千二百十五 志七郎、溢れる煩悩に悩みつつ修練を続ける事
翌日から俺は精霊魔法の勉強時間の大半を四煌戌の背中に乗ったままで、彼等毎転移する練習に終始する事になった。
「んー、短縮詠唱の方が逆に上手く行くのは、お前等が俺に気を使ってくれているって事なんだろうなぁ……」
何度かの施行の結果解ったのは、長文でしっかりと詠唱した時の方が俺だけが転移する結果になる事が多く、逆に主語を抜いた短縮形での指示の時の方が彼等諸共に綺麗に指定した場所へと転移出来ると言う事だった。
此れは恐らく長文詠唱した場合には俺の指示が間違って居る事が多く、逆に短縮詠唱の場合には彼等自身の判断を挟む余地が大きい事が原因だろう。
『精霊魔法は思った通りに発動しない、詠唱した通りに発動するのだ』と言うのは、お花さんから受けた授業の中で散々言われ続けて来た基本の基の字とも言える格言だが、つまりは俺の詠唱にバラツキが有ると言う事が結果として現れていると言う事である。
「転移魔法は距離や位置何かを組み込む関係上、完全な定型文にするのが難しいんだよなぁ……でも其れをきっちりとして居るからこそ、お花さんは彼処まで完璧な転移を自由自在に出来ると言う事でも有る訳か」
誰に聞かせる訳でも無く、何と無く口からそんな言葉が漏れ出る。
俺は基本的に独り言の多い方では無く何方かと言えば無口な方なのだが、そうなったのは警察学校を卒業してからの事で、大学時代に実家から出て一人暮らしをして居た頃は、独り言が増えたと言う自覚が有った位には独り言が多かった覚えがある。
此れは独り言の多い警察官では、端から見て住人の不安を煽るから……と言う事で改させられた癖だが、捜査四課で課長に成ってから、部下に思っている事がつい口から出る癖の有る男が配属されてアレはヤバいと思ったりもしたものだ。
まぁそう言う意味では思っている事が顔に出やすかった今生のこの身体は、元来の持ち主と言える魂が相当素直な性格で、中身と成った俺自身も彼の影響を相当に受けているのだろう。
……ついでに言えば、前世の俺と比べて今生の俺が息子さん的な意味で元気が過ぎるのも、恐らくはこの身体本来の魂の影響が有るのかも知れない。
考えて見れば『俺』からすれば確かにお連は恋愛対象と呼ぶには幼すぎる相手と言えるが、今生の『俺』から見れば一寸年下では有るが同年代の可愛い女の子なのだ。
息子さんが元気を取り戻し思春期に突入したと言って間違いない今の状況では、同じ寝台で一緒に寝る許嫁を意識しないと言う方が不健康なのではあるまいか?
無論だからと言って身体の出来上がっていない子供に、そう言う行為をする危険性が解っている以上は、手を出す様な真似は絶対にしないがね。
と……余所事を考えている時じゃ無い、今は一刻も早く転移魔法を完全に物にする事を考えねば。
どうも息子さんが元気を取り戻してから此方、思考がそっちの方に逸れる事が多く成った様に思える。
いや、まぁ前世も小学校の頃は兎も角、中学生位に成るとそう言う事に興味も湧いたし、そう言う事を描いた漫画何かを学校で回し読みする様な事も有ったがね。
そんな事を思い出すと、また思考がそっちへと逸れて行きそうに成ったので、俺は両手で自分の頬を挟み込む様に張り、一旦脳内を綺麗にする。
転移魔法は色ボケした頭で使えば、不幸な事故を起こす可能性が零では無い危険な魔法なのだ。
此れが前世の世界で流通して居る少年漫画の恋愛笑談の類だと、女子更衣室や女湯に転移するなんて言う、所謂『幸運助平』な事に成るんだろうが、現実であんな事に成れば当然の様に手が後ろに回る事に成る。
ちなみに江戸では基本的に銭湯は男女の風呂場は別に成っている所が多いが、男余りが酷い江戸の街では前世の日本の様に男湯と女湯を同じ広さで作ると、女湯の客入りが足りなく不利益が生じる為、一つの風呂場だけを設置した入り込み湯と言われる様な見世も有る。
入り込み湯が有るのは大体は貧乏長屋なんて呼ばれる様な所の住人が多い、腐れ街にも程近い場所なんかが主で、入浴料が安い変わりに男女の別を別けて無いと言う感じで営業して居るのが普通だ。
治安が余り良くない地域で安い料金で営業して居るのだから、当然客層も其れ也の者達と言う感じに成り易く、男女の別無く入り込み湯で痴漢や其れに類する行為に遭っても、犬に噛まれたと思って忘れるのが常識だと言う。
混浴と言う意味では温泉なんかでも自然のままの湯殿が一つだけと言う温泉宿は割と有るのだが、そうした場所では逆に男女の別無く他人に視線をやらず、お互いに干渉しない様にすると言う暗黙の了解が有ったりする辺り火元国の倫理感は高いのか低いのか……?
兎角、男女が別に成っている銭湯で、女湯に幼い子供ならば兎も角七つ以上の男児が入り込む様な真似をした場合には、即座に見世の者に取っ捕まえられて街奉行所へと突き出されるのが普通らしい。
そして情状酌量の余地無しと判断された場合には、江戸州から追放される『所払い』と言う刑罰が言い渡されると言う。
前世の感覚で言えば他所へと引っ越せと言うだけの非常に軽い刑罰にも思えるが、江戸の街に住んでいる者は当然江戸市街地で仕事を持っているか、若しくは何時でも仕事に有りつける伝手が有ると言う事だ。
けれども追放されてしまえば、今の仕事は当然辞める事に成るし、今持っている伝手も使えなく成る。
鬼切りを生業として居る者ならば、他所へと出た所で仕事に困る事こそ無いにせよ、鬼切り手形に前科者と言う記録は残る以上、他の地域でも信用に拘る様な依頼を口入屋から得る事は難しく成るだろう。
まぁそんな訳で、幸運助平だったとしても江戸州で女湯に飛び込む様な事が有れば、先ず間違い無く武家の子ならば勘当された上で武士としての立場も失っての旅立ちと成るのは間違いない。
今回の留学生の中で今の段階で時属性を使う事が出来るのは俺位な物で、三色霊獣に足りない精霊をとの契約を足した武光や蕾にお忠の三人も未だ四属性複合には至って居ない筈で有る。
或る意味俺一人だけが突出した状態な訳だから、此処で駄目な前例を作る様な事だけは絶対に避けねば成らない。
……何と無く武光辺りが転移に手を出した場合、不幸な結果には成らない形で幸運助平を発生させたりはしそうな気もするが、流石に其処までは俺が責任を取らにゃ成らんと言う話には成らないと思いたい。
と、また思考が変な方向へとズレて居るな……本当に今生のこの身体は、一寸前まで不健康な息子さんを心配して居たと思ったら今度は元気過ぎて困るとか、良い塩梅の状態に成る事は無いのだろうか?
「古の契約に基づきて、我、猪河志七郎が命ずる……」
ニ度、頬を叩き今度こそ煩悩を頭の中から押し出して、再び呪文の詠唱に入る。
今回は四煌戌と共に纏めて訓練場の反対側へと移動するが、其方には視線をやらない様にした瞬間移動の魔法だ。
視界転移よりも移動先を指定する為の文言が入る分、詠唱内容が難しく成るが此れがしっかりと出来ない様では、特定の遠駆要石を目指した転移は出来ないし、大陸を超えての超長距離転移等夢のまた夢である。
お花さんの見立てに拠れば、四煌戌と俺の魂の出力ならば何の目標も無く火元国へと飛ぶのは無理でも、世界樹に登録されて居る遠駆要石の通信網を利用すれば、江戸州内の戦場へ飛ぶ事は十分に可能だと言う。
ならば目に見えない場所だとは言え、距離的には其れと全然比べ物に成らない近距離転移位は簡単に熟せなければ話にも成らない。
溢れ出す煩悩を無理矢理脳味噌の片隅に押し込んだ俺は、唱えるべき呪文が間違っていないかを必死に確認しながら、無事に訓練場の別の場所へと転移するのだった。




