千百七十八『無題』
火元国の台所とまで謳われる我が川中嶋藩立嶋家は、武勇と言う面に置いてはぎりぎり武士を名乗っても恥ずかしく無いと言う程度の底辺に居ると言って間違い無い血筋である。
大名家の嫡男として何時までもその様な評判のままで居る訳には行かぬと、錬武館に足繁く通っては教官に扱いて貰った物だが……あの館長までもが口を揃えて、
『御主には武芸の才は無い、大人しく川中嶋らしい藩主を目指せ』
等と言う言葉を貰った時には目の前が真っ暗に成った物だ。
其れでも嫡男である以上は鬼切りでドジを踏むなり何なりの事故さえ無ければ、何時かは父上の跡目を継いで川中嶋藩を差配する立場に成るのは間違いない。
故に館長等に言われた通り川中嶋藩の藩主らしさを身に着ける為に、商家を通して火元国中から集めている瓦版に目を通し、何時何処でどの様な鬼や妖怪が出たとか、何処の藩で家中の争いが有ったと、情報集めに余念は無い様にして居る。
本当ならば何処かの忍衆を丸抱えしてもっと多くの情報を握る事が出来れば、あの悪名高き悪五郎の様に数十手先を読んで商いを転がし、巨万の富を立嶋家に集める事も夢では無いのだろうが……其処まですると家よりも貧しい中小諸藩から要らぬ妬みを買うだろう。
元々川中嶋の地に生きた商人が、未だ何者でも無かった家安公に出資し、一人娘を妾に出し産まれた子が家を立てたと言う立嶋家の成り立ちを考えれば『何事もそこそこが一番良い自分だけが儲けるのは破滅への第一歩』と言う言葉を太祖公が残したのも理解出来る。
川中嶋藩から届く幾つかの瓦版を読み解くだけでも、商いと言う生き馬の目を抜く様な戦いの中で、他所様からの評判がどれ程大切な武器なのか……と言う事をまざまざと感じさせる逸話がゴロゴロ転がって居るのだ。
「お!? レッドブロックスとニャンキーズの試合でホームランが出たんかいな! いやー、やっぱワテも一遍位は本場のスタジアムでデッドボールを生観戦したいもんやなー!」
無数に届く瓦版は何も火元国の物だけを集めて居る訳では無い、京の都に有る『奇天烈百貨店』を主催する彩重屋は外つ国にも販路と情報網を持って居る為に、其処へと注文すれば世界中の瓦版や其れに類する物を手に入れる事も不可能では無い。
興奮した様子で叫び声を上げた父上が手にして居るのは、西方大陸東部で起こった様々な事を報道する『デイリーニュース』と言う物で、紙ぺら一枚切りの瓦版とは違いもっと薄くて頑丈な紙を何枚も重ねて、その一枚一枚に緻密な印刷を施した物だ。
父上はいま手にして居る其れと、運動競技全般と艶話を中心とした内容が記載されて居る『エヴリースポーツ』の二紙を特に愛読して居るが、其れはその二紙が南方大陸由来の運動競技であるデッドボールと言う物について良く情報を載せて居るからである。
以前、外つ国との商いに関する折衝で父上は火元国を離れ、世界の中心である世界樹諸島へと赴いた事が有るのだが、その際に世界樹の権能でデッドボールの試合を鏡に映した『中継』と言う物を観た事が有るのだそうだ。
その競技の迫力と華やかな盛り上がり、更には血湧き肉躍る残虐行為に魅せられて、それ以来父上は熱狂的なデッドボールの『ふあん』とやらに成ってしまったのである。
当然そうなると火元国でもデッドボールを普及させ様と試みるのが父上で、実際に競技に精通した人物を招聘し川中嶋藩の家臣を集めて一度だけ試合をさせて見た事が有るのだ。
……しかし結果は散々な物だった、いや、競技に参加した家臣達や観客として居城である紅紫苑丘城へと招待した領民達の受けは決して悪くは無かった。
にも拘らず、試合の翌日に成って招聘した教官が唐突に
『戦鎚を捨て軍配を取り行司と成れ……と神のお告げが有った』
と言って川中嶋を出て行ってしまったのだ、そして今では江戸で実際に行司として大相撲に携わッているのだから、恐らく神のお告げと言うのは武神誉田様からの物だったのだろう。
俺の想像が正しければあのまま行けば多分デッドボールと言う競技は火元国で大いに流行る事に成ったのだろう、その結果として力士の成り手が減る未来が有ったからこそ、誉田様は彼に競技を捨てて行司に成る道を示したのでは無かろうか?
ちなみに……基本的に江戸州から出る事が許されていない俺は、国許で行われたその試合を目にして居ないので父上の様にふあんに成る事は無かったが、観戦した川中嶋の豪商の一部には試合観戦の為に西方大陸や南方大陸へと旅する者も出たと言う。
川中嶋藩は江戸程では無いが、他の地方に比べれば様々な娯楽の有る大都市と言って間違いない場所だ。
更に言えば一寸足を伸ばすだけで、江戸には無い雅の文化が息付く京の都へと出る事も出来る。
つまり川中嶋の豪商と言う者達は火元国でも上から数えた方が早いだろう目の肥えた者達だと言う事だ。
そんな者達が長期間火元国を離れる為に、跡目を譲って隠居し自由な身分と成ってから、大枚を叩いて観に行く程にデッドボールと言う競技は魅力的な物だと言う事なのだろう。
神々の持つ権能は信徒から捧げられる信仰心と、信者達が為した事で得られる奉納点に比例すると言うが、デッドボールは外つ国の神に捧げる神事でも有ると言う話だし、其れが火元国で流行すれば火元国の神々から心が離れる可能性を危惧するのも理解は出来る。
特に我が川中嶋藩は力士の育成を奨励し多くの関取を『本物の大相撲』に送り出している相撲の大家と言って間違いない。
そんな我が藩が相撲よりもデッドボールに注力する様に成れば、誉田様だけで無く他の神々に対する信仰も外つ国の神々に奪われる可能性を考えるのは当然の事だろう。
火元国の神々からすれば父上は外患を誘致しようとした戦犯として処断しても不思議では無い筈だが、其れをせず彼の者を自身の信徒へと転教させたのは、飽く迄も火元国の神々は世界樹の神々の傘下に居ると言う体裁を守る為だと思われる。
父上を処断したならば外つ国の神々の信仰を否定し、ひいては世界樹の神々に対して反逆を企てた……と言う様な話にすら成ったかも知れない。
けれどもデッドボールと言う祭事に関わって居たにも拘らず、特定の神に対して明確な信仰心を抱いて居た訳では無いと言う彼に、武神誉田様が啓示を与え己の信徒とする分には、引き抜き云々と言う事には成らなかったのだろう。
「ぬお!? この写真に写っとるん……坊やんけ! いや西方大陸に留学してるんは知っとるけど、試合が有ったんは東部やろ? なんだってそないな所まで遠征しとんのや?」
父上が坊と呼ぶ様な親しい間柄の子供で西方大陸へと留学して居る者と言えば、妹が嫁ぐ予定の猪山藩の四男坊しか該当しない。
無作法だと知りつつ父上の手元を覗き込めば、白黒の不鮮明な写真が印刷された其処に、ホームランを打ったと言う打者が大写しに成った、その向こうに小さく写り込む義弟と思しき姿が確かに有った。
「確かあの子が留学して居るワイズマンシティとか言う街は西海岸側の筈だったな。となると彼はスペルボールとか言う西側の競技も観て来るのかも知れないな」
誰に聞かせる積りも無くポツリと呟いただけの積りのその言葉だったが、
「あー! いーなー! ずっこいわ! ワテもさっさと隠居して藩主の座をお前に譲るさかいに、試合観戦しながら遊んで暮らせる位の捨扶持くれへん?」
父上の耳には入ってしまった様で、丸で年端も行かない小僧の様な様子で駄々を捏ね始める。
「俺も未だ嫁を取ったばかりで孫も産まれて無いんですし、今暫くは父上に藩主の役目を担って頂かないと困る。女房が産気付いた時に国許に居る様だと後々の夫婦仲に問題が出ると仰ったのは父上だろう」
その忠告は父上自身の経験から来る物だ、父上は祖父が比較的若い内に隠居を勧め、嫁を取って然程も経たない内に藩主の座を得た。
其の為、一年毎に国許と江戸を行き来する参勤で、母上が出産する際立ち会った事は一度も無いと言う。
其れだけならば大名家では比較的良くある事なので、必ずしも其れだけが原因とは言い切れないが、父上と母上の仲は余り宜しいとは言い難い。
「ほなしゃぁ無いなぁ、お前までワテと同じ様に女房ほかって国許の妾に入れ込む様に成ってもあかんし、初孫の初祝が終わるまではワテが藩主したるさかいに、早う嫁さん孕ませやー」
市井の助平爺の様な下卑た笑みを浮かべながらそう言う父上の手には、西方大陸の者であろう出る所は出て引っ込んでいる所は引っ込んでいる美しい外つ国の女児が、肌も露わな姿で科を作った写真が印刷された頁が開かれて居たのだった。




