父上や母上とほぼほぼ同年代、四十路を回り五十路に手が届く歳頃なのに内して、彼女はどう高く見積もっても三十路に届くか届かないかと言った歳頃に見える。
前世の世界ならば美魔女等と言う、年齢よりも随分と若く見せる化粧の技術などもあり、実年齢よりも若くみえる女性と言うのは決して珍しい者ではなかったが、それらとて様々な技術や化粧品が有ってこそ、だったと思う。
だが母上と相対して居る彼女は、そんな特殊な化粧などしている様子も無く、むしろ肌の色もはっきりと見える様な薄化粧の、余計な飾りなど必要のない美女に見えた。
その顔立ちは想像していた様な高飛車で高慢ちきな女性と言った雰囲気は微塵も無く、優しげで儚げな深窓の令嬢といった風情だ。
「其方が命じて腹違いとは言え子供の命を狙うたか? しかもその場に居合わせた我が子まで……、斯様な事をすれば主家にも類が及ぶとは考えられなかったのかい?」
先程までの猛る笑みでは無く、優しい慈母の笑みを浮かべ問いかける。
「い、命を!? そんな筈は……私はただ、少しだけ驚かすだけだと……」
すると彼女は本気で狼狽した様子でそう口にした。
彼女の言葉が本当ならば、彼女からあの忍者に命令が伝わるまでの何処かで、その内容が捻じ曲げられたと言う事ではないだろうか?
「そう……貴方が殺せと命じた訳では無いのね……では貴方は誰に脅かせと命じたのかしら?」
どうやら母上も俺と同じ結論に至ったらしく、改めてそう問いかける。
だが彼女は駄々をこねる子供の様に口を噤んだまま、嫌々と首を振るだけだった。
その姿に母上はただ無言で右腕を振り上げ、そして振り下ろした。
肉を打つ様な乾いた音が響くと誰もが予想していただろう、しかし母上は本気で頬を打つつもりは無かった様で、寸止めした上で彼女の頬に手を当てる。
「其方の年の頃を考えれば嫁入りは十を回った頃かしら? 夫すらも味方とは言い切れない、さぞ辛かったでしょうねぇ」
当然平手打ちを受けると考えていた中には彼女自身も含まれ、驚きと恐怖に身を縮こませた、しかしその頬には痛みでは無く優しい温もりが感じられ、そして掛けられた言葉の意味に理解が至ると、大粒の涙を零しながら嗚咽を漏らし始めた。
涙ながらに語る彼女の言葉に拠れば、亡くなった前藩主の妻は彼女の姉に当たる人物で、彼女が夫と共に流行病で倒れ亡くなった事で、藩主の妻の父と言う立場が崩れたと、浅雀藩国元家老、蓮宝九兵衛は悲嘆に暮れた。
現藩主が跡を継ぐため家へと戻る際、当初は商家の娘を浦殿の養女とした上で二人の婚姻関係維持すると言う意見が大半を占めていたのだが、立場に固執した九兵衛が自身の末娘、とは言っても妾の子だった幼い彼女を強引に押し付けたのだ。
藩主の妻とは言えども月の物すら来ていない様な幼子、形式だけは奥方様と扱われても跡取りを生まぬのであれば本当の意味での権威など無い。
嫡男である清一が母と慕い、養母と成る事が出来れば話も変わっただろうが、十に成ったばかりの彼女が母親として振る舞える筈も無く、清一が長じても彼女を母と呼ぶ事は無かった。
幼いうちはそれでも良かった、時が経ちその身が子を成す歳頃に成れば、夫は自分を見てくれる、子を成す事が出来れば夫も父も褒めてくれると思ったのだ。
けれども、成長した彼女に対しても夫は藩主の義務として彼女に接していると、世間を知らない彼女にすら解る様な態度で接し、更には子を成して以来義務は果たしたと言わんばかりに床を共にする事も無くなった。
年嵩の女中達の話では女人に然程興味を示さず、必要最低限の子を成した後は、若い男と懇ろになる殿方も決して少なくは無いそうなので、夫はそう言う類なのだと思った、思うようにした。
だが家中の者から漏れ聞く噂話では、夫は前の妻の元へと足繁く通い続けて居ると言うではないか、しかもその女は二人目の子を拵え、側室として江戸屋敷へとやって来ると言う。
それでも正妻として何時かは陽の目を浴びる時が来る、息子が長じて何かを成し遂げれば母として誇れる時が来る、と耐え忍んだが、夫は彼女を省みる事無く、側室が江戸へと上がれば所構わず惚気いちゃつき、我が子すらもが側室の年増に懐く始末。
そんな状況で『多少の意趣返しをしても咎める者は居ませんよ』と吹き込んだ者が居たのだ。
大藩たる浅雀の家中全てを知り尽くして居なかった彼女は、父の手の者が父の考えを持ってきたと考え『よしなに……』と安易な返事をし、乞われるままに彼女の持つ情報を話してしまったのである。
話すべき事は全て話たと言った感じであとは只々嗚咽漏らすだけの彼女を、涙等で着物が汚れるのも構わず抱きしめ続ける。
しばしの無言を挟んで少し落ち着いて来たらしい彼女の身を、貰い泣きしながら話を聞いていた瞳嬢へと預けた。
「役満! 私が聞いていたのと随分と彼女の扱いが違うのではないかしら? 蓮宝の呆け爺が仕組んだ騒動かと思えば、完全にお前が妻の扱いを間違えた結果じゃないか!」
雌獅子が吠えた、いや冗談では無い、氣の練り込まれたと思われるその咆哮は物理的な圧力を伴い、前列に立つ浅雀藩士達が後ろにたたらを踏み、中には尻餅を付く者さえいた。
「そ、そうは言っても、ワシの元へと送られた時点で未だ十にも成らぬ童女ぞ。世の中には禿を侍らす事を好む者も居るとは言うが、ワシにはその手の趣味は御座らぬ!」
禿と言うのは、水揚げ前の遊女見習いを指す言葉らしい……まぁ前世の言葉で言えば『自分はロリコンでは無い!』と主張しているのだろう。
「お前の女の趣味など聞いては居らんわ! 武士として大名として娶ったからには妻を躾け教育し、己の家を任せるに足る女に育てるのもその義務の内であろう! お母様が居らぬ以上お前がやらずして、誰がやるというのですか!」
言いながら鋭く風を切る音を響かせて手にした薙刀を頭上で大きく回転させ、役満殿の眼前へと寸止めに振り下ろす。
流石に主君に刃を向けられて、黙って居ては武士の名折れと、幾人かが母上を制しようと前に出ようとするが、やはり老骨達が母上を守る様に立ち塞がった。
そしてその中には、俺も見知った浦殿の顔もある。
「ど、銅鑼! お前、一体どちらの味方だ! ワシが、主君が追い詰められていると言うのに、何故そちらに付く!?」
顔面蒼白としか言い様の無い表情の役光殿が、そう老臣に助けを求めるが、
「……この件に関しては、拙者も清姫様と同意見で御座る。殿……久方ぶりの姉弟喧嘩をお楽しみ下さいませ」
……えっと、姉弟? あー、つまりは浅雀藩野火家は母上の実家で、俺とりーちは従兄弟同士と言う事か……
「さて、江戸家老の許可も出たことだし……三十年ぶりに折檻してあげるわ……。お姉ちゃん久しぶりに本気で怒ってるからね……」
全身から目に見えて吹き出す氣は、何時ぞや父上が智香子姉上に振るったのと同様の怒りの氣にそっくりだった。
「勘弁してよ! 姉ちゃん、ワシが……僕が悪かったから!」
恥も外聞も無く、尻餅を付いたまま後退りそう言うが、
「問答無用!」
裂帛の気合とともに薙刀の石突が振り下ろされた。




