百三十 志七郎、下屋敷へと踏み込む事
「ちょいと邪魔するよ、うちの若い衆に舐めた真似し腐ったのは此処の連中かい?」
三人と会った場所から然程離れていない位置に件の下屋敷は有った。
その建物は我が藩よりも大きく装飾や作りも比べ物に成らない程に豪華で、どう考えても大大名の下屋敷としか思えない佇まいだ。
しかしうちの賭場ですら惜しげも無く篝火を焚き提灯をぶら下げ、闇の中に紛れぬ様煌々とと表現するに足るだけの灯り付けていたのに、灯りと呼べる物は殆ど無く、本当に此処で賭場など開かれているのか、端から見た段階では疑問符を浮かべざるを得ない。
だが、窮状を訴える三人の話を聞いた母上は、数人の手勢と信三郎兄上と俺だけを連れ、さっさと終わらせ様とばかりに、なんの下準備をする事も無く此処へと向かい、躊躇なく敷地に踏み込むと開口一番そう言った。
余りにも無謀な行為と俺の眼には写ったのだが、母上は堂々と止める間も無なく進んで行く。
「え? 母上! ちょ、一寸待つでおじゃる!」
どうやら兄上も俺と同じ事を思って居たようで、そう声を上げるが母上はちらりと俺達を振り返る物の止まる様子は無い。
「何やってるの貴方達、武士は舐められたらお仕舞。幾らお馬鹿さんでも家臣を見捨てれば世間に舐められ、かと言ってこんな真似をされて下手に出ても舐められる、なら行くしか無いでしょう?」
そう言う母上の表情は普段の嫋やかで優雅なソレとは違い、かと言って博打に熱を上げている時とも違う、例えるならば獲物を狙う雌ライオンの様な物だった。
「ああいう顔を見ると、義二郎兄上の母親だって良く解りますね……」
「正直、麻呂にも同じ血が流れているのか疑問を感じるでおじゃる……」
自分が獲物だという訳でも無いのに二人揃ってビビってしまったのも無理無い事だと思いたい、正直な話下手な鬼や妖怪を相手に斬り合うよりも、母上を相手取る方が数段恐ろしい事の様に思えたのだ。
何処の誰だか知らないが、虎の尾を踏んだ相手に同情を禁じ得ない。
心のなかでそっと手を合わせていると、母上は俺達の動きを待つ事無く、入り口の戸板を乱暴に蹴り開いた。
「客の方から出向いてやってるのに、出迎えの一人も出てこないたぁ、躾けの成ってない連中ね。頭の器量が疑われるわねぇ」
怖いもの等何一つ無い、そんな立ち振舞でズカズカと土足のまま上がり込んで行く母上を俺達は慌てて追いかけた。
「な、何だテメェら! 此処を何処だと思ってやがる! 大大名富田藩の下屋敷だぞ!」
そんな声が上がったのは、屋敷に上がりこんでさらに随分と奥へと進んでからの事だ。
屋敷の広さに対して余りにも少ない人の気配、それが唯一集まっている部屋へと名村の案内で進み、その襖を開けて初めて彼らは俺達に気が付いたらしい。
「そんな事ぁ重々承知の事、そういうあんた等こそ何処の何方様かしらねぇ? 富田の中間連中にしては随分と心得が足りないみたいだけれども?」
じろりと彼らを睨め回し母上はそう言った。
中間というのは主家に事があれば尖兵として戦う事もある者達である、たとえ平時とはいえ見張りも居らず、余所者にこうも簡単に屋敷の奥へと入りこまれるようでは、その言葉の通り用心が足りないと言わざるを得ないだろう。
部屋の中には二十には少し足りない程度の男達が、むき出しの油皿に灯された少ない灯りの中で博打を打って居た様だ。
それにしても、この屋敷が何処の誰が所有するものなのか、母上は着いた時から知っていた様な口ぶりだ。
「富田藩の屋敷に居るんだから、富田藩の中間に決まってるじゃねぇか! あんたこそ何処の何様でぇ!? 富田藩と……骨川家と事構えるってのがどういう事か解ってんのかぁ! 下手を打たなくても戦だぞ! あぁ!」
背中そして両肩から胸までを覆う刺青に褌と腹に晒しを巻いただけの、恐らくは博徒としては一般的な装いなのだろう、男達は皆が皆、同じような格好の者ばかりだ。
そんな中でまだ若い、恐らくは一五、六位の男が一人素早く立ち上がり、晒に挿した合口に手を掛け恫喝の言葉を口にしたが、正直言って迫力が全く足りて居なかった。
だが彼の言う通り他藩の屋敷に押入った等という事が有れば、戦争の引き金としては十分だろう。
実際に殺し合う様な所まで発展せずとも、幕府に対して訴え出れば此方だけがお咎めを受ける可能性は十分に有る。
「はんっ、騙り風情が戦を軽々しく口にするんじゃないよ。空の屋敷に居座ってる空き巣の分際で!」
しかし母上はそれを鼻で笑い飛ばすと、更にそう口にしてもう一歩踏み込んだ。
ざわり……と空気が動いた。
母上の言葉を切っ掛けにして、目の前の少年だけで無く回りの者達も皆、思い思いの獲物を手に立ち上がったのだ。
「図星かい……。まぁ、博打なんてのは余程の間抜けをしない限りは胴元が一番儲かる様になってるんだ。大名の……それも富田藩の様な大大名の名を背負ってる連中が、安い賭場を開いてるって時点で可笑しな話さね」
そんな彼らをあざ笑う様に、もう一歩踏み込みながら念を押すようにそう口にした時だった。
「う、うぁぁぁぁぁああああ!」
目の前の少年が弾かれた様に叫びを上げながら、合口を抜き母上に斬りかかったのだ。
されどもその刃は母上に毛微塵程の傷を付ける事すら出来無かった。
「そんな短い合口を振り回しちゃ人は殺せないわよ、きっちり根本まで刺さないと駄目よ……」
抜きざまに振り下ろしたその手首を掴み取り、足を払い、倒れこむその腹を躊躇なく踏み付ける。
「ぐぇぁ……」
カエルを潰した様な声を上げ少年が白目を剥いた、恐らくは水月の急所に入ったのだろう。
「婆ぁ! こっちが大人しくしてりゃ、良い気になりやがって! テメェら構うこたぁねぇ、殺っちまえ! 足が付く前にずらかりゃ良いだけの事だ!」
その様子を見ていきり殺気立つ男達。
「奥方様お下がり下さい!」
「主家に類が及ばぬと解った以上手心は加えぬぞ」
「死にたい奴から、かかって来い!」
流石にこれ以上母上を矢面に立たせる訳には行かないと、原因となった三人が刀を抜きながら前へと出る。
若手で経験の乏しい三人では有るが、仮にも武勇に優れし雄藩猪山の男で有る、彼らは殺し合い前提の状況だと言うのに臆した様子は無い。
むしろ俺はこの状況で、自分がどうするべきなのか未だに迷っていた。
相手が鬼や妖怪、獣の類で有れば躊躇なく、とは言い難いが殺す事にはある程度慣れてきた。
だが人間が相手となればそれを成す事にはまだ抵抗が有る。
この状況で肝の座った様子を見せているのは信三郎兄上だ、彼は一歩下がった位置で前へと出ようとはしていないが、それは怖気づいての事では無く後方を警戒しての事であった。
対して、博徒達は口では威勢の良い事を言っている物の、実際に斬り合うつもりは無いのか、誰一人として踏み込んで来る者は居ない。
「お前達、まだ矢田の無事も確認出来ていないんだし、被害が家の馬鹿共だけとは限らないんだ。色々と聞かなきゃ成らない事も有るから、殺すんじゃないわよ」
と母上が言うと、前に出た者達が刀の峰を返す。
ジリジリと少しずつ前へと出る我が藩の者達と、逃げ道を用意していなかったのか、文字通り追い詰められた表情の博徒達。
互いの緊張が高まり、すわ斬り合いか、と思ったその瞬間、
「止めねぇかテメェら! 相手が悪すぎらぁ」
と、部屋の奥、灯り届かぬ暗がりから、鋭い制止の声が上がった。
「たかだか五両ぽっちの為に十人から躯を晒すのは馬鹿らしいじゃねぇか、テメェら得物をしまえや。相手が猪山じゃ逆立ちしたって勝てっこねぇ」
そう口にしたのは親分か、用心棒か、闇に紛れてはっきりと容貌を確認することは出来なかったが、回りの者達とは一味も二味も違う、それだけは間違い無さそうだ。




