千二百十四 志七郎、櫛を手に彼女達の機嫌を取る事
精霊魔法の詠唱は相棒と成る契約した精霊や霊獣にさえ聞こえれば効果を発揮する事が出来る。
其れでも『何をするか解る様に呪文を唱える』のが基本とされて居るのは、冒険者と言う職業が単独で完結する物では無く、一党を組んだり其れが複数集まった徒党での戦いが前提に有るからだ。
ただ対人戦闘や大鬼に大妖等の名前持ちと言われる様な魔物は。呪文を読み解き効果を類推する事で回避する……なんて真似をする事も有るので、短縮詠唱や無詠唱の様な技術も時には必要と成る。
お花さんが俺を連れて北方大陸に転移する時に見せた『他人には聞こえない詠唱』もそうした相手への対策の一つで『囁き詠唱』と呼ばれている物だ。
囁き詠唱の骨は『耳元で囁く様に詠唱し、正しい効果がしっかりと出る様に祈り念じる事』らしいのだが、時には『おおっと!?』と言う感じで失敗する事も有るという、短縮詠唱や無詠唱に比べればマシだが其れでも高等技術と言える。
とは言え其れが出来るのはお花さんや武光とお忠の様に懐に入れる事が出来る様な小さな霊獣や実体を持たない精霊位な物で、俺や《ラム》が契約して居る様な騎乗出来る様な大型霊獣の場合には、騎乗中でも無ければ囁き詠唱は無理だろう。
お花さんが世界最強の霊獣と言っても過言では無い古龍と契約して居るにも拘らず、多くの霊獣と契約を解除せずに複数の契約を維持し続けているのは、空を埋め尽くす様な巨大な龍では囁き詠唱は不可能だからと言う側面も有りそうだ。
「と、成るとやっぱりお前等を連れての転移には、囁き詠唱の様な真似は難しそうだな」
昨日は置いて行ってしまった四煌戌達の身体を丁寧に毛繕いしながら、俺はそんなぼやきを口にする。
此奴等の食餌は野菜や穀物なんかを混ぜて嵩増しはするが基本は肉だ。
しかも下手な軍馬なんかよりも余程巨大な体格をして居る此奴等の食う量は、常人の三倍は最低でも食うと言う猪山藩の基準からみても大食らいで有り、自力で狩らずに銭で贖おうと考えれば一日で十両もの大枚が飛んでいく。
此処ワイズマンシティでは炙り肉なんかに使えない様な端材や、そのままでは食べれない様な内臓なんかを刻んで纏めて、可也濃い目に味付けされたランチョンミートの缶詰は比較的安く手に入る。
けれども其れに使われている様々な香辛料や塩は、四煌戌に食わせる食餌としては相応しく無い為に、必要量の食材を用意しようと思えば火元国の十倍で済んだら御の字と言える位に金貨を積み上げる事に成ったのは想像に難く無い。
では俺が置いていってしまった昨夜の食餌はどうしたのかと言えば、火元国で仁一郎兄上が用意してくれていた物を、お花さんが態々瞬間移動の魔法を使って取りに行ってくれたのだ。
何時でも何処でも簡単に転移出来るお花さんにとっては大した手間では無い……と思われるかも知れないが其れは間違いである。
彼女と幕府の間で取り交わした契約の中に『幕府の許可無く江戸州内で大魔法の使用を禁じる』と言う一節が有り、転移系統の魔法は其れに抵触する為に彼女が江戸に入る場合には一度江戸州の外へと転移し、其処から徒歩で関所を通る必要が有るのだ。
その為彼女は江戸の猪山藩屋敷へと行く際には、一度江戸州の外に有る白猫温泉郷へと転移し、其処から関所を超えて江戸州へと入りそこそこの距離を歩いて屋敷へと行かねば成らないのである。
俺が此奴等と共に転移していれば、向こうから火元国へと送還する事も出来た訳で……お花さんには要らない手間を掛けさせたと言えるだろう。
ついでに此奴等も主人で有る俺が側に居るならば兎も角、そうで無いのに慣れた場所以外で一夜を明かす羽目に成った事は申し訳無いと言わざるを得ない。
「わふん……(気にしないで……)」
「ばう……(僕達も甘かった……)」
「ふぁ……(どーでも良いし……)」
そんな三つ首三様の答えが帰って来るが、紅牙と御鏡は兎も角翡翠の返事は色々と駄目だろう。
「翡翠、お前な。下手をすれば一生の別れに成る可能性も有ったんだぞ? 其れをどうでも良いって事ぁ無いだろうが……」
ため息混じりに翡翠の頭を両手で掴み、氣で握力を強化し、お仕置きとして人間の頭ならば割れるだろう力で締め付ける。
「きゃいん! きゃいん! きゃーん!(いてて! 解った! ごめんなさい!)」
全く……三者三様の性格は彼等が司る精霊の持ち味がそのまま出ているのだろうが、其れでも翡翠の色々と拘りがなさ過ぎる性質には困った物だ。
精霊魔法は霊獣側が呪文を曲解する事で、術者が唱えた意図とは違う形で魔法が発動する事も有ると言う話なので、四煌戌の中では此奴だけが正直不安の種と言えなくも無い。
流石に悪意を持って曲解する様な真似をする程に俺を嫌っていると言う事は無いとは思うが、何時か『自由を求めて』適当な魔法の発動をすると言う可能性は零では無いのだ。
まぁ一処に留まる事の無い風と言う属性を司っている以上は、ある程度自由人とでも言うべき気風なのは仕方無いのだろうがね。
火の属性を持つ紅牙は熱血漢の姉御肌な感じだし、水の属性を持つ御鏡は三つ首の中では一番穏やかでは有るが恐らく怒らせると一番怖いのも此奴だと思う。
「ばう! わんわおん!(御主人! 後から叱っとくから櫛の続き!)」
同じ身体を共有して居ると言うのに長女気質な紅牙が毛繕いの続きを促した辺り、胴体は両性具有とは言え、精神はしっかりと女の子なのだと感じさせる。
……つか、此奴等の全身をきっちり毛繕いするのって割と重労働なんだよな。
今は別に換毛期と言う訳でも無いから、櫛を入れても然程多くの抜け毛が落ちると言う事も無いが、春と秋の其れでは軽く一度櫛を入れるだけで、歯と歯の間に抜け毛が大量に挟まり一々取らないと櫛としての役目を果たさなく成るのだ。
本当ならば毎日しっかりとやってやるのが良いのだろうが、本気で全身を組まなく櫛を入れようと思うと軽く一刻近く掛かってしまうので、換毛期以外はどうしても手を抜きがちである。
まぁ其れでも散歩は此方に居る間も可能な限り毎日召喚して連れて行ってるんだけれどもな。
「はーい、痒い所は有りませんか?」
なんて事を聞きながら俺は昨夜の件に対する謝罪のつもりで丁寧に毛繕いを続けて行くのだった。
「で、今度は連の機嫌を取る為の毛繕いですか? 御前様がしてくれると言うなら有り難くお願いしますけれども……」
四煌戌の毛繕いを終わらせ、ひとっ風呂浴びて、晩飯を食ったら後は寝るだけ……と言う段に成り、昨夜は黙って帰らずに居た事でお連にも心配を掛けただろう事に思い至った俺は、風呂上がりの彼女の髪を解く手伝いを買って出る事にした。
髪は女の命と言う言葉は前世にも幾度と無く聞いた事が有るが、女性でも短髪は割と居た現代日本とは違い、火元国の女性は年齢問わず女髷を結う事の出来る長い髪を維持するのが普通である。
稀に短髪の女性が居たとしても多くの場合は、高名な女鬼切り者であったり、道場の娘だったりと武張った理由の者ばかりで、装いとして短髪を選択して居る者と言うのは先ず見かける事は無い。
と言うか……男も公式の場では髷を結っている事が求められるので、俺の様に短く刈り込んだ髪を維持して居る者の方が珍しいんだけれどもな。
……え? 桂殿? 彼の場合はあの輝かしい頭を維持した上で、公式行事の際には自分の髪で作った鬘を何時でも装備する事が出来る様にして居るから許されて居るんだよ。
まぁ彼の場合は血筋的に、どうしても中年位の時点で可也髪の毛が薄くなって髷を結う事すら難しく成る宿命を背負って居るからこそ、そう言う家訓が出来たと言う話だけれどもな。
「機嫌を取る……なんて積りは無い。ただ、毎日しっかりと解かして居るのを見ていたのに、俺が其れをして上げた事は無かったなと思ってね」
ワイズマンシティに留学し、一つの寝台で寝る様に成ってから、毎晩彼女がしっかりと自身の髪の毛を手入れして居る姿は見てきたが、其れが或る意味で俺の為なのだと息子さんが元気に成ってやっと理解出来た気がするのだ。
無論、未だ彼女をそう言う対象として見るべきでは無いと言う事は理解した上で、俺は彼女の髪の毛を彼女が満足するまで梳るのだった。




