千二百二十六 志七郎、死を覚悟し戦争の予感を感じる事
久し振りの江戸の街は一年以上が経ったにも拘らず、何処も変わっていない様に見えた。
とは言え流行り物が大好きで次の流行りが来れば前の流行が廃るのも早い此の街だ、何処かかしらでは見世が入れ替わったりして居る筈で有る。
パッと道を歩いていて変化が見られないのは、殆どの場合に前の見世をそのままの造りで使う居抜きでの営業が大半だからと言う点が一つと、もう一つ可能性を上げるならば火事やらなんやらで建物が無くなっても直ぐに建て直せる簡単な造りの建物が多い事だろう。
無論、表通りに見世を構える大店なんかは見た目にも拘った造りをして居るが、そうした見世は長く繁盛を続けるからこそそう簡単に変わる事は無い。
前世の世界の様に数年見ないだけで全然別の街に……と言う程に江戸の街は新陳代謝が激しく無いのだ。
特に江戸城から四方に伸びる目抜き通りは、軒並みが江戸でも名だたる豪商の本拠地と言える店ばかりで、其処が入れ替わる様な事が有れば間違い無く瓦版は大々的にその背景を書き立てるだろう。
四煌戌の背に乗せた鞍の上で、周囲を見回しながらそんな事を考えている内に周囲の景色は商業地から大名屋敷が軒を連ねる区画へと変わっていた。
江戸の街は一区画毎に町木戸と呼ばれる簡易的な関所の様な物で区切られて居り、其処から明確に別の風景へと変わる事が多いのだが、江戸の東から北に広がる大名屋敷街と中心部は太めの川で隔てられている為、木戸だけで無く橋を越えて入る事になる。
まぁ此処の川は自然の川では無く、江戸市中を網目の様に走っているお堀の一部で、其れ等を川船で移動するのが此処の一般的な交通手段なのだがね。
一年と少々離れていただけだと言うのに色々と懐かしい物を感じながら、俺は大名屋敷街を進み猪山藩江戸屋敷の門を潜った次の瞬間である、
「志ーちゃ~ん!」
天にも届けと言わんばかりの絶叫と共に、母上のぶちかましからの鯖折りへの連携技が見事に炸裂した!
四煌戌の背に乗っているからと油断したか!?
彼女が一体どんな動きをして其れを為したのか理解も出来ぬままに、俺は四煌戌の鞍の上から剥ぎ取られ、口と尻から内臓が絞り出される様な苦しみに呼吸する事すら出来ず死を覚悟した。
「お清、末の息子が帰って来て興奮するのは解るが、もう少し力を緩めてやれ。流石に顔色が酷い事に成っておる」
走馬灯の向こうで前世の曾祖父さんが冥土長と一緒に手招きして居る姿を幻視した辺りで、父上の声が聞こえて俺を締め上げる力が一気に抜けていく。
「あ……あら? 御免なさいね志ちゃん! つい此の間会ったとは思ったけれども、やっぱり此処で会うのとは別だと思うと嬉しくなっちゃって……ね?」
そう言いながらも俺を下ろす事は無く、抱き上げたままの母上。
「それにしても少し見ない内の随分と重く成ったわねぇ。氣無しじゃぁもう抱っこも厳しいかしら? 子供の成長って本当に早いわねぇ」
息子さんが元気に成った影響か、俺の身体は火元国を旅立つ前から見たら一回り以上大きくなっている筈で有る。
逆に言えば先日ニューマカロニア公国で会った時には、母上から見て俺は然程成長していなかったと捉える事も出来るのでは無かろうか?
実際、俺を診察したワン大人の言に拠れば、俺の睾丸は年相応の成長すらしておらず幼児の其れと然程変わらない状態だったと言う話だ。
俺の記憶が確かならば精巣や卵巣で作られた化学物質が身体に作用する事で、男は男らしい身体に女は女らしい身体へと成長すると言う事だった筈で有る。
そして男女何方も逆の性別の其れが全く分泌され無いと言う訳では無く、肉体の成長には何方の化学物質も必要な筈だ。
つまり睾丸が正常に機能していなかった俺は、何処かで肉体の成長が止まるか、場合によっては歪んだ物に成っていた可能性は十分に有る。
其の辺の事を考えると今の段階で治療に成功したのは割と運が良かったと言えるのではなかろうか?
恐らくは二次成長期に入る前に息子さんが元気を取り戻して居なかった場合と、今の状態では身体の成長度合に大きな差が出ていた事だろう。
前世の俺は義二郎兄上程の頭抜けた巨漢と言う訳では無かったが、其れでも此方の世界では六尺男と呼ばれる程度には身長が有った。
身体付きもガチムチ系の筋肉質でこそ無かったが、無駄な肉は付いて居らず引き締まった武闘派体型を維持出来ていた自身が有る。
同じ血筋でも仁一郎兄上の様に小柄な体格に育つ事も有り得るが、信三郎兄上を見る限り長兄が例外で何方かと言えば体格は良くなる家系なのでは無かろうか?
とは言え血のびっくり箱とすら言われる猪山藩の血筋だし、今の所顕在化して居ないだけで、俺にも人外の相が此れから生えて来ると言う可能性だって零では無い。
実際、鬼の血が濃く出たと言われる義二郎兄上の子供は六つ子で、しかも全員が違う種族の物としか思えない異貌を持って産まれて来た訳だしな。
問題が有るとしたら逆に成長し過ぎる可能性か? 只でさえ前世の同じ年頃だった時と比べても明らかに燃費が悪いとしか言い様の無い量の食事が必要な身体なのだ、此れから食べ盛りの育ち盛りに突入したらどれ程食う事になるのか、我が身ながら一寸怖いのだ。
「母上、俺もそろそろ元服を考える年頃なんですから、幼い子供の様に抱き上げるのは止めて下さい」
末っ子は幾つに成っても可愛いのか、猫の子でもあやす彼の様に抱き上げた儘で頬ずりまでしようとするのを押し留め、俺はそう言って彼女の腕の中から逃れる。
「……そう、そうよね。志ちゃんも何時までも子供じゃぁ無いのよねぇ。うん、大丈夫、ちゃんと子離れしないと駄目よね」
深い深い溜息を吐きながらそんな事を言う母上の表情は余りにも暗い、
「母上、子供は親が正しく躾ける責任がありますが、孫は甘やかす物だと前世に聞いた事が有りますよ。実際、前世の甥っ子は前世の祖父に大分甘やかされていた覚えが有りますしね」
それ故に俺は余計な事と思いつつ嘘を吐く、前世の俺は任官後は実家に寄り付く事等冠婚葬祭の類でも無ければ基本的に無く、甥っ子がどんな風に育ったかすら殆ど知らない。
ただ兄貴も家庭を顧みる性質じゃぁ無かったのは想像に難く無いので、親父……は甘やかすと際限の無い人だったらしいから、多分曾祖父さんや爺さんが厳しく、御袋と義姉さんが優しく……と家族総掛かりで躾をしたんじゃなかろうか?
向こうの世界へと行った時に見た甥っ子は、爺さん……彼から見れば曽祖父に剣を習って居た様だし、剣道を通じて人の道も教え込まれている筈だし、俺の遺産程度で身持ちを崩す様な事は無いと信じたい。
でもまぁ……今の段階で居るのは他所の家へと婿に出た義二郎兄上の所の子達で、母上が彼等に会いに行くと言うのは、武家社会の仕来り的に余り褒められた事では無いので難しいだろう。
と成ると、此れから祝言を上げて其の後に産まれて来るであろう仁一郎兄上と千代女義姉上の子供が甘やかしの対象と言う事になるだろうが、千代女義姉上は川中嶋藩の出身者らしく強かな部分が有る人柄なので上手くやる……筈だ。
前世の世界だと、晩婚化と経済的事情から一人っ子世帯が増えた結果、息子を第二の恋人と認識する様なヤバい母親が増えた事で、嫁姑戦争が激化したと言う様な話も何処かで聞いた覚えが有る。
けれども母上は男児四人に女児三人を産んだ女傑だし、子育てに一家言有る人物なのは間違いない筈で、其処まで駄々甘にすると言う事は無い……と信じたい。
俺は自分の不用意な発言が、将来の嫁姑戦争の激化を招いた可能性から全力で目を反らしつつ屋敷の玄関へと足を向けるのだった。
26日は外出の予定が有り執筆時間が取る事が難しい為、次回更新は27日深夜以降となる予定です
予めご理解とご容赦の程宜しくお願いいたします。




