百二十一 『無題』
「さぁ、まずは一献」
そう言いながら手にした徳利を差し向ける、すると彼は片手にぐい呑みを持ちもう片方で並んだ徳利の一つへと手を伸ばす。
「母上には俺が注ぎましょう」
そう言って彼は片手で酌を受けながら、器用に他方へと酌の手を伸ばした。
「それじゃぁ、お殿様には私がお酌をしましょうか、こんなお婆ちゃんでごめんなさいね」
ワシ等の持つ物よりも一回り小さなお猪口に酒が満たされると、それを膳に置き彼女が此方へと徳利を差し向ける。
お婆ちゃん等と笑いながら口にしているが、その見目はせいぜい十二、三歳にしか見えない、そろって歳を取る事を何処かに忘れてきた様な母子である。
「此度は清吾……伏虎と我が長女礼子の縁談受け入れて頂き、誠にかたじけなく思う。お二方の力添えが無ければ、万事滞り無くとは行かなかったであろう」
そう、いまワシと膳を並べて酒を酌み交わしているのは、鈴木清吾改め鈴木伏虎の父と祖母、一郎とお花殿の二人であった。
「特にお花殿のお力が無ければ、こうして呑気に酒を呑む事など出来ず、今頃葬儀の準備でてんやわんやじゃったろうな」
真剣勝負である以上、どちらかが命を落とす可能性がある事など、端から解っていた事だ。
用意した霊薬は、即死でさえ無ければどんな傷でも回復出来る、と言われる最高峰の物ではあったが、それは誇張も良い所で義二郎の負った様な急速な失血を救う程の効能は無い。
細かい傷を無数に負った結果の失血であれば、危険な状態に成る前に薬を使う事でなんとか成るにせよ、あのように噴出する様な怪我では薬を飲み込む事も出来ず命を落とすだけだっただろう。
「結構ぎりぎりだったわ。あの子私が思っていたよりも随分と重かったんですもの、焔烙の力でもあと五つ数える位しか戻せなかったわ」
術者に打ち止めは無いと常識の様に言われてはいるが、実際には短い間に強大な術を連続して使用する事は出来ない、強力であれば強力な程、間を開けなければ再度その術を使う事は出来ないのだ。
これは精霊魔法だけで無く信三郎の用いる陰陽術でも同じ事、忍術や鬼術ですらその理からは逃れられないと言うのだから、それは覆しようの無い事である。
例外が有るとしたら神々や仙人たちの使う神仙術位だろう。
「しかしまぁ、双方あれほどの技量を見せたと言うのに、随分と呆気ない幕切れだったな」
一口だけ酒を口に含みそれから一郎は溜息混じりの声でそう言った。
「残心の大切さなど今更取り沙汰せずとも、常日頃の稽古でよう解っておる筈の事じゃからのぅ」
対してワシがそう相槌を打つ、
「義二郎君は同格以上の相手と命懸けで戦った経験が無いんじゃないかしらね? 魔物の討伐と対人戦じゃぁ色々と違う部分も有るでしょうしね」
すると今度はお花殿がそう口にした。
お花殿はこんな見た目ではあるが、その人生の大半を戦いの中で過ごしてきたお方で、お互いに本気でやりあうのであれば、一郎ですらも彼女には敵わぬと称する強者である。
模擬戦とはいえ義二郎を手玉に取ったセバスさんですらも、彼女の弟子の一人に過ぎないと言うのだから、その力の程は計り知れない。
そんな彼女の目から見れば、義二郎は才能があり過ぎたが故に、命の危険に晒された経験が足りないのだそうだ。
言われてみれば江戸州に出没する鬼や妖怪は義二郎にとって物の数ではなく、最上級と呼べる熊鬼ですら今の義二郎に取っては雑魚の範疇だろう。
練武場で自分と渡り合える相手と出会った時、それをたいそう喜んでいた事も有った、だがその彼とも互いに命の取り合いと呼べる様な闘いをした事は無いはずだ。
ぎりぎりの戦いをした事が無い義二郎と、限界を超えた戦いを経験してきた伏虎、勝負を別けたのは当にその経験その物だった。
「アヤツにはこの江戸は狭すぎる……と言う事かのぅ」
アレが平穏を好み安穏な生活が出来る質の人間ならば思い悩む必要など無い、だがそうではない武神の加護を受け、戦いに生きる事を宿命付けられた様な子だ。
良くも悪くも平和と言って良いこの江戸にいつまでも縛り付けて置く事は出来はすまい。
「仁の奴が嫁取りを済ませれば義二郎も自由に旅立てる様になる、それまでの辛抱だ。アレには江戸どころか火元国すらも狭すぎる」
そう言い切って一郎は杯に残った酒をぐいっと飲み干した。
「仁一郎には許嫁が居るし、まぁ然程遠い先ではない……と良いのぅ」
仁一郎は嫁を取るのはワシと同じく優駿を制覇してからだと言っているが、場合によってはそれよりも先にワシが引退を表明し強引に代替わりと嫁取りをさせるのも手かも知れない。
「で、だ。何時に成るかは兎も角、仁には相手が居り、礼子もウチのバカ息子が相手とは言え片がついた。確か信坊も京に相手が居るんだったな。半分近くは行き先が決まってんだ、あとすこしでお前さんの親としての責任も終わるわな」
一郎の言葉通り、残りは義二郎、智香子、睦、そして志七郎の四人、彼等を一人前にすればワシも親として及第点と言えるかも知れない。
「智香子と睦は良い、あれらは器量も悪く無いし手に職もある、嫁入り先に困る事は無かろう。義二郎はああいう男じゃ、無理に家庭を持たせるよりも自由に生きさせるべきじゃろ。問題は……」
志七郎だ。
この正月に神々との宴席、その場には我が子達に加護を与えてくれている神々が列席した、だがその中に志七郎の加護神は居なかった。
この一年で成し得た功績という点では、志七郎は間違いなく我が家でも随一だっただろう、なのに居なかった、それだけでも様々な憶測は立つ。
志七郎に与えられた使命が理由に有ろう事は想像に難く無い。
だが、いくら三十路を回った前世を持っていようと、今生ではまだ幼い子供だ、少なくともアレが元服する頃合いまではワシの庇護下で養育したい。
先に待つ困難がどれ程で有ろうとも乗り越えられる子に育てたいのだ。
しかし志七郎が元服するまでワシが現役で居ると言う事は、仁一郎に代替わりするがそれだけ遅れると言う事でも有る、色々と悩ましい限りだ。
「例えどんな苦行だろうと、決して折れず曲がらず己を貫き通すのが猪山の男子であろう。なればその先を考えてやるのが親の努めという物だ」
そんなワシの心情を慮る事も無く一郎がそう嘯く。
少なくともこの男にだけは親が云々とは言われたくは無い、伏虎が曲がりなりにも真っ直ぐな男に育ったのは彼の妻の手柄が大半であり、彼自身の手柄とは全く思えない、百歩譲っても反面教師と言った所だろう。
ワシがソレを口にするよりも先に、お花殿が口を開いた。
「んー、仁一郎君に代替わりする時、私が義二郎君と志七郎君を外の世界に連れ出しましょうか。志七郎君はより深く魔法を学ぶ為にも魔法学会への留学は良い経験に成るでしょう。義二郎君は北の未開拓地域辺りで冒険者になるのも良いんじゃないかしら?」
仁一郎の許嫁が行き遅れなどと揶揄される前には結婚と代替わりを済ませるならば長くともあと五年、その頃には志七郎も十を越えている、義二郎はまぁ何時何処に行ってもあいつらしく生きる事は出来るだろう。
魔法学会とやらには幕府からも一定数留学者を出すと言う計画も出ているし、恐らくは他藩からもそれに追従する動きもその頃には出ているはずだ。
そう考えればお花殿の提案は十分に一考に値する。
「ついでに志七郎にも許嫁を決めておくのも良い手ではないか? 骨川の娘など年回りも丁度良いと思うが」
手酌で杯を満たしながらそう言う一郎の表情は、決して冗談を口にしている物ではなかった。
……今年は国元でも色々と考える事が多そうじゃの。




