百二十九 志七郎、帰り道に馬鹿を見る事
「はぁ……」
お茶を一口啜ると思わず深い溜息が出た。
箸が止まらない、止めることが出来ない、そんな食事をしたのは前世から通して考えても初めての経験だった。
食後に出されてたこのお茶もわざわざ目の前で焙煎した茶葉を使った焙じ茶で、茶葉自体の質も良いのだろう特有の香ばしさに負けることの無いほのかな甘みがしっかりと感じられた。
どうやら回りの皆にとっても今夜の食事は格別な物で有った様で、酒を呑み出すと止まらない様な者ですら湯呑みを手に美食の余韻に浸っている。
「ご堪能、頂けましたでしょうか?」
皆が人心地付いたのを見計らって、石銀さんはそう母上に声を掛けた。
一仕事終えた後の心地良さげな疲労感に頬を上気させたその表情は、鯔背と言う表現がぴったりとくる顔立ちと相まって、男の俺からしても妖艶な物に見える。
あんな表情を向けられれば、若い女性ならイチコロなのではなかろうか。
けれども、母上は何時も通りの優雅な笑みを崩すことは無く、そっと懐紙で口元を抑える様に拭い、
「結構なお味でございました、流石は江戸でも……いえ、火元国でも一、二を争う包丁侍、これ以上の料理を頂けるのは上様か、帝位な者でしょう」
とこれ以上無い賛辞の言葉を口にした。
「それも猪山の皆様が譲ってくださる食材と得瓶様のご加護が有ればこそでございます」
微笑みながら自身の手柄を否定する言葉を口にするのは、火元人らしい謙遜の現れだろう。
「武の道も料理の道も神々の加護が有るだけで優れた腕に成る訳では有りませんわ。貴方様の弛まぬ努力が有ってこそ、これ程の口福をもたらす事が出来るのですわ。睦、同じ得瓶様の加護を受けた者として、しっかりと見習いなさい」
「はい! 猪河家の名に恥じニャい料理人に成るニャ!」
キラキラと音が聞こえる程の輝かしい表情で睦姉上がそう答えると、誰ともなく朗らかな笑い声が上がった。
一頻り笑った後、何時もご贔屓にして頂いてる御礼でございます、と土産の折り詰めまで頂いて、俺達は帰路へと着いた。
「しかし流石は石銀殿、粋な仕返しで御座いますなぁ」
提灯の灯りを頼りに歩む帰り道、ぶら下げた折りを目の高さに掲げ、笹葉がそう口にした。
折り詰めは本来予定されていた人数分用意されており、先程までの会席を口にする事の無かった者達の分も受け取っている。
それを『仕返し』というのは、夜遊びを優先して『最上の料理』を口にしなかった事を思い知らせる品であると言う事らしい。
「まぁ、若い殿方ですもの、一夜の美食よりも呑む打つ買うの方が魅力的に見える事も有るでしょうよ。下手を打って後悔するのもまた良い修行でしょ」
そうあっさりと斬り捨てる母上に、皆が違いないと笑い声を上げた。
「それにしても、あの者達は本当に何処をほっつき歩いて居るのやら……。つい昨日、気を引き締める様言った側から朝帰りと言う事は有るまいが……」
本当に困ったことだ、と溜息を付く笹葉。
父上や兄上達が居ない今、若い家臣達を監督して教育する立場に有るのだから、気苦労が絶えないだろう。
母上の言う通り痛い目を見なければ、何事も程々を身に着けるのは難しい話だ。
前世でもパチンコや風俗に嵌り込み、サラ金を渡り歩いて多重債務者となり、それを返し切れずヤミ金に手を出した……そんな馬鹿を何人も見てきた。
膨れ上がった借金を返す為に違法行為に手を出す……何て事も決して少ない話では無かった。
どん底に堕ちるまで理解する事が出来ず、いや堕ちても尚理解せず再犯を繰り返す者とて居た。
そんな彼らの更生は俺達の仕事ではなかったが、それでもなんとか成らないものかと苦悩した事も有った。
そんな事を思い出していた時だった。
「止まれい! この様な夜道で灯りも掲げず怪しい奴め! 我らが猪山藩の者と知っての事か!」
と先頭を歩く者達が怒声を上げた。
見れば、提灯の薄明かりでははっきりと顔立ちは解らないが、その身なりから侍と思われる三人の男達が此方へと駆け寄って来るところだった。
「一寸待った!」
「拙者、拙者で御座る!」
「刀から手を離してくだされ!」
慌てた様子で足を止めて男達はそう叫び返した。
「なんだお前達……大羅に、今、名村では無いか、残念だったな有れほどの美味を口に出来ぬとは」
灯りを近づけよくよく見れば、彼らは我が藩の家臣の若手で、食事に来なかった者達だった。
「お? 矢田はどうした? 一緒では無かったのか?」
同い年の彼ら四人はこの江戸でもよくつるんで遊び歩いて居たらしいが、どうやらそのうちの一人に何か有ったらしい。
「そ、それが……」
と言いづらそうに口籠る三人を訝しみ、
「男ならばはっきりせんか! こんな所で長々と立ち話なんて見っともない! 主家の方々にも申し訳ないとは思わんのか!」
と笹葉が一喝すると、観念したかのように項垂れ話だした。
事の発端は数日前に遡る。
その夜彼らは連れ立って夜鷹(私娼婦)を物色していたのだが、そんな彼らに
『博打で一発当てて夜鷹なんかじゃなく、太夫とまでは言わねぇが、格子や散茶と遊んだらどうだね?』
と声を掛けてきた者が居たのだそうだ。
胡散臭そうな男ではあったが、話を聞けば何処ぞの藩の下屋敷で賭場を開いている中間の者だと言う話で、大名の名を借りているならば酷いサマも無かろうと、付いて行ったのだと言う。
手持ちの銭程度ならば擦ってもしょうがない、今夜は博打で遊ぼうか、そう割り切って居たつもりだったのだが、開幕一番大当たり! こりゃあ今夜は付いてるぞ! と調子に乗ったのが悪かった。
大きな勝ちが来たのは最初だけ、負けが込み初めそろそろ手仕舞いにしようと思う度に小さいながら当たり目が来るもんだから、中々止め時が解らない。
ギャンブルと言うのは不思議な物で、最初の手持ちよりも増えてればソレは十分に勝ちの範疇な筈なのに、一度大きく増えてしまうとその最大時点よりも減っていれば負けていると感じてしまう物らしい。
次は勝てる、次で取り返せば良い、そんな事を繰り返している内に四人揃って種銭が尽きた。
熱くなって居た彼らは、賭場の頭だと言う男から勝って返せば良いと、銭を借りてしまったのだそうだ。
法定利息なんてものも信用情報機関なんてものも無いこの江戸では、利息は貸主との契約次第である。
某ヤミ金漫画で有名な『十日で一割』なんてのは未だ良心的な方で、『百一文』と呼ばれる金融業者は朝百文を貸しつけたら夕方百一文返す半日で1%という超高金利すらまかり通っているらしい。
そんな冗談見たいな金利の金貸しを誰が利用するのかと思うのだが、江戸の街でよく見かける小売商である棒手振り達は、朝借りた銭で仕入れをして商売をして借金を返し、その差額を得ると言うのが一般的なのだそうだ。
そう言った商売人達だけで無く、江戸の街では年から年中何処かで日雇い仕事の募集をしており、定職が無くとも暮らすだけならばなんとか成ってしまうので『宵越しの銭は持たねぇ』なんて言葉の通りに生活する者も多いらしい。
流石に公職とも言える武士は、そんな日銭稼ぎの町人達とは事情が違うが、それでも余程の馬鹿をしない限りは生活が破綻する様な事は無いのだと言う話だ。
「はぁ……、借財の禁止は我が藩の祖法。それを破ったばかりか、そんな見え透いた手口に引っかかるお馬鹿さんが我が藩に居るなんて……」
そんな馬鹿の話を聞き、ため息混じりに母上がそう言って天を仰いだ。




