百二十五 志七郎、真相を目の当たりにする事
塀を飛び越え礼子姉上の畑へと着地した。
専用の肥溜めまで用意されたこの畑はかなり広く、その全てを照らすほどの篝火を炊くとなると、その費用はかなりの物となる、流石にそこまではしないだろう、そう考えてこの場所を選択したのだ。
その判断は正しかった様で、畑の方に灯りは無くその深い闇の中では、自らの手を見る事すらままならない。
だがそんな場所だからこそ、建物から漏れる灯りがよく解る。
というか灯りの量がおかしい、さすがに前世の電灯とは比べ物に成らない程暗いのだが、漏れ出て見える光はどれ程のろうそくや行灯を並べたかも解らない程に強いものだった。
電気もガスもまともに運用されていないこの世界では、夜の灯りは富の象徴とすらされる程お金の掛かる物だ、いくら大名の妻とは言えたかだか逢引きにそれほど掛ける物だろうか?
ふとそんな疑問が脳裏をよぎるが、そもそも母上が不貞を働いていると言う事自体が俺の邪推による物だ、それ以外の理由が有るならばそれに越したことはない。
そう思いながらも万が一を考え、見つからない様足音を殺しながら建物へと近づいていく。
どうやら見張りが居るのは塀の外側ばかりで、この辺りを警戒している人員は居ないらしい。
だが建物の中にはかなりの人数が居るのが解かった、気配を読んだ訳ではない、時折漏れ出る興奮を孕んだ声がそれを教えてくれたのだ。
そしてそこから感じ取れる興奮と熱狂は色艶を含んだ物では無い、かと言って暴力的な物とも違う、その質は前世でも何度か目にした事が有る種の物だ。
競馬、競艇、競輪の様な公的ギャンブルとは違う独特の雰囲気……、それはヤクザの取り仕切る鉄火場のそれと同じだ。
という事はこの中ではきっと……。
気配を可能な限り消したまま草鞋を脱ぎ縁側へと静かに上がる、そしてそっと襖の間から中を覗き込んだ。
「かぁ! インケツたぁ付いてねぇなぁ!」
「よっしゃ! シゴロじゃい!」
「さぁ! 張った張った! 丁無いか? 半多いよ? 丁無いか? 丁半駒揃いました!」
「龍! 立直一発平和断ヤオドラ3! 跳満でござる!」
中は襖や障子が取り外され大きな一部屋になっており、そこでは見える範囲全てに様々な賭博がとり行われていた。
おいちょかぶ、チンチロリン、丁半、麻雀……俺が知っているのはソレ位だが、それ以外にも色々と有るようだ。
ともあれ俺の目的は母上を探す事である、ゆっくりと中を眺めその姿を探す。
こうして見ていて気がついたのだが、中に居るのは男ばかりという訳でも無く、少なくない人数の女性が賭けに興じて居るようにみえる。
彼女達は皆、豪華な着物に身を包み派手な簪や櫛、そして化粧で飾り立てられていた。
そんな女性たちに負けず劣らず、男達もまたかなり上等な着物に身を包んでいる者が大半だ。
……どうやら此処は時代劇なんかでよく見る様な、庶民を食い物にする博徒の賭場では無く、上流階級が遊戯に興ずる社交場的な物かも知れない。
そんな事を考えながら、母上を探していくと、
「ちょいとお待ち! 今賽の音が可怪しかったよ、まさかと思うがウチの賭場でサマ打つ馬鹿が居るとは思えないが……、改めさせてもらうよ」
と、チンチロリンをやっている辺りで声が上がった、案の定その声の主は母上だった。
身に纏った猪柄の友禅、金襴緞子の帯、純金の簪、鼈甲の櫛、白粉で真っ白な顔に真紅の口紅。
普段の楚々とした母上とは違う、大名の……というか極道の妻と言う方がしっくりと来る様な姿の母上がそこに居た。
普段とは違う装いの母上が普段と同じ優雅さで茶碗からサイコロを拾い上げ口へと運ぶ、皆が固唾を呑んで見守る中、硬いものを噛み砕く音が部屋の外に居る俺にもはっきりと聞こえた。
プッとそれを吐き出し、
「グラ賽たぁウチも舐められたもんだねぇ……。松吾郎! 幕府の許しを受けて猪山の中間が取り仕切る此処で馬鹿な真似をしたらどうなるか、思い知らせてやんな」
と鋭い視線でイカサマ師を射抜きながら、寒気すら感じるドスの利いた声でそう命じた。
「へい! 姐さん!」
「おら! 立て! コラァ!」
「タマ取ったらぁ!」
物騒な怒声を響かせて中間の面々がイカサマ師に掴みかかる。
そして唐突に俺の前の襖が音を立てて開かれた。
「あら? しーちゃん! なんでこんな所に居るの!?」
夜中に目が覚めたら母上が居なかったので何となく追いかけた、そんなガバガバな理由で俺が此処に居る事はあっさりと容認された……表面上は。
どうやら俺が前世の記憶を明確に持っている事は、我が藩の家臣ならば皆知っている事だが、他家や中間の者達には公開されていない情報らしい。
母上は色々と言いたい事が有ったようだが、眉を軽く上げただけでこの場は流してくれた。
ただ声に出さず口の形だけで『あ・と・で・ね♪』と言っていたので、正直後が怖い。
普段ならば見せしめの意味を込めて皆の前で始末をつけるのだそうだが、今日は俺が居合わせた事から『子供に見せる物じゃねぇ』と、イカサマ師は何処か別の場所へと連れて行かれた。
「此処はご公儀から許可を得た数少ない常設賭場の一つです、客人達は勿論、あっしらもサマはしねぇ。金貸しも無しで現生を持たねぇ奴にゃぁ打たせやせん。猪山藩の名が賭かってやすからこれらを破らせる訳にゃ行きやせん」
そう解説してくれたのは、この場を取り仕切る親分たる松吾郎だ。
「小藩なれども雄藩と名高い我が藩が取り仕切る賭場、という保証が有るから大名や豪商の五八様が多いのよ。そのお客様を狙う馬鹿が湧くこともあるけどね」
五八様と言うのは5×8=40に引っ掛けて始終見世にいる人、つまりはお得意様を指す言葉らしい。
幕府と猪山藩2つの後ろ盾が有り、イカサマの恐れが無い公的な賭博場それがこの場所だと言う。
そしてそのお得意様に間違いなく猪山藩の仕切りだと示す為に、父上も兄上達も居ない今母上がこの場へと定期的に顔を出しているのだそうだ。
「まぁ私にとっては仕事半分趣味半分ですけどね」
と朗らかな笑みでそういう母上、競馬だけで無くこういう賭博も好きなのだそうだ。
話だけを聞けば前世の世界に置ける海外のカジノの様な、大人の社交場と言った扱いの様だが、それにしてはピリピリとした緊張感が漂っている様に思える。
そんな疑問を口にする、
「ああ、そりゃ今夜は特に大口のお客人が多く入ってるからですわ。賭けてる金額がもう冗談見たいな数字に成ってまやすから……おかげさんで大儲けですがね」
と、松吾郎がそう応えてくれた。
ここではまず駒という木札を買いそれから博打を打つ、そして帰るときには手持ちの木札を返して銭を払い戻すシステムで、払い戻しは買った時の九割りなので、賭金が大きくなれば成るほどウチに入る金額も大きくと言う事らしい。
「ワハハハ! ワシの勝ちじゃ! おう酒の追加を頼む!」
不意にそんな声が上がりそちらを見ると、どこかの商人らしき男が駒を中間の若い衆に渡しているのが見えた。
どうやらこの場所では、払い戻しをせずに駒のままで飲食物を購入出来るらしい。
よくよく見れば酒だけで無く色々な料理も用意されているらしく、時折それらを運ぶ若い衆の姿が見受けられた。
ただ博打の寺銭を取るだけでは無い、もっとスマートで効率的な儲けの出し方がこの場所には導入されている様だ。
「さて……私はもう少しここに居なきゃならなけれど、しーちゃんが待ってるなら一緒に帰りましょ。松吾郎、私の駒三分の一位しーちゃんにあげて、それだけ有れば十分に時間が潰せるでしょ」
そんな母上の言葉に短く一言だけ返事をして、松吾郎は俺の前に駒を積み上げた……。
これがどれ程の価値なのかは解らないが、普段よりもずっと高レートだと言う今夜だ、冗談でも溶かしてしまうには大きすぎる金額なのでは無いだろうか?




