百四十七 志七郎、悩みを聞き、相談に乗る事
なんとか徹夜作業は避けられ、それでも寝るのが大分遅くに成った事も有り、翌朝は久しぶりに大寝坊をしてしまった。
俺が起きた時にはもう早朝稽古も終わり、多くの者達が朝食も取り終えてその日の仕事の為に動き始めていたのだ。
普段、四煌戌や仁一郎兄上から預かっている犬達の散歩は稽古前に済ませているのだが、今朝はそれが出来なかったと言う事でもある。
犬にとって散歩と言うのは食事と並んで重要な事柄である、それをなにも言わずにお預けとなれば、彼等に掛かるストレスは人間の俺には計り知れない物があるだろう。
そう思い、朝食を手早く腹に詰め込むと、俺は犬たちが居る筈の庭へと駆けて行った。
「お? ボン、お早うございます。差し出がましい事とは思いましたが、犬らの散歩はワテが代わりに行っておきましてん」
するとそこには犬たちと戯れる豚面の姿が有った。
「えっと……いえ、それはすごく有り難いのですけれども……」
なぜ彼がその様な行動を取ったのか、それが解らず言葉に詰まってしまう。
それに兄上の犬達も四煌戌も十分な訓練を受けている事も有って、無差別に攻撃をする様な事こそ無いものの、誰の命令でも簡単に聞くような事も無い。
兄上が十分に言い聞かせているから、俺の世話を受け入れているだけで、他の家臣達は勿論、家族ですら彼等を散歩に連れ出すことは出来ないのだ。
そんな犬達が、俺以外仁一郎兄上にすら懐かぬ四煌戌が、豚面には腹を見せて甘えた声をあげているのだから、その光景は余りにも衝撃的だった。
「ワテ昔から猫はアカンけど、犬にゃ好かれる質ですねん。望奴も嬢様も修行で忙しいさかい、ワテもなんか出来る事探さへんと……」
なにやら自虐的な笑みを浮かべ豚面はそう言った。
「出来る事って……、貴方程の実力者ならその腕前を活かせる事は色々と有るのでは?」
望奴は錬玉術の修行を、瞳嬢は花嫁修業を、それぞれかなりハードなスケジュールで予定が組まれているが、豚面には武芸以外の余技とでも言うべき者が無いのだと言う。
だがそんなものが無くても彼程の実力者ならば、町道場で師範を務めたり、単独で鬼斬りに出たりと、その武芸の腕前を活かせる事は色々と有るだろう。
しかし豚面は俺の言葉に、大きなため息を付き
「ワテは頭が良ぅ無いねん……、はっきり言うてしまえば阿呆の類なんや……」
と自虐と言うには余りにも確信を秘めた面持ちでそう応えた。
豚面の家、豚川家は本来豹堂の旗下で様々な市井の情報を集め、時に瓦版屋に情報をリークしたり、時に情報の拡散を差し止めたりと、所謂諜報を担う家だったのだそうだ。
そんな家の生まれで有る彼だが、幼いころから頭を使うよりも身体を使う事の方が得意な質であり、また家督を継ぐ立場でも無かった事から、家伝の知識や技術どころか一般的な勉学も碌に学んで来なかったのだと言う。
流石に町人が読む瓦版や草双紙等を読める程度の読み書きは出来るし、ちょっとした買い物程度の計算は出来るが、それ以上の事は出来ないらしい。
「そんなワテやさかいに、人に物を教えるなんて事は出来やしまへん。鬼斬りかてワテ一人やったら、何処に行けば良え稼ぎに成るか、どいつを狩って何処を持って帰れば高く売れるか、そんな判断も出来まへんねん」
今までであれば望奴か瞳嬢が彼が何処に行けば良いのか、何を狩るのか、全てを決め指示を出してくれた。
だが、二人が御家再興の為に改めて修行に入った事で、彼等にそれ以上の負担を掛けまいと、自分の事は自分で決めようと決意したのだそうだ。
「せやけど犬の散歩ならワテにも出来そうや思うたんですわ。ほんまはボンの大事な仕事や言うのは解ってまんねん……」
「いやいや、別に責めるつもりなんて毛頭有りませんから!」
今にも泣き出しそうな顔で言い募る豚面に、俺は慌ててそう言葉を返す。
先日の稽古で見せた豪快な怪力無双の武人といった風情は完全になりを潜め、まるで幼い子どもの様にすら見えた。
「でも、そういう事なら家の若手連中と一緒に鬼斬りに出れば良いのでは?」
家の若手の中でも、先日やらかした四人は母上から科された罰金を支払う為に、殆ど毎日鬼斬りに出ている筈だ。
「ワテもそうしようか思うたんやけど、笹葉はんに止められたんですわ。ワテが連中に混ざるとワテの強さに寄生する様になってまうからアカンって……。ワテと釣り合う様なお人らは国元に帰っとって、一緒にってのは難しい言う話でまんねん」
ああ、そうか……父上は今、家臣団の代替わりを推奨しており、どの家も順次若手の跡継ぎを参勤に参加させるようにしているのだ。
近いうちに父上自身が隠居し兄上に跡目を継がせる準備なのだと、以前に聞いた覚えがある、その所為も有って今現在江戸に残っている中で、仁一郎兄上よりも年嵩の家臣は江戸家老の笹葉だけである。
「分かりました……なにか回せる仕事が無いか、俺の方から母上に相談してみましょう」
流石にこのまま放置するのは、色々と問題が有りそうだと判断し、俺は彼の事を母上に丸投げする事にした。
「という訳なのですが……」
礼子姉上と瞳嬢が揃って習い事へ出かけた隙に、俺は母上に豚面の件について話をする事にした。
「あらまぁ、そんな事になってたの……」
すると母上はちょっと驚いた様な顔を見せ、それから右の人差し指を顎に当て考えこむ。
母上に拠ると豹堂家旗下の望月家、豚川家は双方ともに優れた生業を持つ豹堂の二本刀として一昔前にはそれなりに有名だったらしい。
望奴が修行半ばで出奔せざる得なかった様に、豚面にも何か泣き所は有るだろうとは思っていたが、それにしたって全く何も出来ないとは思っていなかったそうだ。
「物事をあまり考えず、武芸についても感覚でやる質……一郎に師事しなかったらぎーちゃんもそういう風に育ってたかも知れないわねぇ。とは言え一郎は何処に行ったかも解らないし、ぎーちゃんも戻るのは何時になるやら……」
どうやら俺の話を聞いた母上の中では、豚面は義二郎兄上の下位互換と言う認識らしい。
「あ、そうだ!」
そうして少し考え込んだ後、母上は両の手を打ち合わせながらそんな声を上げた。
「そういう事なら、それこそちーちゃんに任せれば良いのよ」
続けてそう言うが、その意図が今一つ俺には解らなかった。
「智香子姉上に……ですか? ですけれども、智香子姉上は既に望奴が錬玉術を身に着ける為に労力を割いているのに、それ以上の負担を強いるのはどうかと……」
「何処で何を狩れば良いのか解らないなら、その辺を指示してやれば良いのよ。智香子なら錬玉術に使う素材を色々と必要としてる訳だし、確か智香子が出入りしてる口入屋でも色々素材募集の依頼が出てる事が有ると、前に話してるのを聞いた覚えがあるわ」
姉上は素材を手に入れたり、逆に素材を求める依頼を受けたりと、口入屋と呼ばれる今で言う人材派遣会社の様な場所を度々利用しているらしい。
通常鬼斬りで得た素材は付き合いのある商人を通して売りに出されるのだが、市場価値が極端に低かったり、希少性が高い素材は中々正規ルートで買う事が出来ない事がある。
前者の場合は自由市場で売られている事も有るが、後者の場合には大概一部のお得意様が買い占めてしまうので、先ず手に入らないらしい。
そう言う時に口入屋に入手を依頼を出すのだ、手数料や危険度に見合った手当等が上乗せされるので、割高には成ってしまうが高確率で素材を手に入れる事が出来るのだそうだ。
俺は自分に必要な物を狩りに行くのが主だったので、そういうシステムが有る事事体知らなかったが、そういうシステムも有るらしい。
「どこの口入屋も流れ者や一見さんに割りの良い仕事を回す様な事はしないからね、かといって私や松吾郎経由だと猪山藩の紐付って事になっちまう。ちーちゃんも家の娘では有るけれど何時かは嫁に行く身、早々角は立たないさね」
ニヤリっと悪そうな笑みを浮かべながらそう言う母上、きっとこの一件もまた彼女の描く未来予想図に必要な一手に成るのだろう……
一体どれほど先まで見えているのだろうか。




