千二百二十五 志七郎、健康を気遣い設立を目にする事
「上様の……おな~り~」
無事火元国へと転移した俺達は師範代殿の接待を幕府の役人に任せると、即座に上様の前へと召される事に成った。
事前に今日帰ると言う様な連絡も入れて居なかったと言うのに、直ぐに上様や幕府重鎮達が謁見の間へと集まって来た所から察するに、術者育成令は幕府に取って余程大きな計画と成っているのだろう。
俺が連れ帰った留学第一陣の四人が前へと座り、俺は一人で彼等の後ろに座る。
この配置は俺が火元国を出るよりも以前から、猪山藩独自の伝手でお花さんを招聘し精霊魔法を学んで居たのに対して、西方大陸へと渡って一から学んだと言う点で、今回の主役は彼等であると言う事だ。
上様が一段高く作られた場所へと座るまでの間、極々一部の者を除き幕府の御歴々も含めて全ての者が畳に額付き平伏してお言葉を待つ。
「苦しゅう無い、面をあげよ」
……前に会った時の上様は確かに老齢では有ったが矍鑠とした声に張りを感じたが、今日の其れは火元国全土の陪臣達を含めれば三百万に届くであろう武士達を統べる統領としての威厳は感じさせる物の以前の様な力強さが無い様に思えた。
前に座る四人は直参旗本家の子とは言え、次男や三男か其れ以降の部屋住みの立場で有り、上様と直接話しをする機会なんぞ無いだろう事から、その変化に気が付かなくても不思議は無い。
けれども居並ぶ幕府御歴々がその声の様子に驚いた様な素振りを見せない辺り、此処最近に成って寄る年波に衰えを隠せなく成ってきたのを、誰しもが受け入れている……と言った所だろう。
……誰も口にする事は無いが上様の寿命の灯火が尽きるのは時間の問題だと言う事だ。
とは言え前世に多くの御老人と顔を合わせ話をする機会の有った俺の目から見るに、未だ死神の鎌は振り上げられては居らず年相応に衰えたと言うだけの事で、近い内に老衰でポックリ逝く……と言う程酷い状態では有るまい。
向こうの世界と比べたら医療技術の発達して居ない此方の世界では有るが、霊薬だの御神酒だの命を永らえる超常の物質は数えれば切りが無い程に有る。
幕府の頭と言う立場で有り、火元国の大半の統治を帝から委任されて居る征異大将軍である彼ならば、銭を積めば手に入るであろうそうした物は幾らでも使う事が出来る筈だ。
と為れば、本当に同仕様も無いのは寿命を使い果たした事に拠る自然死……即ち老衰位な物である。
そう言う点から見れば少なくとも十年以内に上様がコロッと逝く可能性は限りなく低い……医学に通じていると言う程では無い俺の目には、以前より痩せた風に見える上様がそんな状態に見えた。
「良くぞ無事に帰って来た。海の旅は万全を期しても苦難が多く、無事に帰り着くだけでも武功ぞ。ましてや其方等は火元国では学ぶ事の難しき術を身に付けて帰って来たのだ。先ずは其れを余は誇らしく思うぞ」
以前に比べたら元気は確かに失われた様にも思えるが、其れでも組織の長としての威厳が失われた訳では無く、その言葉には尊敬すべき年長者が若人に向ける自愛の様な物が間違い無く秘められて居る。
この分だと上様が衰えたから……と、次期将軍の座を狙う者に依る暗躍なんて事は未だ心配する必要は無さそうだ。
まぁそんな動きが有れば御祖父様が一朗翁を打つけるとかして、力尽くで鎮圧してそうだし、上様を直接どうこうする様な陰謀は恐らく今の所は無いだろう。
「其方等はより深く精霊魔法を学ぶよりも、兎角使える術者を幕府にと判断したと聞き及んで居る。されど幕府に術者を運用する事の出来る様な人材は未だ居らぬ……故に京の都の帝を通じて陰陽寮より其方等の上役と成る者を招聘した」
言いながら上様が目線で左右に座る重鎮達の一人に指示を出す。
すると見た事の無い一人の老境に差し掛かった表現するのが相応しいだろう男性が前に座る四人の前へと躙り出た。
「異国より戻られし若人達とはお初にお目に掛かる、儂は陰陽寮にて博士の官位を頂いて居た嵶野 岩陸と申す老骨よ。専門は無論陰陽術では有るが、陰陽寮は火元国の術者の統括も行っていたが故に精霊魔法にも多少は知識が有るよしなに頼む」
陰陽寮で博士の職に着いていた……と言ったが陰陽博士と言う職位は、その名の通り陰陽寮に所属する陰陽術師を育てる教官の役目を担う者だ。
陰陽寮の長である陰陽頭が家職で有り、基本的に安倍家の家長がその役職を継いでいくのに対して、陰陽博士の官位は純粋に陰陽術師としての技量と知識量、そして人を導き育てるに相応しい人格を持つ者に与えられる職位である。
武家も公家も基本的には役職と言う物は個人では無く家に与えられる物で、優れた個人が取り立てられると言う事は基本的に無い。
一応建前としては全ての職位は能力に応じて奪い合う事が出来ると言う事には成って居るが、産まれて間もない頃からその職位を継ぐ為に教育を受けて来た者と、そうで無い者で能力を比べた所で勝負になろう筈も無く、結果家職と言う形で代々受け継がれるのだ。
とは言え、時には跡継ぎが凡蔵だったり、未だ幼く職位を継ぐ能力を得ていないのに家長に不幸が有ったり……と、絶対に入れ替わりが無いと言う訳でも無いが、そう言う場合でも大概は周りの者が支えて何とかする物である。
しかし中には純粋に能力だけを評価し個人に対して与えられる職位と言う物も有るのだ。
幕府ならば火付盗賊改方の者達が其れに該当し、公家の社会では検非違使と呼ばれる武官の一部と陰陽寮の頭以外の者達がそうだと言う。
「とは言え、陰陽寮に居た精霊魔法使いは加護持ち故に産まれながらに一種の属性を扱う事が出来るが其処までが精々で、其方等の様に専門的な教育を受けた者は居らん。複数の属性を重ねると言う概念自体は陰陽術にも有るので解るがの」
基本的に火元国ではワイズマンシティの精霊魔法学会の様に、術の類を誰しもが学べる様な門戸は開いて居らず、家職としてその手の術を扱う家に生まれるか、京の都の公家に伝手が無ければ学ぶ事すら難しい。
陰陽寮に縛られない術者の代表格と言えるのが『聖歌使い』の神職では有るが、彼等は当然実家である神社や大社に祀られた神々の下僕としての生活を余儀なくされる。
対して突発的に神の加護として産まれながらに術の類を習得して居る者が出たとしても、其の者がある程度以上裕福な武家の子ならば俺達兄弟の様に実家で養育され、実家の戦力として教育されるのが普通だ。
だが産まれた家が町人階級だったり武家でも小普請組の様な比較的貧しい家庭の場合には、術者であると言う事が必ずしも有利では無く、家督争いの火種と成る……と判断される事も有ると言う。
その為、そうした突発的に産まれた『野良』の術者は、基本的に陰陽寮へと届け出がされ、其処で朝廷からの禄を食む生活をする事に成るのだそうだ。
今回『術奉行』と言う新たに設けられた職責に就いた嵶野様も、元々は小普請組の嵶野と言う家の三男坊で、賢神の加護を持って産まれた野良術者だったと言う。
武家出身と言う事で公家社会では東夷と蔑まれながらも、腐らずに努力を積み重ねた結果、陰陽博士の職位を得て公家衆から嫁を貰い、京の都に骨を埋める筈だったらしい。
けれども幕府が術者を育成し江戸に常駐させると言う事で、上様と安倍陰陽頭様が協議した結果、既に孫も居て隠居の身だった彼にもう一働きして貰おう……と言う所に落ち着いたのだそうだ。
「御主等は火元国出身の精霊魔法使いとしては、太祖家安公の時代から数えて久方振りの多属性使いの幕臣と言う事に成る。まぁ陪臣の中には既に何人か居るとは聞いて居るが、其奴等は幕府の都合では動かぬからな」
割と誤解し易いが陪臣よりも直臣の方が立場が上なのは間違いない、が……陪臣は自分の主君から命じられない限り、他所の直臣や幕府からの頭越しの命令に従う謂れは無い。
勿論、自分が逆らう事で主君に迷惑が掛かる可能性が有る事を考えれば、そうした原則論が通用しないのが当然の事では有るが、主君と幕府両方から相反する命令が出たならば、当然主君に付くのが家臣の役目だ。
それ故、幾ら優れた術者だとしても陪臣では幕府の都合通りに動かせるとは限らないのである。
そう言う意味では俺も猪山藩の者で、直接幕府に仕えていると言う訳では無い以上、彼等四人が術奉行所に配属される最初の人員と言う事に成る訳だ。
「「「「御指導御鞭撻の程、宜しくお願いいたします」」」」
その事に思い至ったのだろう、四人は皆改めて背筋を伸ばし姿勢を整えると、再び畳に額付き、今度は嵶野様に対して礼を尽くすのだった。




