千百六十九 志七郎、猪口齢糖を手に入れ政治と財産を考える事
あの白過ぎる船に嫌な予感を感じながら其の後の休日を過ごしたのだが、取り立てて不穏な事件等は何も無く、無事に人食い加加阿の猪口齢糖を受け取る事が出来た。
西方大陸では一、二を争う程の腕を持つと言う猪口齢糖職人のトード氏が腕を振るった猪口齢糖は二十八枚が出来上がり、其の内の八枚を俺達が持ち帰り、四枚を手間賃として彼に渡すと言う契約だ。
で、残りの十六枚はマリウス氏が一枚当たり三万金貨で買い取ってくれると言う事前の約束だったのだが、何処から話が出回った物か既に六枚に関して十万金貨で買うと言う申し出が入って居ると言う。
「態々そんな事を俺達に言わなくても、当初の約束通り四十八万金貨払って終わらせれば良いだけの話じゃぁ無いですか?」
言っては悪いが商人と言うのは本の少しでも多くの儲けを出す為に、他人を騙すのが仕事の様な者達だと思っていた。
中には『売り手』も『買い手』にも更には『世間様』にも得の有る商売をして徳を積む『三方良し』と言う考え方の商人も居るには居るが、世界的に見れば極々少数派だろう。
「私は確かに見世を開いて商いをしちゃ居ますが、本質は商人では無く料理人ですからね。一時の儲けの為に御客様の満足感を減らす様な真似をするんじゃぁ下の下ですわ。儲けが欲しけりゃ多くの御客様に最高の持て成しをした対価で無くてはね」
と、彼は本業である料理の対価ならば大枚を取るのも当然の事と考えて居る様だが、今回の商売は飽く迄も余録で有り其れで儲けを得るのは堕落への道でしか無い……と断言する。
「ちなみに十万金貨ってのは即決しちまって良い金額なのか? 競りに出せばもっと上の値が付く事も有るんだろ?」
儲かる分には細かい事はどうでも良いと言う感じで、半ば興味本位な口振りのテツ氏がそう問いかけると、
「競り掛ける相手が居なければ其処までの値が付くとは限らないのも競りですからね、特に今回の様にある程度纏まった量を出すと成れば、一枚に付く値段はそこそこで落ち着く事に成るでしょう。其れを考えれば四十二万金貨で名を売れるのは有り難い事ですよ」
マリウス氏は当初の約束で貰うと言って居た一枚三万金貨だけを受け取り、残りの差額は全て此方に支払うと言い出した。
「其れに此処だけの話ですが……少々込み入った筋からの申し出でそう簡単に断れる相手じゃぁ無いんですよね」
その上で声を潜めて辺りを伺う様な素振りを見せながらそんな言葉を続けて口にする。
曰く二枚一組の買い取り希望が三組有り、そのどれもが何処かとは言えないが皆一国の主と言える立場の方々なのだと言う。
……うん、そりゃ断れないわ。
金額が全くお話に成らないとかなら未だしも、競りに出して行くかどうかも解らん額面を提示されたんじゃぁ断る筋目が無い。
逆に相手方も競りに出されるのを待って、買うと言う選択肢も有った筈なのに、其れをせず此方が即決しても損とは思わないだろう額を提示して来て居る辺り、寧ろ可也売り手に対して気を使って居ると言っても良い位だ。
此処は西方大陸の他の都市国家と直接的な交流は殆ど無いと聞いて居るし、恐らく買い手は南方大陸帝国に属する王国と言う事に成るんだろうが、安く買い叩いたと知れれば国の面子にも関わらるし、まぁ妥当と言えば妥当なのかも知れない。
只、上記した通りその利益を丸っと此方に投げて寄越す意図が解らない。
いや彼の言葉通りだとすれば、勇者とまで呼ばれるターさんに気を使ったとか、損して得取れの精神で今後も続く本業の為に見栄を張ったとか理由自体は色々と考えられる。
其れでも四十二万金貨と言う金額に見合うかと言われたら……この額面を提示されたら人殺し位は簡単にするだろう人種を知っている身からすると疑問が残るのだ。
「ふむ……成る程、既に六枚買い手が付いた物と同等の物を競りに出品すると、事前に情報を出す事で競り自体を活性化させると言う算段か」
俺やテツ氏が今ひとつ納得出来て居ない状況に対して、流石は亀の甲より年の功というべきか、ワン大人が顎を撫でながら理解の言葉を口にする。
その言に依れば、恐らく今回買い取りの手を上げた内の一組はアシャンティ公国を治める公爵家で、その品質に太鼓判を押す事で此の国で行われる競りに南方大陸の王侯貴族を呼び込もうと言う意図が透けて見えるのだそうだ。
此の街は猪口齢糖の材料である加加阿と珈琲の輸出が主な産業では有るが、だからと言ってソレだけを続けて居ては安定は有るかもしれないが、早期の発展には繋がらない。
「故に競りと言う一過性の物を利用してでも一度客を呼び込み、そうした者達が再び来たいと思わせる事が出来る様な施策を打つ事で、観光業も活性化させる狙いが有るのでは無いだろうか?」
流石は民主主義国家であるワイズマンシティに住む……もっと言ってしまえば選挙に依って三人の王の内の一人、仁王を選ぶと言う鳳凰武侠連合王国出身と言うだけ有って、ワン大人には相応の政治的な知見も有る様だ。
と言うかぶっちゃけ、民主主義国家としてより成熟していた筈の向こうの世界の日本で、公務員をやっていた俺がソレに気付けないと言うのは少々問題が有りすぎる。
将来はお連と一緒に一つの藩を簒奪する予定なのだから、俺ももう少し政治に付いて本気出して考えなければ不味いのだろうな。
火元国に置いて武士は支配階級で有り、政を担う立場の者なのは間違いない事実だ。
そして俺は藩主の子で有り、お連と共に将来は一つの藩を運営する事を上様や御祖父様から期待されて居る立場である。
何時までも『お上が決めた事に従って置け』と言う性根の儘では駄目なんだろうな。
「えーと、そう言う事だと取り分の計算をやり直さないと駄目ですねぇ。んーと、先ず売れたと言う六枚の分が四十二万金貨で残りが三十万金貨だから銭で入るのが七十二万金貨で……うーん紙に書かないと一寸面倒ですねぇ此れは」
俺がそんな事を考えて居ると、お連が其々の取り分に付いて事前に決めて居た額面が一旦御破算に成った為、軽く再計算をしようと頭の中で算盤を弾いて計算しようとして居た様だが、暗算では一寸結果が出せなかったらしい。
ちなみに留学に関する費用なんかは幕府と猪山藩の財政から出るが、冒険者組合を通して仕事をしたり、今回の旅の途中で手に入った収入なんかに関して、俺とお連の財布は別である。
前世の感覚だと夫婦の財布は一つにするのが当たり前、と言うのは実は明治維新後に広まった価値観で、江戸時代と呼ばれる頃には何方かと言えば夫婦の財産は其々別に管理されるのが当然だったと何かで読んだ覚えが有った。
禄に財産を持つ事も出来ない庶民は兎も角、其れ相応の財産を持つ商家や武家の娘なんかが嫁に行く際、実家から持たされた嫁入り道具や持参金の類は、飽く迄も嫁本人の財産で有り、夫だからと言って其れ等を勝手にどうこうする事は許されない。
万が一にも嫁入り道具を勝手に質草にでもして、其れが実家に知られる様な事にでも成れば離縁で済めば御の字で、下手をしなくても出入り沙汰に成る事すら有り得ると言うのだ。
とは言え結婚前の財産は其々別会計で、夫婦だからと言って勝手に手を付けては成らない……と言うのは実は向こうの世界の日本でも同じだったりする。
夫婦に成ってからの稼ぎは互いに協力して作り上げた物だから、離婚する際には財産分与の対象と成るが、婚姻が成立する前に築いた財産に関してはその範疇に入ら無いのだ。
其の辺の事を割と理解してない人が多かったからこそ『女なのに慰謝料払うんですか?』等と言う国際電子通信網の伝説が産まれたりしたのだろう。
「取り敢えず金を受け取ったら、此の街にも冒険者組合が有る筈だしそっちで話し合おうぜ? 何時までも此処に居ると営業準備の邪魔に成りそうだし、此方としてもサクッと組合員証に入金したいしな」
テツ氏のその提案に異論を唱える者は居らず、俺達は皆揃ってルドヴィーコの餐庁を後にするのだった。




