百二十二 父上の出立と、兄達の事
あの決闘から三日が経ち、父上と家臣の半数が国元へと出立する日がやってきた。
前庭に並ぶ家臣達は皆、刀を腰に槍を手に胴丸鎧を纏いと、旅路を行くにしては随分と重武装である。
前世の世界で見た資料なんかだと、大名行列は羽織袴に刀を差しただけの軽装が普通だった様だが、こちらでは白虎の関を越えればその先の道中では街道を進んでいても鬼やら妖怪やらと戦いになる事も少なく無い。
故に行列を成す者達は皆、護衛として戦うに十分な備えをして行くのだそうだ。
そんな中に鈴木清吾改め、鈴木伏虎の姿もあった。
彼は今回の参勤で江戸へと上がって来たばかりで、本来ならば今回は国元へと帰らずもう二年は此方に詰めるはずだった。
だが、礼子姉上との縁談が本決りとなった事で、母親への報告と婚礼儀式の準備等の為に急遽帰還する必要が出てきたのである。
今度は両親と来年の参勤に合わせて共に江戸へと上り、結納やら祝言やらを一年掛けて行うのだそうだ。
「それでは皆、留守を頼むぞ」
三十余名の陣列が整うのを待って、父上はそう居残りの家臣達と家族に向かってそう言うと、駕籠へと乗り込む。
「お前様、こちらの事は万事私にお任せ下さいな。お前様は安心して国元の事に注力なさいませ」
その言葉を受け、母上はそう言いながら手にした小さな石と木の板の様な物を打ち鳴らした。
あれは切り火と言う厄除けの儀式で、母上が持っているのは火打ち石と火打鎌と言う道具である。
火には浄化や厄除けの力があると考えられており、火を起こす日用品であるそれから打ち出される火花にも同様の力が有るとされているらしい。
「仁一郎、お清を助け弟妹の面倒をよく見るのじゃぞ、そして次にワシが江戸へと上がる頃には伏虎と並んで祝言を上げれる様精進せよ」
駕籠から視線だけを兄上に向けそう口にする、対して兄上は一瞬何かを思案する様な表情を見せた後、真剣な目をして一つ頷き肯定の意を示す。
父上はそのまま義二郎兄上に視線を向けると再び口を開こうとしたが、一瞬躊躇する様な顔をした後口を閉ざした。
きっと父上としては兄弟全員に一言ずつ言いたいのだろうが、それをしていては時間がかかり過ぎる、そう判断したのだろう。
後ろ髪を引かれる様な表情のまま駕籠の戸を閉ざした。
「「「立ちませい!」」」」
綺麗に揃った掛け声と共に、皆立ち上がり駕籠が持ち上げられる。
そして門扉が開けられると、ゆっくりとした足取りで先陣を務める者達が歩みだした。
一刻程の時間を掛けて、行列の出発を見送った俺達が屋敷に戻ると丁度昼食の準備が整った頃合いだった。
今日からは何時もの大広間ではなく、台所にほど近い所にある小さな部屋で食事を取る事になる。
大広間は百人が同時に食事をしてもまだ余裕があるような広さであり、そこを適温にするだけの暖房費だけでも結構な金額が掛かる。
まぁ、火鉢に炭が暖房の基本であり、木と紙で作られた屋敷では広い部屋を暖めるのも容易な事では無い事も理解は出来る。
人数が少なく成ったのだからその分小さな部屋へと移るのは、我が藩の財政を考えても当然の事らしい。
「さて父上も出立した事だし、やっとそれがしも鬼斬りへと行ける様になるでござるな」
楊枝で歯をせせりながら義二郎兄上がそう口にした。
鈴木との闘いに負けた事で気落ちしているかと思えば、そんな様子は全く無く、何時もの彼らしい泰然自若とした面持ちのままである。
「……いや義二郎、悪いがお前には俺と一緒に京へと行ってもらう事になる」
今にも飛び出して行きそうな義二郎兄上に待ったを掛けたのは、当然の事ながら我が長兄、仁一郎兄上だ。
「嫡男に次男、揃って江戸から出るのですか?」
その唐突な内容に俺は思わずそう声を上げた。
大名の妻子は基本的に江戸から出る事は許されていない、公的行事や修行などの大義名分と幕府の許可が必要なのだ。
次男である義二郎兄上は兎も角、嫡男である仁一郎兄上は特にその縛りが厳しく、そう簡単に許可は下りないと以前言っていた様に思う。
「うむ春の帝覧馬比べに招待されているのでな、護衛も義二郎が居れば十分だろうし、人数を割けばその分銭も掛かる。賞金や褒章が必ずしも取れるとも限らぬし、最小限で向かいたいのだ」
兄上の話に依ると、京で行われる帝主催の競馬に、兄上とその乗馬であるシチノシチトク号が出走する様に要請されているのだと言う。
この火元国の帝というのは、神々に仕えこの国を任されているされている、いわば人間の長である。
幕府と上様は更に帝から政を委託されている立場の為、建前としては帝の方が格上として扱われる。
故に帝主催の行事に招かたとあれば、それは当然ながら公的な行事と看做されるのだ。
そのレース自体は卯月の下旬とまだ先ではあるが、コースの下見をしたり、京の親戚に挨拶回りをしたり、馬の体調を整えたりと、事前にやらねばならない事は多々有るため、遅くとも一月前、可能ならば二月前には現地入りしたいのだそうだ。
「京へ赴くならば信三郎は連れて行かぬでござるか? 婚家への顔出しもまだでござろう?」
そういえば、信三郎兄上は元服後、京の術者の家に婿養子に入る事が決まっているのだったな。
「それは父上が共に行かねば成らぬ案件だ、流石に初顔合わせで俺が代理では角が立つ。まぁ俺達が京へと行って置きながら挨拶の一つもせず……という訳にも行かぬがな」
「となれば手土産の一つも用意せねば成らんかな?」
「いや現地調達で良かろう。京の者達は未だに江戸を片田舎と見做していると聞く、なれば此方で用意するよりは、京周辺の戦場で狩り取った獲物の方が良かろうて」
うーん世界が違うと言うのにそういう所は、前世の世界と共通しているのか……、てことはやっぱり『ぶぶ漬けでもどうどすか?』とかも有るのだろうか?
「兄上達が京へ行かれるならば、麻呂の文も持って行って貰った方が良さそうでおじゃるな」
「信三郎は先方のお嬢様と文通をして居るのだったな、鳩便とは違い届くまで時間が掛かるが、それでも良ければ持って行こう」
許嫁と文通とはこれまた雅な話ではあるが、考えて見れば前世の世界でも俺が子供の頃にはまだ有った趣味だったはずだ。
むしろ郵便事業が発達していないはずのこの世界で江戸-京間でそれが出来るのは、仁一郎兄上の行っている鳩郵便に依る物であろう。
「鳩便と言えば、兄上が留守の間は動物達の世話はどうするのですか? 鳩便の受付とかも差し止めるのでしょうか?」
屋敷の一角にある長屋の、兄上の部屋は確か足の踏み場も無いほどに犬猫が溢れており、鳩だけで無く鷲や鷹もかなりの数が飼育されていたはずだ。
躾けが行き届いているので、留守の間その面倒を見る事自体は不可能では無いとは思うが。
「鳩便の収入は決して少なくないからな……、斬り捨てるのは中々惜しいが……。そうだな猫達はおタマ達に任せて行くとして、犬達は済まんが四煌戌と一緒に志七郎に世話を頼みたい。鳩達は信三郎に頼む。猛禽は連れて行くので世話は要らん」
兄上自身が飼育している犬は三頭で、それ以外の犬達は皆躾や繁殖の為に預かっているだけなので、出発前には皆それぞれの家へと返せるらしい。
となれば、俺の負担は大した事は無い、だが、
「えーと、兄上の鳩って何羽居るでおじゃる? あの数を麻呂一人で世話するのは流石にしんどいのでおじゃるが……」
信三郎兄上は顔を引きつらせながらそう問い返した。
「他所は兎も角、家の鳩は小屋の掃除と一日二回の餌やりだけで良い。掃除をする時には外に放してやれば、勝手に戻ってくるからな。然程の手間はかからんよ」
数に対する解答は意図的に避けられた様だ。
此方に飛び火しても困るので、俺はあえてそれを口にする事は無かった。




