千二百四十 主義主張を考え信仰や宗教に思い馳せる事
英国の軍人で政治家でも有り大英帝国が華やかりし頃に首相を勤めたウィンストン・チャーチルは『民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば』と言う言葉を遺して居る。
コレは民主主義には様々な欠点が有る事を理解し『最悪』と断言した上で、過去に存在した『専制君主制』や『独裁政治』に『社会主義』と言った物よりはマシだと言う諧謔の言葉だ。
いや社会主義や共産主義は一応は民主主義の一形態なのか?
コレ等に対義するのは『資本主義』と言った経済的な国の有り方の方だと思うが……まぁどちらにせよ、民主主義国家を健全に回して行く為には超えねば成らない幾つもの難関が有ると言うのは事実だ。
何せ有権者が正しい知見を持って居ると言う前提で為政者を選ぶのが民主主義だ、教育や報道と言った有権者が知見を得るのに必要と成る情報が歪められてしまえば、国を揺るがすのは簡単な事だろう。
言っちゃ悪いが日本人の大多数は、民主主義国家に成って何十年と経っても『政治はお上のやる事』と言う価値観がどっかに残っていた様に思うのだ。
等と偉そうに語っている俺自身が地元出身の政治家が知り合いに居なければ、投票率を下げるだけの人間だったのも間違い無い事実である。
警察官と言う法の行使者ですら政治にろくすっぽ興味を持たないのだから、極々普通に日々の生活に追われる民間人が実際に生活に影響が出るまで、政治の話なんて床屋談義程度にしか興味が無いのも普通と言えば普通なのではなかろうか?
更に言うならば日本には昔から『政治と宗教と野球の話は揉める』と言う様な言葉があり、此等に関して公の場で大々的に話をするのは憚られる風潮も有った。
今にして思えば『和を以て尊し』と言う日本人の気質が、揉める様な話をするなと言う風潮を生み、野球は半ば冗談だとしても政治や宗教の話を身内以外とすると『面倒な人』と思われると言う感覚が蔓延してしまったのではなかろうか?
俺がガキだった頃にはもう一寸宗教に関しては寛容だった気もするが、某カルト宗教の起こしたテロ事件と前後して、真っ当な宗教だとしても『宗教の人』と言うだけで胡散臭いモノと見做す様に成った様にも思う。
実際、前世の親友の実家である寺も、あの事件の前と後では檀家さんからの御布施が目に見えて減ったし、何なら檀家である事を止める家庭も少なからず有ったと聞いて居る。
倫理や道徳の根っこを特定の宗教に依存しない世界的に見ても極めて稀有な国民性だからこそ、他人の信仰心に関してとやかく言う様な事はしないし、逆に人から宗教の勧誘を受ける事に対して必要以上に嫌悪感を抱くのではなかろうか?
まぁ宗教の専門家で有る僧侶だった友人に言わせると『日本人は自分を無宗教、無信仰だと勘違いしているが、大概は根っこのどっかで八百万の神々や御仏の存在を多少なりとも信じているモノ』らしい。
じゃなけりゃお盆に成ったら墓参りをして、クリスマスにはケーキとチキンを食って、暮れになれば寺で除夜の鐘を突き、新年に成ったら神社で初詣……なんて節操の無い信仰行為を行う筈が無いのだ。
つまり日本人は『有り難いモノなら皆纏めて取り敢えず拝んでおこう』と言う精神性が太古の昔から現代に至るまで延々と引き継がれ続けていると言う事である。
んでもって政治の政の字には『まつりごと』と言う読み方も有る、此れは古代の政治が祭事……つまりは宗教と切っても切れない関係に有り、そしてソレは『教分離の原則』を謳った現代の民主主義とて完全に切り離す事に成功した訳では無い。
解り易いのは俺がくたばった頃に連立与党の一角を担っていた某政党だろう。
詳しく突っ込む事はしないが……宗教が支持母体だったり、特定の宗教が大きな票田だと言う事は現代の民主主義社会の中でも割と有る事なのだ。
日本に限らず欧米諸国でだって保守系の政党が、宗教勢力と強い繋がりを持っていると言う話は割と普通の事である。
良く誤解されているが、政教分離の原則と言うのは宗教が政治に関わるのを禁止しているのではなく、政治が特定の宗教勢力を贔屓したり、便宜を図ったりする事を禁止すると言う事だ。
坊さんだって神主さんだって職業が宗教家と言うだけで、極々普通に選挙権を持つ一般の有権者である。
ソレに対して『政治に関わるな』と言うのであれば、ソレは逆に日本国憲法で保障されている『信教の自由』や『職業選択の自由』を『公民権』の観点から差別する行為に他ならない。
とは言え信仰を盾に取って『〇〇さんに票を投じる事で極楽浄土へ行ける』なんてやり方を是とする様な考え方には賛同する事は出来ないがね。
まぁ……宗教と政治を云々し始めると、そもそも此方の世界は人類の上に世界樹の神々が居て、各地の皇帝や国王といった者達は世界の運営で忙しい神々に代わって下々の者達を統治する様に委託を受けていると言う神権政治其の物な訳だが。
その割には神々からの神託だのなんだのを口にする者は居ないし、人々は何等かの理由で聖歌使いを頼る時以外だと、ソレこそ冠婚葬祭の時位しか神々に縋る様な事は無い。
この辺はやはり神々が物質として実在し、彼等の活動がこの世界の運営を担っていると言う事実が有るからだろう。
恐らくは向こうの世界の一神教系統の者達からすれば、この世界の神々は『神』では無く、良くて『天使』や『聖霊』の類、下手をすれば『悪魔』と言う事に成るのだろうが、有り難いモノは取り敢えず拝んで置こうな日本人的には全く問題無い。
……アレ? そう考えると前世の世界が平和じゃなかったのって、割と一神教系統の宗教の所為?
いやいやんな事ぁ無い一寸神話なんかを紐解けば、一神教系が大宗教と成る以前だって、宗教を巡る対立なんざぁ腐る程有ったし、他所を併呑して相手の神々を悪魔と貶めるなんてのはソレこそ太古の昔から有った行為だ。
日本だって朝廷に服わぬ民を鬼や妖怪として扱い、ソレを討伐した者を英雄として祀り上げるなんて事は散々して来た訳だしな。
更に時代が事実かどうかもあやふやな神話の頃から、明確に記録が残っている時代まで進んでも、元々は同じ仏陀を崇拝し悟りを求めて居た筈の仏教徒同士ですら、宗派の違いから殺し合いに発展した……なんて案件は腐る程ある。
前世の親友の僧侶が信仰する宗派だって戦国時代辺りだと、その時代を描いた電子遊戯では大概寺社勢力が存在すら無視される中では唯一、大名家と同格の扱いでガッツリ戦争とか殺る様に設定されてたりしたもんだ。
結局の所、人類の争いの原因の大半は飢えと貧困にあると言って間違い無いのだろう。
足りないから身内以外の者を襲い奪う、飢饉なんかの際にはソレこそ身内に対してすら口に出すのも悍ましい方法で食料を手に入れる手段とした……なんて話は、世界を見渡せば枚挙に暇がない程だ。
第二次世界大戦の後、日本は直接的な戦争を経験する事無く時代は流れて行った訳だが、世界の何処かで必ずと言って良い程に紛争や戦争は存在し続けて居た。
科学技術の発展で飢えや貧困は確かに減少したかもしれないが、ソレが人類から根絶された訳では無く、争いの火種もまた人類の中から無くなった訳では無い。
俺も小説なんかで読んだだけだが空想科学の系統の中に『行き過ぎた資本主義』の末路を想定して描かれた作品群が有った。
そうした作品に登場する日系企業の多くは、果てなき欲望のままに法を犯してでも富を集め、その金を使って政治を牛耳りさらなる富を集める……と言う『エコノミック・アニマル』の権化として描かれていた覚えが有る。
ただ……世界の富は上位一分の人間が世界全体の三分の一近くを独占していると言う話も有った筈だ。
「お金は寂しがり屋で仲間がいる場所に集まろうとする習性がある……か」
何処で読んだ言葉だったかは忘れたがそんな言葉が不意に口を突いて出る。
此れは確か資本主義経済の歪さを揶揄する文脈で使われた言葉だった様に思うが、だからと言って共産主義が正しいかと言われたら間違い無く『否』と言うだろう。
結局世の中は均衡が大切で右だろうと左だろうと、資本主義や共産主義といった経済だろうと、極端に走ってしまえばその末路は悲惨なモノしか待っていないのだ。
年明けに行われるお祖父様の企てが上手く行けば、俺は藩幕体制の中で為政者の一人と成る訳だから、その辺の事は今からでも少しは考えて置く必要があるんだろうな……と、そんな事を考えながら西海岸流侍道の道場から精霊魔法学会へと歩いて戻るのだった。




