千百六十四 志七郎、麵麭を積み上げ栄養学を考える事
焼き立ての麵麭が放つ香ばしい薫りに誘われて普段よりも早く目を覚ました俺達は、連れ立って食堂へと降りる事に成った。
普段ならば朝食の前に朝稽古で身体を動かしてから食事を取るのが日常なのだが、今日は余りにも美味そう過ぎる匂いに胃袋が既に活動を始めている様で、身体を動かす前から既に腹の虫が大合唱を始めている。
そうして着いた食堂は、寝台と朝食と言う前世の日本で言う所の民宿に近い営業形態の宿としては可也の広さで、幾つもの食卓は既に多くの客で埋まっていた。
「席は部屋毎に割り当てられているから、安心してゆっくりと食べたい麵麭を選ぶと良いのだ。此処では他所では食べられない様な色んな工夫がされた麵麭が色々と食べ放題だから、大食漢が多い冒険者には人気の宿なのだ」
そう言うターさんが指し示す先には、仏蘭西麵麭と言われて想像するあの長い麵麭や普通の食?麭の様な物だけで無く、前世の日本の麵麭屋さんで見る様な惣菜麵麭の類や、菓子麵麭と思しき物まで多種多様な麵麭が所狭しと並んだ棚が設置されて居る。
此れ絶対向こうの世界か其れに近い世界からの来訪者……恐らくは日本人……が関わっているだろ。
内心そんな事を思いながら、入口近くに用意された御盆と火挟みを手に取って、取り敢えず味の想像が付きそうな物から取って行く。
それにしても腸詰めを使った麵麭だけでも五種類とか有るぞ?
其々の麵麭の置かれた台の下には商品名が書かれているが、ウインナーロールにあらびきフランク、タルタルチョリソーとウインナーチーズドッグ、ペッパーフランクフルト入り塩フォカッチャ……うん、名前を見ただけでも美味そうだ。
甘い菓子麵麭系は食後の甘味にするとして、取り敢えずは蛋白質を優先して摂取して置こう。
お? テリヤキウインナートルティーヤだと!? 綺麗に巻かれた薄焼き麵麭で完全に腸詰めが包まれていたから、此れが腸詰めを使った麵麭だと認識出来て居なかった。
ベーコンポテト麵麭にハッシュドポテト&オニオン麵麭も惣菜系としては食べて置かないと駄目な奴だよな!
チーズ&チーズってのは見た感じ表面にパリッと焼いたチーズが乗ってるだけで無く、恐らくは中にも溶けたチーズが入っている熱い内に食べるのが良い奴だ、良し此れも貰って行こう。
他に気になるのは……ロースハムとチーズのクロックムッシュって奴だな、その隣に置いて有るクロックマダムってのは、向こうの世界で空の城を目指す漫画映画で食べて居た奴じゃないか?
「坊や達、幾ら取り放題の食べ放題って言っても、悪いけれども食べ切れる分だけを取る様にして頂戴よ。食べ残しが多い様だと罰金を貰うからね?」
俺とお連がズンドコ惣菜麵麭を御盆の上に積み上げて居ると、麵麭の補充に来た恰幅の良い御婦人……恐らくは此の宿の女将さんだろう……がそんな言葉を投げかけて来た。
「ご心配無く、こう見えてこの子達は私の数倍は食うのだ」
ベーコンエピとクロワッサンに胡桃麵麭が好きなのか、其ればかりを御盆に乗せたターさんが助け舟を出してくれると、
「あら、勇者ター、貴方のお連れさんだったのね、なら問題無いわ。南方大陸は冒険者組合の影響力が他所よりも弱い事も有ってか、向こうから来る冒険者はどうも御行儀の悪い子が多いもんで……つい、ね?」
曰く『大丈夫。冒険者組合の冒険者だよ』と言う宣伝文句は、西方大陸や北方大陸では当たり前に通用するが、組合の影響力が弱い南方大陸や東方大陸では必ずしもそうでは無いらしい。
と言うのも、西方大陸や北方大陸では組合所属の冒険者として活動する為には、割と厳しい入会審査が行われる上に、組合を通して受けた依頼の成否や依頼人に対する態度等で組合員としての立場を失う事も有ると言う。
その代わりに組合も依頼を斡旋するに当たっては、其れが法に触れる様な物では無いかとか、貴族同士の怨恨に巻き込まれる様な事が無いか等の裏取り調査がしっかりと行われる為に、冒険者も安心して組合からの依頼に取り組む事が出来るのだ。
対して南方や東方の大陸では、組合の組織力が今一つ浸透して居ない為に、そうした裏取り調査なんかが万全では無く、その分冒険者側に対する対応も甘い物にならざるを得ないのだと言う。
また南方大陸の貴族男性は最低でも『騎士』の爵位を持つ者で有り、其れ以上の爵位を持つ者達も魔物の被害が出ない様に軍を率いて戦う者であるが故に、平民達から税を取り立てる権利が有る……と言う火元国の武士と似たような統治がされて居るらしい。
其の為、南方大陸で冒険者に成ると言うのは、土地に根付く事をしない流浪の徒に成ると言うのと殆ど同義で有り、荒事で稼ぎたけりゃ兵士か傭兵に成る方が未だ人聞きが良いと言う扱いなのだそうだ。
「まぁ其れでも私が未だ冒険者やってた頃に比べたら、大分御行儀良く成ったとは思うけれどもねぇ。あの頃の南方大陸の冒険者と言えば、女を見たら取り敢えずちょっかい出すし、宿代も力尽くで踏み倒そうとする馬鹿は一定数は居たものねぇ」
からからと笑いながら物騒な事を言う女将さんだったが、どうやら彼女も此処に落ち着く前は南方大陸で冒険者をして居たそうで、現役だった頃に見たと言う悪徳冒険者の蛮行をさらりと口にする。
冒険者組合が今の『大丈夫!』と言われる体制を整えてから大凡百年の月日が経ったと言うが、其れは飽く迄も本部が有る西方大陸東部地域での事で、冒険者よりも領主が組織した軍が強い南方、東方大陸では未だまだ組合の統制も其処まででは無いと言う事らしい。
その所為も有って、南方大陸から此の街に来る冒険者の中には、色々と御行儀の良く無い者が時折居るのだそうだ。
と、軽い立ち話をしながら麵麭を選び御盆に取って行くが、ふと隣で同じ様に麵麭を積み上げているお連の御盆が気になった。
「お連……幾ら君が甘い物が好きだと言っても其ればかりでは駄目だぞ。肉や魚の様な蛋白質は身体を作る為に必要だし、身体を健康に保つ為には野菜類が必須だ、甘い物は区分としては米と同じだから其れだけを食べていては太るだけで成長に良くないぞ」
案の定……と言っては失礼に成るかも知れないが、彼女の御盆の上には林檎のカスタードパイや蜂蜜牛酪麵麭にオレンジクロワッサンと言った甘い菓子麵麭ばかりが積み上げられていたのだ。
「あうう……申し訳有りませんお前様……確かに好き嫌い無く何でも満遍無くちゃんこを食べないと強く美しくは成れないと言われて居ました」
ちゃんこと言う言葉から察するに、その言葉を彼女に言ったのは熊爪家の奥方さんで有るお豊さん辺りだろうか?
お豊さんは火元国でも割と名の知れた相撲部屋の娘で、女力士として活躍する事こそ無かったが彼女自身も相当の力量を誇る人物である。
いや……お豊さんからお連が直接稽古を受ける機会は無かった筈だから、もしかしたら彼女の二人の娘であるお晴ちゃんかお雨ちゃんに言われた可能性も有るな。
「成る程な……ワイズマンシティで子供の内に身体を壊して大人に成れない奴が出るのは野菜が足り無えって事か。缶詰肉は割と安く手に入るから普通は其ればっか食ってるもんなぁ」
俺の言葉に察する物が有ったのか、テツ氏が苦い顔でそんな言葉を口にする。
ちなみに彼の御盆の上には俺と同様に蛋白質が多めの麵麭ばかりが乗っているのは、肉が食べたい若い男と言うよりは、缶詰肉を中心に食べて育ったが故に食べ物の好みがそっちに偏って居るのだろう。
「野菜が欲しいならそっちの棚に生野菜や温野菜も有るからね、他にもほら此方のサンドイッチは燻製肉と乳草に赤茄子とバランス良く入ってるよ」
BLTサンドか……確かに均衡の取れた良い献立だし、前世の世界でも定番中の定番と言える組み合わせの一つだったな。
俺は女将さんのお勧めに従い、自分の御盆にBLTサンドと生野菜の盛り合わせを加えて、食卓へと向かう事にしたのだった。




