百二十三 志七郎、江戸の夜遊びに付いて考える事
暦も進み如月へと入った頃、仁一郎兄上と義二郎兄上が京へと向けて旅立って行った。
二人共近場へ短期間の外出は兎も角、京までの、それも一月以上戻らない長旅は初めてらしく、母上や姉上達は随分と心配していた。
だがそれにしたって、智香子姉上の用意した霊薬や、睦姉上の弁当は良いとしても、礼子姉上の用意した山盛りの大根や、母上の渡そうとした大きな重箱はやり過ぎというか、持っていくだけでも負担が掛かりそうな大荷物だった。
それら無駄な荷物を丁重にお断りし、二人は身軽な装いで
「今生の別れでも無し心配めさるな」
と朗らかな笑みでそう言って出立したのだった。
ちなみに仁一郎兄上はその間固く結んだ唇を開かず、一言も言葉を発する事無かった。
それにしても、たった二人が更に旅立っただけなのに、屋敷の中が急に静けさを増したと言うか、活気を失った様に思える。
いや、実際静かに成ったのだろう、早朝稽古も朝夕の食事の席にも顔を出す家臣の数が明らかに減っていた。
性格的にも言動行動的にも賑やかな義二郎兄上は言わずもがな、物静かな仁一郎兄上もあれで次期当主として、家中を上手くコントロールしていたのだろう、それらの重石が無くなった事で家中の規律が緩んで居るのかも知れない。
「全く、ワシも舐められたものですな。我が藩が『武勇に優れし猪山の』と謳われるのは、日々の鍛錬有っての事だというのに」
兄上から預かった三頭と四煌戌の散歩を終え、稽古場へとやってきた俺に、家老の笹葉がそう零した。
言われて回りを見てみれば、稽古をしているのは俺と笹葉の他には、弓道場に居る信三郎兄上だけだった。
藩主である父上や嫡男である兄上が居ない以上、家臣達の統括管理は笹葉の仕事だ、なのにこの状況ではそうボヤきたくも成るだろう。
一郎翁の功績だけで『武勇に優れし猪山の』と謳われたのでは無いと言う自負が彼には有るらしい。
事実彼は神に認められた者だけしか手にする事の出来ない、猪山藩でもたった二人しか居ない神器の担い手である、流石に老いさらばえ往年の力は無い物の、技術技量だけならばまだまだ若い者に劣る事は無い。
神の加護を受けた訳ではない彼が、神器を授かるには並大抵の努力ではなかった事は想像に難くない、だからこそ主君が居ない今稽古にすら出てこない若手に憤っているのだろう。
「笹葉、素振りばかりで飽きた。一本相手してくれ」
そんな彼に俺はそう言って適度な距離を取って構えた。
打ち合えば多少なりとも気が晴れるのでは無いか、そう考えての事だ。
「これは、志七郎様……みっともない所をお見せしたようで。お気遣い感謝致します」
そんな俺の考えは老臣にはお見通しだった様で、彼はそう礼の言葉を口にして、構えを取った。
その後、一本と言わず朝食が出来たとおタマが呼びに来るまで、只管に打ち合った。
「そうね稽古にも来ない、食事にも来ない……、あの人が居ないからと言って規律を守れないのでは、猪山藩の恥です。存分におやりなさい」
朝食の席、空席が目立つ……と言うか、席に付いている者を数える方が早い様な状況を見て、母上は笹葉にそう言った。
朝食に出てきているのは、皆年配の家臣達であり、彼等は鈍らない程度の稽古しか義務付けられていない、なので毎日早朝稽古へと出て来る事は少ない。
だが問題は若手の家臣達だ。
彼等は武士として未だ発展途上に有ると言う事で、毎日の稽古が義務付けられ、月毎に鬼斬りのノルマすら設けられている。
しかしど田舎中のど田舎である猪山から出てきた若手には、江戸の街は様々な誘惑が多すぎるらしく、鬼切りで得た現金で夜遊びに嵌りこむ者が続出しているのだ。
いまこの場に居ない者の多くは二日酔いで寝込んでいるか、今さっき朝帰りしてきたかの二択らしい。
「自分の小遣いは自分で稼ぐのが猪山の流儀、自分で稼いだ小遣いをどう使うかはそれぞれの自由、ですけれどもそれで規律を乱して良い理屈にはなりませんからね」
食後の茶を啜りながら、母上がそう言うと
「はい、夜遊びや女遊びが必ずしも悪いとは言いませぬ。が、流石に若手全滅と言うのは問題ですからな」
ニヤリと義二郎兄上の様な危険な笑みを浮かべながらそう応えた。
「船饅頭の食べ過ぎで下の病を貰って来るような事が有ればそれはそれで恥です。安い遊びで散財させるのも、かといって身代を崩す程放蕩に耽っても困りますし、程々の遊び方と言うのを教えるのも主家の務めですしね」
船饅頭と言うのは川辺りで小舟を宿代わりにした安い売春婦の事だ、というか子供が居る前で言う話では無いと思うのだが、こういう所はかなり明け透けである。
下の病は要するに性病の類の事だろう、霊薬を使えば大概の病気は治るこの世界では有るが、霊薬はそれなりに値が張り一般庶民にまで手が出る品では無い。
うちの藩士なら智香子姉上が作った霊薬は比較的簡単に手に入るだろうが、仮にも主家の姫に下の薬を作って欲しいなどと言うのは不敬だろう。
「若手とは言え、修練と鬼斬りに励めば吉原へ繰り出す事も出来る程度の銭を得る事は出来ますからな。現金即金で遊んでいる分には良くとも、ツケ払いで遊ぶ様になれば泥沼に沈んだも同然、そうなる前に手を打たねばなりませんな」
こちらの世界にも『吉原』は有るのか……その口ぶりから察するに前世の江戸と同じく超高級遊郭なのだろう、そしてそこに入れ込んで身持ちを崩す男が出るのも同じと言うことか。
「猪山藩士はツケを含めた借財その全てを禁じる、これは曲げられる事の無い藩祖様からの祖法です、飲む打つ買うは男の性とは言えそれに振り回されるでは獣と同じ、理性で己を律してこそ……ですよ」
「心得て居ります、若造どもが馬鹿造どもに成らぬ内に、ぶっとい釘を刺しておく事に致します」
より凶悪さを増した肉食獣の笑みを見せる笹葉に、俺は家臣達の冥福を祈るとこれ以上関わりあいに成らないでおこうと深く決心を固めるのだった。
ソレに気がついたのは、四煌戌達の鳴き声に目を覚ました事だった。
普段の俺は一度寝付くと途中で目を覚ます事も無く、朝までぐっすりと眠るれる質なのだが、その夜はどういう加減か四煌戌達が吠えるのに反応し目が覚めたのだ。
父上が出立して以来、俺は母上と布団を並べて寝ていたのだが、今夜は何故か母上が居なかった。
まさか母上が居ない事が原因で寂しくて目が覚めたとでも言うのだろうか?
とは言え、夜中に用足しに行く事くらいは有るだろう、その日は四煌戌達も静かに成った事も有って、直ぐに寝直した。
だが、それはその日一度の事ではなく、二度、三度と同じような事があれば、ちょいと夜中に用足しに……という訳では無い様に思えてきた。
四煌戌の声で目を覚ましたある日、試しに母上の布団に触れてみると、まだ温もりが残ったままで、母上が居なくなってからそう経っていない事が解る。
その日は直ぐに寝直す事無く母上が戻るのを待って見たが、母上が戻って来る事無く夜が明けた。
母上が夜中に屋敷をぬけ出すのは連日という訳では無く、昼間に影響を残す様な事は殆ど無いように見えるが、どうやらその分時折昼寝をしている様である。
父上が江戸から去り、兄上達が居なくなってから、夜中に出かけていく様になった母上。
正直言って嫌な予感しかしない、既婚女性の不倫――不義密通は、男女共その場で斬り殺されても文句の言えない重罪だ。
もしもそんな事が明るみに出れば嫁も満足に御する事が出来ない程度の男だと、父上は笑いものとされるだろう。
そうなれば、うちと敵対する藩の影響下に有る瓦版屋に面白おかしく書き立てられる事も想像に難く無い。
勘違いならば良し、けれども万が一俺の考えが当たって居た時には……。
覚悟を決め、俺は母上が寝床をぬけ出すのを待つことにした。




