百五十二 志七郎、母を侮らず、新たな力を得る事
虎殿が来訪して数日、智香子姉上の離れからは朝夕問わず煙が立ち上り、時折響く堅いものを叩いたり削ったりする音から、休みなく作業が続けられている事が見て取れた。
瞳嬢も礼子姉上と共に、裁縫や料理掃除洗濯、御茶に御花に御琴と習い事のスケジュールが詰め込めるだけ詰め込まれている状態である。
この時期の江戸は雪こそ積もって居ない物の、寒さで土は固く霜の降りる朝も少なく無い、その為農繁期を迎える前に一気に花嫁修業を進めようと言う事らしい。
忙しい日々を過ごす二人に対し、早急にやらなければ成らない事の無い豚面は、取り敢えずしばらくは俺と行動を共にする事と成った。
俺が積極的に鬼斬りに出る事も無く、一日の殆どを剣や銃の稽古と精霊魔法や外国語の勉強に費やし、屋敷から殆ど出る事が無いので彼が暴走する様な要素が無いと言うのが決め手だ。
そして今日も早朝稽古よりも早く、未だ日も昇らぬ内から俺と豚面は連れ立って犬達の散歩へ出かけて居た。
「豚さんは犬の扱いがほんに上手いねぇ……、家のが他所様に懐くのなんざぁ仁さん以来だよ」
「犬が懐く者に悪い奴は居らん、お主ならばきっと良い仕官先が見つかるじゃろうて」
こうして連れ立って歩いていると、普段俺が一人で散歩する時よりも多くの人が声をかけてくる。
それに対して豚面は逐一足を止めては柔和な笑みを浮かべ丁寧に対応している、その様子は武辺一辺倒で知恵周りの悪い愚か者には全く以て見えない。
むしろその応対を見る限りに於いては穏やかで気遣いが上手い、そんな好人物としか思えないだろう。
だからこそ『狂化』等と言う物騒な能力を持っている事が、俺には未だ信じられなかった。
「はぁ……ホンマにコレで良えんやろか……」
犬同士の交流が終わったのを見計らい、散歩を再開ししばらく歩いていると、豚面がため息を付きながらそう呟いた。
「もう数日もすれば、虎殿達の作業も終わるでしょう。術具でなんとかなると言っていましたし、今は焦る時では無いでしょう」
先日彼が口にした自分だけがやるべき事を見出だせない現状に対する悩み、それが未だに彼の胸に燻っている物と思い、そう言葉を掛ける。
「ちゃうねん。先生の事も望奴の事も錬玉姫の事も、信じとるからソッチはもう良えんですわ。ワテがアカン思うてるんは、奥方さん……猪山に負担を掛け過ぎてんちゃうか、思うてまんねん」
彼等の生活、習い事、更には『仔猫』に掛かる費用、と本来ならば彼等が自身で稼ぎ支払うべき費用の殆ど全てが、今現在は猪山……猪河家が負担している。
それが余りにも厚遇されすぎで、それに見合うだけの物を返していない、と彼は思い悩んで居るのだと言う。
「んー、あまり深く考え過ぎなくても良いと思いますよ。母上はああ見えて歴戦の博打打ちですから、皆さんの事も損して元々の大穴賭け程度のつもりでしょう。仔猫達の事も姉上達が望んで引き取るんですから、気にする必要はないでしょう」
瞳嬢の結婚相手選びや虎殿の再招聘等、彼等を受け入れた事で得られるだろう役得は決して少ない物では無い、と母上が口にしていたのも事実である。
仔猫達に付いても、おミヤが上手く育てれば良い騎獣に成ると言った事から、三匹を姉上達が、二匹を瞳嬢と望奴が、最後の一匹も笹葉の嫡男が引き取り育てる事に成った。
ただしその育て方は猫又達の秘術に類する物らしく、如何なる方法で手懐け騎獣としたかは、墓まで持っていく口外法度であり、もしも破れば七代祟るとまで言われたので、俺は詳細までは知らされていない。
「それに……母上の事ですから貸しっぱなしにはしないでしょう。えげつないまでにしっかりとした取り立て有るでしょうから、気に病む必要は本当に無いと思いますよ」
「ほなら安心でんな……って、それ安心したらアカン奴やんかー!」
俺の言葉に一瞬納得したような表情を見せるが、直ぐに裏手で突っ込みながらそう切り返す。
んー、やっぱり彼も頭の回転は悪く無い、きっと『狂化』の影響で物覚えが極端に悪いってだけじゃないだろうか?
それから更に数日、今日はお花さんも学問所での講義に出かけ、母上からも特に用事を言い付かる事も無く、一日フリーだったので豚面と犬達を連れて何処かへ行こうかと相談していた時だった。
「シッチロー、メンタロー、妖異が出来たネー。作業場に来て欲しいヨー!」
と、縁側から虎殿に呼ばれたのだ。
前述の通り、特に何をする訳でも無かった俺達はホイホイと言われるままに姉上の離れへと足を運ぶ。
「お待たせしましたの~」
「お師匠のお陰で鬼斬りに役立つ術具が色々と作れたのねん、これ等が有れば『狂化』も怖くないのよ~!」
するとそこには目の下に真っ黒な隈を作り明らかに疲弊しきった智香子姉上と望奴が、その疲労感とは裏腹に全てをやり切った満足感を湛えた笑みで俺達を迎えてくれた。
その姿は前世の長い張り込みで疲労のピークに有りながら犯人を逮捕した刑事の姿によく似ている。
「蓋り友、富民普及のサ行、欲岩盤マスターネ! デモ、他画家これしきで披露コンバインでは、世界最強の錬玉術マスターには届かないネー。精進料理アル中ネー」
対して何が面白いのかHAHAHA! と高笑いしながらそう言う虎殿からは疲労のひの字も感じられず、むしろこれから一仕事するぜ! といった活力に溢れていた。
虎殿は俺が見立てた還暦など軽く一回り超え、当年取って米寿と、森人のお花さん程では無いにせよ十分に高齢者と言える年齢だ『老いて尚盛ん』なんてレベルでは無い。
「お師匠が沢山素材を提供してくれたから、志七郎君の分もあっしが作ったの、二人とも付けてみるの~」
言われて作業台の上に並べられた術具は、ゴーグルの様な一発で使い方の解る物から、今一つ用途の解らない物まで、雑多に積み上げられているように見えた。
それらを俺達は一つづつ丁寧に説明を受けながら身に着けていく。
「今回の目玉はその眼鏡なの! 『愚者の瞳』『術者の瞳』『戦士の瞳』『賢者の瞳』四つの術具を全て纏めた最高級の傑作なの!」
興奮した様子でそう捲し立てる姉上の説明に拠れば、ゴーグル状の術具は身につけると鬼斬り手形同様魂に接続され、生命力、氣力、体力そして身体の状態をその目で見える様にする物だという。
付けて見ると言われた通り、視界の端に青い玉の中に赤、青、黄色のゲージが見えた、ゴーグルに映しだされている訳ではないらしく、目玉だけを動かし視界を操作しても常にそれらが見える。
これを身に付ける事で感覚だけに頼らず、確実な危険管理でピンチに陥らない様にする、と言う事らしい。
「そして此方が『狂化』対策の肝なのよ! この『自動印籠』コレが有ればほぼ大丈夫ね!」
その名の通り見た目はただの小さな印籠にしか見えないそれだが、受けたダメージや疲労に反応し、中に収められた霊薬が自動的に体内に転移する、というとんでもない代物だ。
霊薬の補給や設定の変更は専用の設備が無ければ行えないとの事なので、必ずしも万能とまでは言いがたいが、それでも一瞬足りとも相手から目を離すことが出来ない様な戦いの最中に、隙を作らず霊薬を使えるのはかなり大きいだろう。
その他にも即死級の攻撃を一度だけ無効化する『空蝉地蔵』や、あらゆる魔法や術のダメージを軽減する『対魔の首飾り』、眠りや混乱といった精神に害を及ぼす術の抵抗力を高める『抗魔の腕輪』等など、多くの術具が用意されていた。
「こんだけ備えていれば、豚面も十分以上に戦える筈なの。志七郎君も事故死って事ぁ避けられると思うの」
「素材も技術も体力もあっし等が出来る事は全部やったのね……だから、だから……取り敢えず今は寝かせてほしいのよぉ……」
とそこまで言った所で緊張の糸が切れたのだろう、二人は崩れ落ちる様に倒れこんだ。




