千百九十九 志七郎、階位認定試験を受け寅新たな可能性に気が付く事
「……温度計は紅牙と俺で維持するから、翡翠と御鏡は止めるまで氷の魔法で鍋の温度を下げてくれ」
錬玉術師としての階位を認定する試験に取り掛かった俺は、事前に宣言して居た通り錬玉術だけで無く、氣と精霊魔法の併用に拠る時短作業を寅殿に披露して居た。
温度計の魔法は火と土の複合属性で有る熱の魔法で、其の名の通り物の温度を計る魔法だが、とは言えコレは温度が数字化されて見えると言う様な物では無く、何方かと言えば赤外熱映像装置を通した映像を見る感じで温度を可視化する効果が有る。
此方の世界にも物理的な温度計が無い訳では無い、けれどもソレは当然電子温度計では無く、前世の世界でも敢えて使う様な所でも無ければ見る事の少なくなって居た水銀計や酒精温度計だ。
此処の工房で初めて見た自動車の計器にも似た形をした温度計らしき物は、恐らく『バイメタル式』と呼ばれる種類の温度計だろう。
電子式では無い其れ等が駄目とは決して言わない、実際錬玉術師製造所でも最上位と言って間違い無い錬玉術師で有る寅殿の工房に据え付けられた窯や鍋に取り付けられた其れ等が半端な物の筈が無い。
けれども自然の火に拠る加熱や氷を使った霊薬に比べて、精霊魔法を用いた其れは変化が余りにも急過ぎる為に、物理的な温度計で温度を計って指示を出すのでは丁度良い頃合いを逃してしまう可能性が可也高いのだ。
その為、完全に同時進行で温度の変化を見て取る事が出来るこの魔法を使う方が確実と言う事に成るのである。
「三、二、一、今!」
と、意識加速を併用する事で零点零々秒未満の僅かな拍子の狂いも無く、魔法に拠る冷却を止めさせる。
此方の世界で温度は前世の世界で日本が採用して居たのと同じ摂氏温度
と同様に、水の凝固点を零度沸点を百度にする方法が一般的に使われている、此れは世界樹諸島周辺での『水の三態変化』を基準として居るから……らしい。
理系では無い俺は余り詳しくは無いが、気圧の低い山の上なんかだと低い温度でも水は沸騰するし、逆に気化に依って膨らむ体積が逃げる場所の無い様な密閉空間なんかだと、百度を超えると言う事も有った筈だ。
まぁこの世界を管理する神々が住む場所が基準と言われたならば、神が実在するこの世界ならば誰しもが其れに準ずるのは普通の事だろう。
其の割に長さや重さの単位は国や地域でまちまちだったりするのは何故なのか?
そんな事が一瞬脳裏を過るが、今は本の一時の気の迷いが原因で大爆発を起こしても不思議は無い錬玉術の調合中だ、と余所事を頭から振り払い使い慣れて来た手鍋の中身を確認する。
よし……良い拍子で錬玉反応を止める事が出来て居るな。
うん、此れなら十分に『最高品質』と言って良い状態の『塗料』が出来た。
「信じられない……あの材料ならどうやっても高品質止まりの筈なのに……マジで此れは錬玉術の壁を超える切っ掛けに成るんじゃないだろうか……」
俺の手並みを見ていた寅殿が口から魂が抜けている様な表情でそんな言葉を呟く。
「先程も言って居ましたが錬玉術の壁って結局何なんですか?」
手鍋の中身が完全に安定したのを確認してから、其れに一度蓋をしてそう問いかける。
「錬玉術の壁と言うのは、一部の魔物から取れる素材は、どう頑張っても並品質よりも上の物が手に入らない為に、高品質以上の調合品を作る事が不可能な調合法が有ると言う事だよ」
錬玉術で調合される霊薬や術具は、同じ調合法でも使用する道具や素材の良し悪しで品質に差が出るのは割と当たり前の事で有り、其れを加味した上で可能な限り高品質の品を調合するのが錬玉術師の腕の見せ所なのだと言う。
けれども、どうやっても高品質と呼べる状態の素材が手に入らず、ある程度の品質で妥協して居る調合法と言うのが、錬玉術師製造所の大図書館には幾つも所蔵されて居るらしい。
「腕の良い錬玉術師ならば一段階上の品質に引き上げる事は不可能では無いが、並品質の素材だけを使って、簡易的な道具で最高品質の塗料を調合してみせた、しかも決して優れて居るとは言えない手並みでな」
寅殿の見立てでは俺の持つ錬玉術師としての純粋な技量だけならば、今回の組み合わせでは運が良くて並品質、普通ならば低品質、少しでも気を抜けば産業廃棄物が出来上がる……其れ位の難易度の調合だったと言う。
けれども実際に出来上がったのは最高品質の逸品と成ったのは、普通に焜炉の火を使った加熱は兎も角として、魔法を使って急速に冷却する事で本来ならば発生する筈の劣化を防ぎ、正確な温度を見極めた事で冷やし過ぎに拠る劣化も無かったのが原因である。
錬玉術と言うのは極めて繊細な物で本の一秒の間、一度の差が有るだけでも出来上がりの品質に一段二段の差が付く事も有る物なのだ。
詳しくは無いがこの辺は恐らく鍛冶師の仕事なんかでも同じだろう。
何かの本で刀鍛冶の弟子が、熱を加えた金属を水なんかで急速に冷やす事で高度を増す『焼入れ』と言う作業に使う水の温度を盗む為に、其の水に手を入れた所で師匠に腕を切り落とされた……なんて言う話を読んだ覚えが有る。
水の温度一つで刀の出来上がりに大きな差が生まれる物だからこそ、簡単に盗ませる訳には行かなかったと言う逸話なのだろう。
錬玉術でも氷を生み出したり、氷よりも更に温度の低い固体二酸化炭素を作ったりする技術は有るので、やろうと思えば俺が今やった様な急速冷却は不可能では無い筈だ。
……と言うか、装着者の生命力や状態異常なんて目に見えない物を可視化する様な術具が有るのだから、温度計の魔法と同じ様に温度を可視化する術具を作れば今と同じ事は十分に出来ると思うのだが?
「温度管理を正確にすると言うだけでこの結果に成るなら、錬玉術の壁なんて簡単に超えられるんじゃないですか?」
故に俺は自分でも出来る簡単な事とそんな言葉を口にする。
「馬鹿を言ってはいけない、此れが温度管理だけで出来る結果な物か! 恐らくは精霊魔法や氣と言う今迄の錬玉術には無かった新たな要素が絡んで通常の錬玉反応とは違う、別の何かが起った結果だぞ此れは! もしも他の者でも再現性が有るならば大発見だ!」
どうやら俺が今行ったのと同じ様な微細な温度管理は、ある程度以上の腕前を持つ錬玉術師ならば当然の様に行っている物で、単純な技術としては目新しい物では無いらしい。
と成ると出来上がりの差を生み出したのは寅殿の言葉通り、精霊魔法か氣の何方か或いは両方が必要と言う事なのだと言う事は容易に想像が付く。
「ああ、唖々、嗚呼! 時間が時間が惜しい! こんなに素晴らしい研究素材が目の前に有ると言うのに……君は何故此方に留学して来なかったのかね!? もしも此れが一年前に発覚して居れば、錬玉術は一帯どれ程の高みに至って居た事か!」
火元国に居た頃には見た事の無い狂科学者染みた表情で、俺の肩を掴み揺すりながらそんな言葉を口にする寅殿。
「必要なのは精霊魔法使いとの合作か? 其れ共氣功使いの協力か? いやしかし氣だけならば、他の工房から既に発表が有っても不思議は無い筈だ」
直後、俺から手を離し虚空を見つめてブツブツと推論を並べ始める姿は、完全に紙一重の向こう側に居る人の様で一寸怖い。
「……続きを調合しよう」
思考の迷宮を彷徨う寅殿が此方を一瞥もしなくなったのを認めた俺は、途中だった階位認定の為の調合を再開しする事にした。
その結果、無事に三つ星を獲得するに至ったのだった。




