十 志七郎、下屋敷を訪ねる事
のしっ、のしっ、一歩歩く度にそんな音が聞こえる気がする。
もちろん俺がという訳ではなく、かといって礼子姉上が太っているという事でも無い。
その両肩に担ぎ上げられた木箱の重さ故だ。
姉上の体重がいくら軽くとも木箱と合わせれば200kgは軽く超えるだろう。これは下手な相撲取りより重い。
おそらくは巨漢の義二郎兄上より今の姉上は重い。
そして何より脅威なのはそれだけの重量を担ぎあげた姿勢のまま、すでに30分以上を歩き続けているのに汗ひとつかいていない。それも自分のペースで歩いてではなく、俺の短く遅い足に合わせてだ。
しかしその足取りに不安は全くなく、はたから見れば空箱を担いでいるようにしか見えない。
だから冒頭の足音は俺にだけ聞こえるもの、であるはずだ。
それでも道行く男たちがモーゼの十戒の如く道を開けるのは、姉上が美人過ぎるが故と思いたい。
……というか、護衛の必要なんかあるのか?
棒手振りやら町火消しのような町人は言うに及ばず、明らかに武士と思わしき男たちもが姉上が通りかかると、腰が引けたように道を開けている。
それを気にする様子もなく、マイペースで歩き続ける姉上。
これは姉上にとって日常の光景なのだろうか?
あまりに衝撃的なその様子に俺は歩む足を止め、暫し呆然と姉上の後ろ姿を見つめた。
「あら? しーちゃん、歩き疲れたのかしら?」
「いえ、大丈夫です。姉上こそそれ程重い物を持って疲れはしないのですか?」
振り返りそう声を掛けられ、我を取り戻した俺は慌てて否定しながらも少々遅れたのを駆け足で追いつき、そう疑問を口にする。
「んー、今日はまだ軽い方だし、これくらいなら全然問題ないわね」
…‥なん……だと……? あれがまだ軽い!? いつもは一体どれだけの物を持っていると言うのだ? 礼子姉上はバケモノか!?
あまりの衝撃的な言葉に俺は声を出すことも出来ず、下屋敷に辿り着くまでただただ黙って姉上の横を歩いて行くのだった。
おおよそ1時間程掛けてたどり着いたのは、広大な畑の中にぽつんと立つ田舎の邸宅、そんな場所だった。
遠目には江戸の市街が見えるので決して本当に田舎という訳ではないのだが、市街地のほうを見なければ本当に一面畑で、所々に貧相な作りの農家と思しき掘っ建て小屋が見えるだけで、その屋敷の佇まいは少々異彩を放って見えた。
姉上は下屋敷にはよく来ているようで、特に何の躊躇もなく門番をしている男たちに軽く会釈をして門を潜る。
門番は着流しのようなものの裾をたくし上げ、そのしたには股引の様なものを履いており、刀を持たず穂先のないたんぽ槍の様なものを手に開け開かれた門扉の前に立っていた。
どうやら服装と装備を見る限り家臣の武士という感じではなく、雇われの町人衆の様に見える。
ただその雰囲気は明らかに堅気のそれでは無くどちらかと言えば、前世で慣れ親しんだヤクザ者、それもテキ屋衆ではなく博徒系のそれだった。
少々警戒しつつも、姉上があっさりと通り抜けていったのでそれに倣う。
門番はジロリと見下ろすが裃の家紋を見てこの屋敷の家の子と判断したのだろう、特に咎めること無く中へと促した。
門を入るとそこには、自宅によく似た様式のただ見るからに1回り以上は小さな屋敷と、幾つもの蔵、そして庭の大半を占める畑が見えた。
そもまま姉上は屋敷や蔵の方向へは行かず、畑へと近づくと両肩に担いでいた苗箱をそっと音もなくおろした。
「さて、と……しーちゃん。一寸休んだら苗植えるの手伝ってちょうだいね」
流石にあの重量を1時間以上も休まず担いできたのだ、多少の疲れは有るのだろう。姉上はそう言って、今度は屋敷の縁側へと歩み寄っていく。
姉上の声が聞こえたのだろうか、俺達が縁側へと着くと障子を開け中からは数人の男達がお茶と菓子を盆に乗せ出てくる。
「コレは姫様いつもご苦労様でございます。ささ、粗茶でございますがお寛ぎください。おや? 今日は護衛の方々のお姿が有りませんがお一人で?」
その中の一人、仕立ての良い着物を来た中年絡みの男がそう姉上に座布団と茶を勧める。
やはりこいつも堅気ではない。しかも、さっきの門番や周りの男達には無い風格を感じる……、最低でも若頭、もしかすれば一家を背負う親分かも知れない。
「あら、今日はこの子が護衛に着いてくれたわ。うちの末の弟、志七郎よ」
そう、姉上はころころと鈴を転がすような声で笑いながら俺を指し示す。
「おお、これは可愛らしい護衛でございますな。いやはや、末の若様は確か五つになったばかりと聞いております。その御年で護衛が務まるならば末が楽しみですなぁ」
少々大げさな、ともすれば嘲るようなその物言いだが、目が笑っていない……。
いや、むしろ油断なく俺の一挙一動を伺っている素振りすら見える。
……こいつ、出来る!
木刀に掛けた手を離さず、目だけを軽く伏せ礼の意思を示す。当然これはお互いの立場に関わらず無礼な行為だが、自分が臨戦態勢で有ることを伝える意味では有りな選択だと思う。
「……こりゃ参った。本気で隙を見せねぇたぁ、流石は雄藩猪山のご子息様だ、幼くとも立派な武者振りだ」
そんな俺の態度に男は破顔しパシリと額を打つ。そしてわざわざ縁側から降り、地面に膝を突いた。それに倣ってか、他の取り巻き達も同様に着物の裾が汚れるのも構わず次々と庭に膝を下ろしていく。
「自分はこの猪河家下屋敷、中間の取り纏めを務めます松吾郎と申します。以後お見知り置きの程よろしくお願いいたします」
そう言って拳を突いて平伏した。
どうやら俺は幼くともそれなりに敬意を払う対象として認められたらしい。
「姉上、中間とはなんですか?」
その後、一服を済ませ姉上に促されるまま畑へと出た。
どうやら彼らには彼らのやることが有るようで、畑仕事の手伝いを申し出る様子は無い。
「んー、武士ではないけれど武家に仕える者。でも下男じゃないしうちの藩の出身でもない江戸で雇われた町人……かしらね? 上手く説明できないわ」
俺の疑問の言葉に、姉上は既に昨日以前に掘り返し作ってあったらしい畑の畝に手早く穴を、素手で開けながらそう答えた。
その後ろから付いて行き、苗を一つずつ丁寧に植えていく。
どうやら中間と言うのは、家臣の武士ではない大名に仕える者、と言った所のようだ。
ただ、佇まいも風格も堅気衆のものではないのが気になる。
仮にも武家に仕えるのだから、ある程度武芸武勇を身に着けているのは理解できるが、その身にまとう雰囲気というか、気配というか言葉に出来ない何かが、あの者達が碌でもない何かだと俺の直感に告げていた。
ただ、姉上もその内容を詳しく説明できなかった所を見ると、中々に複雑な立場の者達のようだ。
もしかしたら、中間達が時代が下りヤクザと成って行くのかもしれない。
「そんなに気になるなら、帰ってからお父様に聞いてみたらいいわ。わたくしは難しい事はわかりませんもの」
思案顔の俺を見かねてか、ざくり、ざくりと素手に有るまじき音を立てながらそう口にした。
試しに俺も穴を掘ってみたが、畝の土は確かにしっかりと耕されある程度空気を含み柔らかくなっているが、それでも素手で簡単に深く掘ることは出来ない。
姉上の手はステンレス製なのだろうか……。気を抜けば苗を置き土をかけるだけの俺が置いて行かれそうになる。
「そうですね。そうしてみます」
考え事をしながらではついて行けない、そう判断し取り敢えず姉上の提案に乗ることにした。
それから俺達は益体もない会話をしながら、日暮れ近くまで延々と苗を植え続けるのだった。




