百四十二 志七郎、二人の怒りを目の当たりにする事
「えいほ! えいほ! えいほ!」
あれから十分程でそんな掛け声と共に駕籠に揺られ智香子姉上と望奴達が帰ってきた。
姉上の話では例の薬問屋にも家宅捜索が入っていた様で、そこで話を聞き急ぎ戻って来たそうだ。
わざわざ駕籠屋を使ったのは、武士は江戸市中を走ってはならないと言う法度を守った上で少しでも早く移動するためだ。
だが腐れ街と我が猪山屋敷の間は徒歩で移動すれば片道半刻程は掛かる距離がある、幾ら何でも早過ぎると思ったのだが、去っていく駕籠屋の背中を見て直ぐにその疑問も瓦解する。
彼等は氣の弾ける音を響かせながら、物凄い速さで遠ざかっていったのだ。
後から聞いた話だが、二人一組で駕籠を担ぎながら『縮地』を繰り返すその荒技は、ほんの少しでもタイミングを外せば客を含めて大転倒しかねない物だという。
それを使いこなす彼等は『猿羅一家』、江戸でも一、二を争う超速駕籠屋であり、その運賃は通常の駕籠屋の軽く十倍、一里を行くのに一両というのだからおいそれと使える物では無い。
それを三挺並べて帰って来たのは、その運賃を自腹では無く幕府が支払うので急いで帰って欲しいと、薬問屋に居た役人に言われたからだそうだ。
閑話休題、姉上が戻った事で彼女が住み薬剤や術具を調合する離れに対する家宅捜索が始まった。
俺の感覚では平行して母屋、そして兄上達や家臣達の住む長屋にも調査の手をのばす必要が有ると思うのだが、幕府からの信頼と言う事かそこまで徹底した捜索は行われないらしい。
離れの捜索も『捜索していない薬師の作業場』という例外を作らない為、という形式的な意味合いが強い物の様だ。
姉上がそちらに立ち会っている間、俺達はと言うと、
「ニャー、吸ってるニャ! すんごい飲んでるニャー」
台所で望奴が手早く用意したミルクを、空腹の為目を覚ました仔猫達に与えていた。
それに特に興味を示したのは睦姉上である。
瞳嬢がミルクを与えているのを見て目を輝かせて寄って来たのだ。
ミルクの入ったシリンジと仔猫を一匹手渡すと、瞳嬢がやっているのを見真似てミルクを飲ませ、感嘆の声を上げている。
「……という訳で、絞める訳にも行かず連れ帰ったのですが、おミヤなら……もしくは根子岳の方々ならどうにか育てられないでしょうか?」
そんな姿を横目に俺はおミヤに仔猫達の事に付いて相談を持ちかけていた。
おミヤは静かに相槌を打ちながら俺の話を聞き、少しだけ思案する素振りを見せる。
そしてミルクを飲ませ終わった瞳嬢そして望奴の方を向き彼女達を手招きした。
本当ならば俺の口からではなく自分で説明するべき事だと、瞳嬢も思っていたらしく彼女は即座に此方へと歩み寄る。
望奴は嫌な予感がしたのだろう、少しだけ腰が引けているが、主家の姫を見捨てる訳には行かないと、やって来て正座した。
猫アレルギーの症状を恐れてか、勝手口の外に居た豚面もおミヤに呼ばれ、渋々といった風情で中へ入ってきた。
三人が並んで座ったのを見渡し、おミヤは普段皺の中に隠れ開いているのか閉じているのかも解らない目を、クワッと大きく見開くと
「こん……っの、大戯けどもめが!!」
空気どころか屋敷が震える様な怒声を上げた。
余程怒りが深いのだろう、その全身からどす黒い妖気が吹き出すのが目に見えるようだ。
その怒りの矛先が自身に向いていないのを良い事に、俺はそっとその場を離れる事にした。
おミヤに説教を受けている三人から離れ外へと出ると、幕府老中の増平様が一人で煙管から紫煙を燻らせていた。
「増平様、捜索の方はよろしいのですか?」
とそう声を掛けると
「智香子姫は疑う必要の無い相手じゃからなぁ……、儂が来たのも飽く迄も幕府がこの件に力を入れていると言う対外的な物に過ぎぬよ」
ぷかぁ……と煙を吐き出しながら、以前会った時とは違う好々爺の笑みを浮かべそう口にする。
だがその目は決して笑っておらず、何かを見定める様な鋭さで俺の後ろへと向けられていた。
「儂が見なければ成らぬのは、彼処に居る無届けの薬師では無いかと思ったが……、それも杞憂だったようじゃな……」
視線の先に居たのは望奴なのだが、彼が『麻薬』を調合したとは増平様も思っては居ない様だ。
「ここ最近、技量や格に見合わぬ大物狩り繰り返しておる鬼斬り者が居ってな、それだけならば特に問題と成る話ではないのだが……」
彼はそこで一旦言葉を切り、それから声を潜めて
「そう言った大物狩りを達成した後、不審死を遂げる者が後を経たぬのだ」
これまでもそう言った事が無かった訳ではない、だがここ数年そんな事例が爆発的に増えているのだと言う。
その原因となっていると考えられているのが『発する二式』『発する三式』と言う麻薬である。
それらは元々海外の……西大陸の冒険者達が強力な魔物を命と引換えにしてでも退治しなければならない時に玉砕覚悟で使う、麻薬と言うよりはドーピング薬とでも言うべき物だったらしい。
それが家安公の時代に火元国に持ち込まれ、この国で手に入る素材で改良を加えられた結果、即座に落命するほどの副作用は無くなり、代わりに強い習慣性を持つ麻薬に生まれ変わった。
だが副作用が弱く成ったとは言え繰り返し使用すれば当然身体に負担を掛ける、しかもそれらの薬も俺の知る他の麻薬の類と同様、使う度に身体が慣れてしまいより多く強い薬を求める様になって行く。
そして有る一定を超えた所で薬の効果に心臓が耐え切れず死に至るのだそうだ。
「じゃが今の所、彼の薬を作っていると思われる場所も材料も発見出来ては居らぬ。恐らくは江戸州で作られている訳では有るまい、何処からかの荷物に紛れて持ち込まれる……抜荷の類であろうな」
忌々しい事この上ない、っと苦虫を噛み潰した様な表情でそう言う彼の姿は、前世の警察官や麻薬取締官達と同じものに見えた。
「お主は神の加護を持ち、幼くして『鬼斬童子』と謳われる武勇を持つ故心配は要らぬとは思うが……、安易に力を求めてはならぬぞ、なんの努力もせずに得た力は必ず己に返ってくるものじゃ」
そう言う彼は俺を心配して居ると言うよりは、俺を通して他の懐かしい誰かを思い出しているかの様に思えた。
「増平様はこの薬に何か嫌な思い出でも有るのですか? 御役目と言うだけにしては随分と熱が篭っている様ですが……」
問いかけるべきでは無いのかもしれない、少なくとも前世の俺ならばこんな事を口にする事は無かっただろう、だがそこは未だ子供で有る者の特権と言う事で勘弁してもらおう。
すると彼は一瞬の躊躇すら無く、
「儂は息子を一人育て間違えた。文武以外の才能を認めず、その努力を認めず、結果だけを他者と見比べて、あやつを詰り罵った」
罪を犯した者がそれを認める時と同じ様な顔でそう言った。
「あやつは焦り、苦しみ、性急に結果を求め……麻薬に手を出した」
足りない力を氣を麻薬は簡単に埋めてしまい彼は結果を出してしまった、その事を増平様は喜び息子を褒めたのだそうだ。
当然の事ながら、彼はより良い結果を出す為に麻薬を使い続けた。
増平様が異変に気がついたのは、息子が布団の中で冷たく成っているのを家人が見つけた時だった。
「息子が死にその部屋から麻薬が見つからなければ、儂は自分の過ちに気付く事すら無かったかもしれぬ……」
後悔と自責の念は時を経て尚彼を苦しめているのだろう、震える声を絞り出す様な口ぶりからはそんな事がありありと感じられた。
「故に、この麻薬が未だ蔓延し続ける事は、若かりし頃の儂を愚かさを突き付けられている彼の様に思えるのだ」
私情を吐露しながらも、その言葉には為政者の一角たる者の矜持と怒りが交じり合った、そんな複雑な感情が込められている、そんな風に俺には思えた。




