百二十八 志七郎、名店の美味に酔いしれる事
「ようこそいらっしゃいました、猪山藩の皆様方」
そう言って俺達を迎え入れたのは、何処からどう見ても武士、それも大身の当主であろうと思われる品の良い老侍だった。
「あらまぁ、石井様! 御当主自らお出迎え済みません。それもこんな急なお願いでしたのに……」
その姿を見た母上が慌てた様子でそう言いながら頭を下げる、思った通り彼は清望藩藩主ご本人の様だ。
俺の記憶が確かなら、清望藩は火元国でもかなり北方の海岸沿い、海と山に挟まれた領地で耕作地が少ないという点で我が猪山藩とよく似た条件の小藩だったはずだ。
だがその分海の幸山の幸に恵まれており、それらを用いた様々な料理が自慢で、優れた料理人……包丁侍を数多く排出してきた土地柄だと書庫の本で読んだ覚えがある。
「いえいえ、この江戸では国元と違って良い食材を得るのも中々骨が折れる話。猪山の皆様からお譲り頂ける食材の数々が無ければ、我が藩の財政は成り立ちませんからね。多少の無理ならば喜んで受け入れるお話ですよ」
どうやら礼子姉上の野菜や俺達が調達してきた食材の内、我が家で消費されない様な余剰分や、数が揃わない高級品等の行き先は此方の藩の様だ。
財政云々と言うのもきっと市場価格よりもかなり安く売っているのだろう事は容易に想像が出来た。
それと同時に、何故今日の外食がお忍び装束では無くわざわざ正装でやってきたのか、にも予想が付いた。
市井の料理人が営む様な見世に武士が出向けば『食事の支度も満足に出来ない』と陰口を叩かれる事も有るだろうが、下屋敷とは言え武士の……大名の屋敷へと『招かれた』と言う建前であれば問題にはならないだろう。
武士が表立って副業を営む事は基本的に禁止されているが、それは飽く迄も武士の本分で有る武芸武勇を忘れて商売ばかりに注力する事を避ける為である。
故に鬼斬りや狩猟、釣りといった武士の嗜みの範疇に有る物ならば、それで小遣い稼ぎをしても咎め立てされる事は無い。
先方はそれらを見越して大名や幕府重臣を相手に料亭紛いの商売をしているという訳だ。
「ささ、この様な玄関先で長々と立ち話をするのも何です。どうぞ皆様お上がりください」
そう促され俺達は草鞋を脱いだ。
「本日の料理を取り仕切らせて頂きます、清望藩主石井錦ノ介が二子石井銀次郎でございます」
通された部屋でそれぞれが席に着いたのを見計らい、そう挨拶をしたのは二十歳そこそこに見える青年だった。
うちの賭場の様に中間の者達が取り仕切っているのかと思ったのだが、そうではないらしい。
「本日は特に調理の姿も見たいと聞き及んで居りますれば、こちらの部屋を用意させました。この大江戸でも……いえ火元国でも一、二を争う技の冴え、とくとご賞味を」
そう言って襖を開け放つと、廊下を挟んで調理場がはっきりと見えた。
我が家の調理場とは違い、足元は土間では無く砂利が敷き詰められ竈や焼台の数も多い。
そして何よりも目を引くのは厨房の真ん中を占める大きな調理台だろう、光り輝く白銀のそれは前世でよく見たステンレスのそれに瓜二つだった。
その上には甲羅だけでも2メートルを超えるような巨大な蟹や、さらにそれを超える圧巻とも言える様な枝肉等が積み上げられている。
「では、始めさせて頂きます」
ゆっくりと立ち上がり、厨房へと降り立った石井銀次郎、略して石銀さんがそれらの食材をたった一人で調理する様だ。
その動きは早く一挙手一投足の無駄も見受けられない、まるでよく出来た舞踊を見ている様な、武術のそれに通じる物が感じられる。
巨大な肉の塊を斬るのも包丁と言うよりは刀に近い様な大きな物であり、大きな蟹を素手で解体す手際は関節技の類の様だ。
前世では考えられない豪快かつ繊細な技は見ているだけでも飽きる事は無さそうだ。
「先付け、白魚大原木このわた掛けです」
然程待つ事無く最初の皿が運ばれてきた。
何時も食べる様な一汁三菜では無く、一つ一つの料理が順次出されるコース料理の様式らしい。
盛り付け出来上がった品を運ぶ者達は居るが、二十人を超える人数が口にするそれを、一人の助手も付けずたった一人で作り上げるその手際は圧巻と言うしか無い。
まず最初に出てきたのは、白魚を束ねた物にこのわた……海鼠の内臓を掛けた物だ。
それを味わっている内に調理はどんどんと進んでいく。
「八寸盛り、昆布豆煮、蟹坊主のしんじょ、牡蠣の柚子焼、鴨王と貝割れ菜の巻物です」
次に出てきたのが小さな御膳に乗ったいわば前菜の盛り合わせ、あの巨大な蟹は『蟹坊主』と言う妖怪らしい。
合わせて、大人達の膳には徳利が添えられている、酒の肴としては最高だろう。
酒を好んで飲む質では無かったが、そんな俺でも酒が欲しく成るほどだ。
誰一人無駄口を叩く事も無く、ただ目の前に配された物を味わう事に集中している、口を開くのも惜しい程の味である。
「椀物、雷帝魚と蕪の粕煮です」
ふんわりと甘い酒粕の香りの中でも、負ける事のない力強い味わいが口いっぱいに広がる。
そしてそれは濃厚なのにしつこさを感じさせる前に消えていく。
石銀さんは此方を見る素振りは無い、だが料理が出来上がり此方へと運ばれて来るのは、決まって前の料理を食べ終えた直後だ。
無論、皆が皆同じタイミングで食べ終えている訳では無い、だが仕上がりから時間が経った物が運ばれて来る事は無く、必ず出来立てが供されている。
石銀さんの腕が尋常では無い事も有るが、料理を運ぶ仲居さん達もそれぞれの食事の進み具合を確認して、運ぶ順番を調整しているのだろう。
「向付け、赤エイ魚のへぎ造り、蜃、大王海老です」
次に出てきたのは刺し身の盛り合わせ、白身の魚に貝そして海老だが、どれも尋常では無い大きさの物から一人前を切り出している。
おお、貝が甘い、歯応えも良い感じだ、きっとこれ以上厚く切れば噛み切るのも難しく、かと言って薄すぎれば頼りない歯応えに成っていただろう。
確か『蜃』というのは巨大なハマグリの妖怪だったはずだ。
「鉢肴、天鱒の香草焼きです」
そして出て来る焼き魚、と言っても添えられている香草の香りからすると、和食よりは洋食に近い感じでは有る。
天鱒と言う魚自体香りの強い魚なのだろう、噛みしめると香草の香りとは違う爽やかな風味が鼻に抜けた。
「止肴、若布と蓮根の甘酢和えです」
前世でも何度か高級料亭と言われる場所へ足を運んだ事は有る、だがそれらの店でここまで流れる様にスムーズな食事をした覚えは無い。
まぁ大概は食事よりも密談が主であり、料理を味わう余裕なんてものは無かった気はするが。
普段食べる食事も、前世ではかなりの金額を出さねば食べられない物ばかりだが、今この場で口にしている物と同等以上の水準となると、ちょっと記憶に無い。
「食事、塩鰯の混ぜご飯、根菜の御御御付、赤蕪と山牛蒡の醤油漬です」
そろそろ満腹も近いかな、そう思った頃になって一汁一菜の御膳が出てきた。
よくよく見てみれば飯の盛り方が家臣達成人男性と、俺や睦姉上の様な子供では違うらしい。
それに気が付き驚いた、盛り付けているのは石銀さん本人であり、出来上がった順に仲居さん達が運んでいるのだ。
誰がどれ位のペースで食事をして、次に誰へ料理を出すのかすら石銀さんは把握して調理を進めていると言う事ではなかろうか。
「水菓子、苺と蜜柑の凝乳添えです」
切子ガラスの器に盛り付けられた果実に生クリームらしき物が添えられた、ちょっと雰囲気の違うデザートで今夜の料理は〆の様だ。
木匙でそれらを掬い口に運ぶと、ほのかな酸味と口いっぱいに広がる甘さ、それは当に口福と称するに相応しい味わいだった。




