千二百三 志七郎、己の課題と魔法経済を考える事
息子さんが無事に元気を取り戻した今、此方の大陸へと留学して来た最大の目的は果たせたと言って良い。
けれども其れは飽く迄も俺個人としての目的で有り、幕府が留学の費用を出して居る以上は、学徒としても一定の成果を持ち帰る義務が有る。
その点ではお花さんが俺に出した課題で有る瞬間移動の取得と言うのは割と理に適った物なのだ。
此れが俺自身しか移動出来ない様な練度でしか無いならば、正直殆ど意味が無いと言っても良いが、一人でも同行者を連れて転移出来ると成れば話が変わって来る。
此方の大陸に留学している精霊魔法初心者と言って良い同期の連中は兎も角、留学第一陣の者達はそろそろそこそこの術を身に付けて火元国へと戻るのに良い頃合いに成って来て居る者もそれ也に居るのだ。
多くて三属性、大体の者は二属性の精霊と契約しただけで、霊獣を従える者は居ないらしいが、其れでも中級以上の複合属性魔法を使える様に成っていれば、後は自己判断で何時でも卒業しても構わないのが学会と言う場所である。
逆を言えば此の街に何時までも残って研究と研鑽を続けても学会側としては、全く問題が無いと言う事でも有るのだが、留学の費用にも此方での生活費にも幕府からの援助が入っている以上は、ある程度モノに成った段階で一旦は帰る義務が有るのだ。
本人が転移系の魔法を使える様に成るのが一番手っ取り早いと言えばその通りでは有るが、一体で複数の属性を扱える霊獣を従えず、四体の精霊と契約し時属性を扱うと言うのは、割と無理筋な話なのだと言う。
精霊や霊獣を召喚する際、魂力の一部を彼等に対価として差し出す事で召喚に応じて貰うのだが、複数の精霊をその身に宿す霊獣一体と単一属性の下位精霊一体でも、必要と成る魂力は同等なのだ。
故に精霊魔法使いは一体で多くの属性を扱う事の出来る霊獣との契約を熱望し、ある程度の技量に達した所で世界を旅して未契約の霊獣を探すのである。
本来ならば彼等もそうした旅に出て霊獣と契約する方が良いのだが、学会での教育課程を終えた時点で一度は火元国へと帰る、と言うのが幕府と取り交わした留学条件の一つらしい。
にも拘らず、未だ第一期生の誰もが学会に居残って居るのは、単純に帰る為の手段が乏しいと言う事に有る。
来る時の様に幕府の御用船を仕立てて帰ると言うのであれば、可能な限りの人数を一纏めにしなければ、費用も船も幾ら有っても足りはしない。
かと言って転移魔法が使える者が送り迎えすると言うのも割と現実的な方法では無く、奇天烈百貨店を運営する彩重屋が抱える精霊魔法使いに依頼を出した場合には、一人に付き千両とかとんでも無い額面の銭を要求される事に成ると言う。
此れは精霊魔法に限らず術者系の冒険者を金銭で雇う際にどれ位の費用を出せば良いのかと言う相場を、冒険者組合や精霊魔法学会だけで無く、錬玉術師製作所他、多くの団体が協議した結果、奇跡を安売りしてはいけないと言う話し合いの結果らしい。
当然ながら使い手の技量が上がれば上がる程に、担い手を雇う費用は跳ね上がって行く為、お花さんに転移を頼むと成ると千両箱を幾つ積み上げる事に成るかも解った物では無い。
ちなみに一党全員を即座に最寄りの遠駆要石まで転移させる『脱出』の魔法が使える術具は、一回限りの使い捨ての物でも一両が相場だと言うので、この世界の転移は決して安い物では無いのだ。
対して幕府の傘下に居る俺が他人を連れての転移が出来る様に成ったのであれば、持てる能力を幕府の為に使うのは武士の義務の内……と言う事に成る為、流石に無料でとは言わないまでも外部に依頼するよりは圧倒的に安く上がると言う訳である。
此れは俺が幕府から不当に搾取されると言う訳では無く、何方かと言うと幕府が俺に対して留学費用等の投資をした結果なので、その恩返しと言う方が近い形だ。
向こうの世界でも自社で一から育てた技術者がやる仕事と他所に委託した仕事では、掛かる費用が違う……なんてのは普通に有る話で、其処の均衡を取るのが経営者としての腕の見せ所の一つだった筈で有る。
まぁ均衡の取れない対応をして居たり、技術者を不当に安く扱おうとし過ぎれば、前世の世界の日本に対して『高い給料』と言う飴で技術者を引き抜き、技術の移転が済めばサクッと首を切る……と言う大陸の国が行った行為が横行するんだろうけれどもね。
其の辺は恐らく此方の世界でも『御恩と奉公』と言う言葉で守られる……と信じたい。
恐らくは当代の上様が健在で、幕府が費用を出して留学させた元学生達が現役の内は、ある程度の廉価作業も『先に留学費用を出したと言う投資の結果』として納得もするだろう。
問題が表面化するのは多分数代先の世代で、精霊魔法や錬玉術を家伝の技術として引き継ぎ、西方大陸や北方大陸に留学経験が無い者が担い手と成った頃では無いだろうか?
人と言う者は往々にして自分の知らない物を安く見積もりがちに成る。
気に入った『物』になら幾らでも金を払うが、其れを作る技術に対する敬意や対価と言うのがすっぽりと抜け落ちている人間の話は、前世にも良く聞いた物だ。
生前に十万円以上もする業務用のソフトウェアが入ったCDを売る営業マンが、営業を掛けた先で『CDは普通三千円だろう、なんで其れが十万円以上もするんだボッタクリじゃないか!』と怒鳴られたなんて話を聞いた事が有る。
其の話は未だパソコンが一般的に普及して然程も経って居ない頃で、国際電子通信網も普及して居らず、ソフトを買うと成るとFDを何枚も突っ込むのが当たり前だったと言う頃合いの事だったと言う。
そんな時代にCDと言う事はFDにしたら何十枚と言う様な大きな容量を使うであろう物で、其の開発には可也の時間と経費が掛かっていた筈だ……とそっち方面に明るい者が笑いながら話して居た。
同じ様な逸話としては『ピカソの三十秒』と言う小話が有る、割と有名な話なので詳細は省くが、技術と言う物は大半が誰にでも出来る事をそう簡単に出来ない程に積み重ねた結果として、一流と呼ばれる程の腕に成る物で有る。
と成れば、優れた職人を雇うのに高い対価が必要に成るのは当然の事なのだが、其れを知らない者は『簡単に出来る事だから』等と簡単に言って値切ろうとするなら未だマシな方で、下手をすると『無料でやれ』等とほざく輩まで現れるのが世の常だ。
留学生達を送り出した上様や今の幕府重鎮達は、危険な航海の末に苦労して術を学んで帰った者達を無下に扱ったりはしないだろうが、数代先の『術者が居るのが当たり前』に成った世代では其の辺がどうなるか解った物では無い。
とは言え此方の世界は前世の世界と違って技術や知識は秘匿するのが当たり前で有り、そうした物の価値が高いのが常識では有るので、もしかしたら精霊魔法や錬玉術も価値を維持する事が出来る可能性も有るだろう。
……と言うか、銭の成る木と看做されている錬玉術の担い手を結構な人数、幕臣として育成して居る以上は其の価値を落とさない手立てを、幕府が考えて居る可能性は十分に有る。
錬玉術で作られる術具は一から桐まで有るとは言え、其れを作れるのは江戸だと智香子姉上と望奴の二人しか居ない。
霊薬ならば其れを作れる薬師も幾らかは居る為に、多少は相場に合わせた価格に落ち着くが、錬玉術でしか作れない術具とも成ると殆ど『言い値』の世界に成る。
とは言え一応は北方大陸から輸入されて居る品も有る為に、全てが全て目玉の飛び出る価格と言う訳では無いし、そもそも姉上は依頼を受ける段階で価格交渉を済ませる為、依頼主も姉上も双方に利が有ると判断出来なければ取引は成立しないのだ。
望奴が表立って錬玉術師として活動する前は、智香子姉上だけが江戸の錬玉術師だったので、『この値で無理なら他所に行け』が成り立たない独占状態だったが、其れが変わってから果たしてどれ程仕事の値付けが変わったのだろうか?
江戸州の人口は大凡百万人で、其の内武士は一割にも満たない数しか居ないが其れでもざっくりで十万人、全てが全て術具を求める訳では無いにせよ智香子姉上と望奴の二人で需要を満たし切れては居ない筈だ。
留学生達が戻ってどれ位、術具や魔法の価値が変わるかは、その時に成って見なければ解らないが、子々孫々の代まで不幸に成る様な事だけは無いと願いたい。
「良し、紅牙、翡翠、御鏡……俺が見ている物が見えるな? あの赤い柱の直ぐ横に転移するぞ? 古の契約に基づきて……」
其れも此れも先ずは俺が瞬間移動の魔法に慣れ、留学生達を無事に火元国へと送り返す算段が付いてからの事だ……と、気を入れ直して俺は視界転移の呪文を唱え始めるのだった。




