百五十四 志七郎、他家の騒動を耳にする事
あれからしばらくが経ち、暦は弥生を迎えていた。
一応は『狂化』対策の目処が付いた事も有り、豚面は例の口入屋からの仕事に一人で出掛ける様に成った、未だ多少の不安は残っているものの、ソレを踏まえた上で金太老も仕事を割り振って居るらしく、以前のような焦りは鳴りを潜め多少は余裕が出てきた様だ。
望奴も豚面の為に高難易度の術具や霊薬をいくつも手掛けた事で、一足飛びに技術と知識を身につける事は出来たらしい。
彼に錬玉術師としての道が開けた所で虎殿は再び旅立つのかと思ったのだが、そこは母上の抜かり無さ、俺の為に招聘されたお花さんが幕府の学問所で講座を持ったのと同様に、彼もまた幕府の錬玉術師を育成する為に講座を持つことに成っていた。
基礎を疎かにしては行けないと、望奴も助手として参加し研鑽に励んでいる様だ。
瞳嬢は相変わらず礼子姉上と一緒に様々な習い事に飛び回って居るが、最近は家の台所で料理を猫耳女中達の指導の下で作ったりもしている。
どうやら三人での生活中は殆どの食事を四文字屋と呼ばれる、前世で言う所の百円ショップの様な場所で買った惣菜と握り飯で済ませていたらしく、当初は米すら満足に炊けなかったらしい。
未だ幼い睦姉上ですら出来る事……と一時は落ちこんでも居たらしいが、手際や勘は悪く無く物凄い速度で様々な料理を作れる様に成っているそうだ。
その他に特筆すべき事と言えばつい昨日行われたらしい桃の節供だが、この世界ではより『女の為の祭り』という意味合いが強いらしく、俺達男は皆屋敷から追い出され、何が行われて居るかすら知る事が出来なかった。
『七つまでは神の内』『男女七歳にして席を同じゅうせず』これ等の言葉のコンボで普段は七歳未満は男女の区別をしないのだが、桃の節句だけは例外で乳飲み子ですら参加不可だというのだから、本当に何が行われているのだろうか?
日々様々な事が起こるが概ね大事無く楽しく思い過ごしていた、そんなある日の事である。
あ、タヌキだ。
その人物を目にした時の第一印象はその一言に尽きた。
別に老獪な狸爺と一目で看破した訳ではない、文字通りタヌキが髷を結い裃を纏い刀を帯いだ姿で立っていたのだ。
街を歩いていれば頭に猫耳の有る猫又を見かけることは偶に有る、だがそれ以外の妖怪に分類される者をこの江戸市中で目にしたのは初めてである。
「御免、其許猪山の鬼斬童子とお見受けする。拙者は浅雀藩野火家家老、浦銅鑼左衛門申す者で御座る。笹葉殿はご在宅で御座ろうか?」
丁度屋敷を出ようとした俺に狸侍がそんな声を掛けてきたのだ。
「はい仰るとおり、お……私が鬼斬童子、猪河志七郎です。笹葉なら今は屋敷に居るはずですので、お取次致しましょうか?」
見慣れぬ風貌の狸侍に内心かなり驚いてはいるのだが、それを表面に出せば失礼に当たるかもしれない、と努めて平静を装いながらそう言葉を返す。
すると浦殿はさも驚いたと言う風に大きく目を見開き、改めて俺をまじまじと見下ろした。
「噂には聞いておりましたが、本に幼き童子とは思えぬ丁寧な対応、有り難く存じます。ご足労では御座るがお願い致します」
一体どんな噂が流れているのか少々気になる所では有るが、家老の重責に有る者がわざわざ自ら足を運んで来たのだ、きっと重大な要件に違いないだろう。
「では、少々お待ちくださいませ」
俺はそうとだけ言って、踵を返し屋敷へと逆戻りすると笹葉を呼びに走るのだった。
浦殿と笹葉の会談は屋敷の表向きに有る応接間でとり行われた。
何故か俺も同席する様に先方から求められたので笹葉のとなりに座り、土産にと頂いた銅鑼焼きを口にしながら茶を啜っている。
「……という訳で、我が藩の民草を救って頂いた事、殿より厚く御礼申し上げるよう言付かって罷り越しました。コレが一つ目の要件に御座います」
浦殿はそう言って懐から取り出した封書を笹葉に差し出した。
それを受け取りはするものの開く事無く文箱へとしまった事から、藩主から藩主に当てた御礼状で有る事は察しが付いた。
どうやら兄上達は全く以て順調に京への旅路を進んでいる訳では無く、少なくとも浅雀藩でトラブルに巻き込まれていたらしい。
と言うか仁一郎兄上は兎も角、義二郎兄上が旅路を行くならば至る所で騒動を起こすなり巻き込まれるに違いない、と思えてしまう辺りある意味物凄い信頼度である。
だがこの話だけならば俺が同席する必要性は全く無いように思える、主家の者へ直接御礼をと言う事だとしても、末弟で有る俺では無く信三郎兄上か、母上の方が相応しいだろう。
わざわざ指名して同席させたのだから、何か俺に対しても要件が有るのだろうとは思うのだが、浅雀藩野火家がどれほどの規模で何処に有る家なのかすら知らないので、皆目見当すら付かない。
「確かに承りました、此方の書状は早々に国元へと送り届け、追って返状を送る様進言致します……。して、一つ目と言うからには二つ目以降の要件が有るので御座いましょう? 拙者と貴殿、古い付き合い故遠慮は無用ぞ?」
後から聞いた話しでは、浅雀藩は我が猪山藩と山を挟んだ隣同士で、父上と先方の藩主も同年代であり、更には双方の江戸家老も同年代と、決して浅く無い付き合いの有る家なのだそうだ。
「……実は鬼斬童子殿に同席して頂いたのは他でも有りませぬ。我が主君のご子息様の初陣に同行頂きたいので御座います」
浦殿は少しだけ言い辛そうに声を潜めるとそんな事を言い出した。
確か俺の初陣の時に義二郎兄上から聞いた話では、武家子弟の初陣には家中の者が付き添うのが通例で、他家の者に助けを求めたりすればそれ自体が『御家の恥』とされる事も有ると言う事だった筈だ。
「……何か深い訳が有りそうで御座るな、拙者の事で有れば深くは聞かぬ任されよ、と言えるが、流石に主家のご子息に出馬願うとなれば、詳しく聞かぬ訳には行かぬぞ?」
どうやら笹葉も俺と同じ様な事を思った様で、そう単刀直入に問い掛ける。
「無論……、実はですな……」
そんな出だしから始まった浦殿の話を纏めると、現在野火家には三兄弟が居るのだが、その中で誰を跡取りとするのか、家臣達の中で意見が別れているらしい。
通常ならば主君の決めた方針が最優先となるはずなのだが、大大名で有る浅雀藩は一部の家臣にも大きな権力が有り、そういう者の意見を蔑ろにする事が出来ないのが実情なのだそうだ。
藩内は側室の子で有る長男を押す一派と、正室の子で有る次男を押す一派、そして庶子で有る三男を押す一派と別れており、直接的な闘争こそ起こっていない物の様々な多数派工作が水面下で起こっていると言う。
主だった者はどの一派なのかはっきりしているが、旗色を示していない者も数多く、もしも付き添いが他派だった場合碌でもない事に成り兼ねない、それを避ける為にも友好藩で有る猪山藩の子息に同行して欲しいのだそうだ。
そういう事ならば俺では無く信三郎兄上でも良さそうな物だが、今回初陣を飾る三男は俺よりも1つ年上の七つと幼い上にメインとなる得物が銃器だそうで、銃の音に慣れた猟犬――四煌戌の事だろう――を連れて居る俺が良いと判断したとの事だった。
「……という訳で御座る、流石に今この場で返答を求めたりは致しませぬ。ですが、この様な御家騒動が明るみに出れば、浅雀家事体が取り潰し云々と言う事に成り兼ねませぬ。故に公言等されませぬ様お願いいたします」
両の拳を畳に押し付け深々と頭を下げる浦殿の姿に、俺はなんと答えて良いか解らなかった。




