千百六十六 志七郎、栄養学の基礎を語り暇を潰す事
結局人食い加加阿の実から豆を取り出して猪口齢糖を仕上げるまでの作業は、ぶっ通しでやっても軽く一日仕事で、餐庁本来の業務に取られる時間も有ると言う事で、明後日の午前中に取りに行くと言う事に成った。
その間、もう少し格の高い宿屋に移ってのんべんだらりと休むと言う選択肢も有ったのだが、昨夜泊まった寝台と朝食は日替わりで出している?麭も多いらしく、色々と味わう為に部屋を其の儘確保して貰う事にしたのだ。
で、あの狭い寝室でゴロゴロすると言う選択肢が無く成ったが、かと言って此処まで色々な食材を手に入れる為に散々冒険をして来たにも拘らず、冒険者組合で仕事を取って来ると言うのも忙しないと、全員の意見が一致したので此の街を観光する事にした。
「のは良いけれど、アシャンティ公国の名物とか観光名所とかそう言うのも案内出来るのか?」
此のアシャンティ公国に来た事が有る唯一の人物であるターさんに俺はそう問いかける。
「んー此の国の名物と言えばやっぱり加加阿と猪口齢糖だけれども……人食い加加阿の猪口齢糖を用意して居る間に食べるのは一寸止めて置いた方が良いかな?」
曰く此のアシャンティ公国自体が南方大陸に加加阿と珈琲を供給する為に建国された国だそうで、一級品と呼べる様な品物の殆どは南方大陸へと出荷されてしまうが、其れでも此処でしか食べられない新鮮な物と言うのは有るのだそうだ。
「いや人食い加加阿の猪口齢糖は受け取っても直ぐに食べるって訳でも無ぇし、此の街でしか食えない猪口齢糖を楽しむってのは有りなんじゃね? 其れにお嬢ちゃんは人食い加加阿の猪口齢糖を食う予定は無い訳だしな」
ターさんの言葉に対して猪口齢糖巡りでも良いんじゃね? と意見を口にしたのはテツ氏だ。
彼は自分に分配される人食い加加阿の猪口齢糖をその場で食べる事はせず、ワイズマンシティに戻ってから兄貴分に渡した残りを新妻と一緒に口にする予定だと言う。
「うむ、昨夜の完全献立の最後に口にした珈琲と猪口齢糖は実に美味かった。トード殿が此の街一番の猪口齢糖職人だと言うならば、アレ以上は無理でも同等程度の品は期待して良いのだろう?」
元々人食い加加阿の猪口齢糖を食べる予定が無かったワン大人もテツ氏に同意を表明する。
「薬湯を飲んだ時の様に劇的な効果が有った場合の事を考慮すれば、俺も直ぐに食べるんじゃぁ無くてワイズマンシティに戻ってから食う事にしたほうが良いな。だから此の街でしか食べれない様な美味い猪口齢糖をお連に食べさせてやって欲しい」
朝食で甘い菓子?麭を好んで食べて居た事、歳の頃や女の子だと言うなんかを合わせて考えれば、彼女に美味い猪口齢糖を食べさせて上げる事には十分な意義が有るだろう。
「……御前様よろしいのですか? 余り甘い物を食べると良くないと朝餉の時には仰って居たのに」
甘い?麭ばかりを取って居た事を注意したからか、お連が少しだけ眉を寄せて困った様な顔でそんな事を問いかけて来た。
「食べ物は大きく別けて『肉や魚』『野菜や果実』『米や麦に芋』の三つの区分の物をある程度均等に食べるのが良いんだ。肉や魚は身体を作る物、野菜や果実は身体の調子を整える物、米や麦に芋なんかは身体を動かす燃料に成る物って感じでな」
もっと言うのであれば糖質や脂質に蛋白質、其れから維他命に無機質を総称した五大栄養素なんてものに言及するべきなのだろうが、残念ながら俺にはコレ以上の栄養学とかの知識は無い。
「成る程……米や麦は兎も角、芋も燃料の区分と言うのは初めて聞いたな。其れは火元国では一般的に知られた知識なのか?」
と、食いついたのは医者の顔をしたワン大人だった。
前世の日本では漢方医学の考え方として『医食同源』と言う言葉が割と知られて居たが、多くの四文字熟語が古代中国や仏教に語源が有るのに対して、意外にも戦後の日本で作られた造語だったりする。
此の言葉が唱えられる様に成ったのは、食の欧米化が進む中で日本古来の食文化を漢方医学的な知見から見直そうと言う流れの中で出て来た物だと言う。
とは言え此れも全くの創作と言う訳では無く、酸味を木行、苦味を火行、甘味を土行、辛味を金行、塩味を水行に対応させた五行思想が根底に有ると言う話だった筈だ。
栄養には詳しくない筈の俺がこの辺の事を知っているのは、日本古来の陰陽師が使う陰陽道の更に原型である大陸の呪術の一つ『鬼道』と呼ばれる物を使う術者が主人公だった小説の中で五行に関してかなり色々と書かれて居た事を覚えて居るからである。
「余り一般的な知識と言う訳では無い筈ですね、ただ火元国でも肉や米ばかり食えば身体を壊すから野菜もしっかり食えとは言われますが」
……と、こうして考えると戦前の日本って、何である程度健康を保って居られたのだろう? 圧倒的に蛋白質が足りて無い筈だよな?
まぁだからこそ脚気……所謂江戸患いが流行ったりしたんだろうが……いや、脚気は維他命不足で起こる物で蛋白質は関係無い筈だしなぁ?
「確かにちゃんこを作る時にはお肉や魚だけじゃ無くて野菜もたっぷり入れる様に言われたのです。ちゃんこでお肉と野菜をしっかり食べて身体を作って、御飯は身体を動かす燃料なんですね!」
掌に拳を打ち付ける納得の仕草を取ったお連が、お豊さんかお栗さんから習ったであろう『ちゃんこの心得』を口にする。
曰く猪山藩のちゃんこは『魚の干物』で出汁を取り、出汁ガラの魚も其の儘具材として食べるが、主と成るのは手羽先(と言う妖怪)肉とたっぷりの葉物……多くの場合は玉菜や白菜を入れた物なのだそうだ。
其れを汁まで残さずしっかりと食べるのが、鈴木道場門下でも猪牙道場門下でも共通する食事の在り方だと言う。
ちなみにちゃんこに基本手羽先肉を使い、豚足(と言う妖怪)肉や鹿鬼や馬鬼なんかを使わないのは、地面に手(前足)を付けたら負けと言う相撲の取り決め由来の験担ぎだそうだ。
「……その区分で言うと猪口齢糖は何処に入るのだ?」
ああ、そうか……甘い物≒炭水化物と言うのは向こうの世界では常識だが、此方の世界じゃぁ未だまだ知られて居ない事なのか。
「甘い物は基本的に燃料の区分だな、人の身体は余った燃料を脂肪として蓄える性質が有るから、甘い物や米に油物なんかを食べ過ぎると太るんだ」
前世の世界だと海外の一部地域では、太っている=裕福である=美しいと言う価値観の文化も有ったが、基本的に何処に住んで居ても魔物との戦いが日常の近い所に有るこの世界だと『動けないデブ』は忌避される。
逆に力士の様な『良く鍛えられた戦えるデブ』の男は、国や大陸を問わずにモテる……要するに男は美醜よりも強さが第一だと言う事だ。
まぁこの辺は向こうの世界でも見た目はアレでも稼いで居る奴はモテる……と言うと金目当ての様で不純な気がするが、甲斐性無しよりは有った方が良いのはしか無い事だろう。
とは言え女性の場合もふくよかな方が美しいとする文化圏も有ったりするし、其の辺は色々と言う事だな。
ぶっちゃけウポポ族内部でモテる女性は他所の男からすれば、筋肉質過ぎて無理って話に成るもんなぁ。
「じゃぁ取り敢えず、人気の猪口齢糖専門店で幾つか直ぐ食べる物を買って、其れから湊を観光するのが良いと思うのだ。此処の湊は南方大陸の大型船舶が沢山入って来て居て見応えが有るのだ」
そんな言葉から始まったターさん曰く、南方大陸の船は北方大陸の質実剛健な其れや世界樹諸島の古式ゆかしい其れ共違う、無駄とも言える優美さが有り見る分には楽しい代物なのだそうだ。
と言う訳で俺達はその日一日を甘くほろ苦い猪口齢糖菓子を食べながら、無数の船が停泊して居る湊を観光して回るのだった。




