千二百二十 志七郎、次の段階へと入り教育を考える事
転移魔法の訓練を始めてから凡そ二週間程の時が経ち、俺は西方大陸内の一度登録した遠駆要石ならば、戦場側でも冒険者組合側でも安定して移動する事が出来る様に成っていた。
先日の果物の一件でお花さんには少々呆れられた物の、過積載ギリギリの状態での転移を成功させた事自体にはお褒めの言葉も貰えていたりもする。
そして今日はとうとう他人を連れての転移を試す事と相成ったのだ。
「本当なら間違って変な所に飛んだとしても確実に連れて帰って来れる私が一緒に行くのが良いんだけれども……今日は外せない会議の予定が入っちゃったのよね。だから代わりに頼むわね師範代」
当初の予定では彼女の言葉通りお花さんが一緒に転移してくれる筈だったのだが、緊急で学閥の長達が直接会って話し合わなければ成らない重要案件が発生した為に、稽古で相手をしてくれる事の多い師範代と呼ばれる人物が代役を務めてくれる事になったのだ。
精霊魔法学会にもお花さんの学閥にも正式に『師範代』と言う肩書は無いのだが、武に置いても精霊魔法に置いても、お花さんに万が一の事が有った時に彼女の研究成果等などを引き継ぐ事が出来る人材として一目を置かれているが故に呼ばれている二つ名である。
パッと見る限り森人や山人に草人達、妖精族に共通する身体的特徴である尖った耳では無く、獣人族の様な獣貌でも無ければ獣耳族の様な半獣的な特徴も無い事から、恐らく種族は人間だと思われる。
が、厳密に言うならば『魔眼』と呼ばれる異能を持つ千代女姉上が外つ国の基準で言うならば魔族に分類される様に、外見では判断が付かない種族も居る為に、彼が本当に只人なのかどうかは解らない……が手合わせした感じ恐らくは人間だと思う。
種族としての魔族と言うのは人間でも妖精族でも獣人の系譜でも無い、様々な異能を持つ者達の総称で代表的なのが千代女義姉上同様に魔眼を持つ『邪眼族』や前世の世界でも有名だった『吸血鬼』等が居る。
更に厳密に言うと俺達火元国の武士が持つ『氣』も、後天的に身に付ける事が出来る故に魔族に区分されないと言うだけで、産まれながらに其れを持つ者ならば魔族に分類されていた時代も有るらしい。
其の辺の色々と面倒な話は其れを纏めるだけでも、単行本どころか一連の連載作品が一本書けてしまう程に紆余曲折が有る話なので端折るが、手合わせの最中に精霊魔法以外に異能と呼べる物を使う様子が無かった事から俺は彼が人間なのだと判断して居る。
まぁ単純に俺に対しては奥の手を切るまでも無いと隠して居るだけ……とか、此方も氣を使わない様にお花さんに釘を刺されているので其れに合わせているだけ……なんて可能性は零では無いけどな。
本名はエディ・J・ボーグマン……いやエドワード・ジャスティン・ボーグマンと言う名前なのだが、愛称である筈のエディとすら呼ぶ者は殆ど居らず、学会内では同門派の者達以外からも『赤の師範代』等と呼ばれているらしい。
「はい我が師匠! 私とて後進に対して同様の事は何度かしています、御安心してお任せ下さい!」
鍛え上げられた胸筋に己の拳を打ち付ける其の姿は、ワイズマンシティの軍隊で用いられる敬礼と同様で有り、彼が軍隊経験者であると言う事の証明でも有る。
とは言え彼は別に前科者と言う訳では無い。
懲罰として強制的に軍に放り込まれた訳では無く、金銭的に恵まれているとは言い難い家庭に産まれた彼は、精霊魔法学会で学ぶのに必要となる学費を貯める為に一旦軍隊へと志願し、貯金を作ってから退役して学会へと進学したのだ。
前世の世界でも海外では。大学へ進学したくても其処に掛かる学費が用意出来ない若者が、一旦軍に入隊して貯蓄を作りそれから改めて大学へ進学する……と言うのは割と良くある話だと聞いた覚えが有る。
実際、俺がロサンゼルス市警に捜査研修で行った際に有った一人の警官は、大学に行く為に軍に志願し費用を貯めてから退役して大学を受験したが、見事に受験に失敗し生活を立て直す為に警察に再就職した……と言う経歴の持ち主だった。
軍隊と言う組織は基本的に所属している間は、自分から贅沢をしようと思わない限りは、金銭を殆ど使う事無く生活出来るそうで、富裕層とは言い難い家庭の子が大学進学を目指す為に一番確実と言える方法の一つなのだそうだ。
精霊魔法学会の御膝元であるワイズマンシティは、大きな産業が有る訳では無い比較的貧困寄りの都市国家である。
そもそもとして此処は本来ならば万単位の人類が生活出来る様な環境では無く、精霊魔法使いが社会基盤の多くを担う事で、無理矢理都市として成り立たせて居る場所なのだ。
故に此の街に産まれた子供の多くは一度は精霊魔法学会への進学を夢見るのだが、決して安くは無い学費に絶望を突き付けられるまでが一組の現実である。
其処で冒険者として一旗上げて……と考える者も居れば、彼の様に軍で数年奉公して……と考える者も居る訳だ。
中にはそうした現実の前にへし折れて、簡単な道……つまりは犯罪組織に身を落とす者も決して少なく無いからこそ、此の街の裏通りが犯罪組織のさばる街に成っているとも言えるだろう。
其れでも先日まで一緒に旅をしたテツ氏辺りに言わせれば、ワイズマンシティで生まれ育った者は、教育と言う物の存在を知っているだけ産まれながらに恵まれている……らしい。
西方大陸に都市国家は無数と言える程に乱立して居るが、其の多くに生きる者達は毎日の生活に精一杯で、明日を夢見る事すら出来ない様な暮らしをして居る者が大半だと言う。
しかしワイズマンシティに産まれた子供は、精霊魔法と言う技術を学ぶ事さえ出来れば、世界中の大体何処へ行っても食いっぱぐれる事無く暮らせると言う事を知る事が出来る。
そうした物が『有る』と知る事が出来るか否か、将来への希望が零なのと一割《10%》にも満たないとしても可能性が有るのでは天と地ほどの差が有るのだ。
此の辺の感覚は前世でも今生でも、教育を普通に受ける事が出来る環境に産まれて来た俺には今一つ理解出来ない事では有るが、先進諸国は兎も角として途上国と言われる様な国では新聞すら読めない様な大人が沢山居ると言う話は聞いた覚えが有る。
教育を受ける機会が無ければ、目の前に有る親と同じ仕事をただ只管に繰り返し続ける未来しか無い。
職業選択の自由と言うのは、広く教育が行き届いているからこそ成り立つ物で、教育を受ける機会すら無い子供達は永遠に貧困から抜け出す事は出来やしないのだ。
其れでも此方の世界では冒険者や鬼切り者の様に、世界中何処でも共通する『成り上がり』の手段が一般化して居るだけ、向こうの世界の貧困地域と比べたらマシなのかも知れない。
そんな中でワイズマンシティは更に上を目指す事が出来る『可能性』が目の前にぶら下がって居る上に、折れる事さえ無ければ彼の様に軍隊に志願し学費を稼いでから学会へと進学すると言う選択肢すら有るのだ。
そうした『道』が有るにも拘らず、安易な儲け話や楽な方法で稼ごうとした者達が堕ちていくのが犯罪組織と言う事なのだろう。
此の街の現役市長も裕福とは言い難い家庭の出身ながら、軍に志願し其処から立身出世を果たした人物な訳で、目の前に彼等の様な好例が有るにも拘らず堕ちた者達は、言っちゃ悪いが『どうしても出る一定数の落ち零れ』として割り切りしか無いのだ。
識字率十割を誇り義務教育が万人に与えられる日本でだって、そうした普通の道から零れ落ちる者は居るし、実際堕ちた者達を俺達捜査四課は相手して来た訳である。
……其れでもやはり教育の機会が全く無いのと、頑張れば受ける事が出来る可能性が有ると言うのは大きく違うらしい。
「それでは宜しくお願いします師範代。古の契約に基づきて……」
自分は恵まれている……そんな事を噛み締めながら俺は、彼に一礼してから要石転移の呪文を唱え始めるのだった。




