千百六十 志七郎、乾酪と共に歓談する事
生野菜を食べ終えた後は今までとは違い、次の皿が供されるまで少しの時間が空いた。
此れは其々の前に有る皿だけで無く、酒杯にも目をやると理由が良く解る。
俺の記憶が確かならば仏蘭西料理の完全献立では、料理毎に其々に合わせた葡萄酒が供されて居り、その中でも次に配膳される乾酪は献立の中でも最高の葡萄酒を提供する事に成っていた筈だ。
俺とお連の子供組には流石に未だ葡萄酒は早い為に、雰囲気だけでも味わえる様にと言う事か葡萄果汁が供されて居るが、大人達にはしっかりと葡萄酒が出されて居り、生野菜に合わせた其れをワン大人が未だ呑み終えて居なかったのである。
どうやら東方大陸には生の野菜を其の儘食べると言う文化は無いらしく、最初は戸惑った様子で生野菜を肉叉で突付いて居たのだが、意を決して口にした所で汁との相性の良さに驚かされ、一気に全てを平らげてしまったのだ。
其の為、葡萄酒だけが残ってしまったのである。
此の見世に慣れているらしいターさんは兎も角、テツ氏が同じ様に成らなかったのは正直以外と言えば以外だったが、肉刀と肉叉の扱いに戸惑いが無い所を見るに、恐らく別の場所で此処まで高級では無いにせよ完全献立の類を口にした事が有るのだろう。
「慌てて呑まなくても大丈夫なのだ、此の発泡葡萄酒は、口当たりは甘いけれども度数は結構な物だから、一気に呷たりしたら変な酔い方をしちゃうのだ」
手慣れた様子でそう手助けの言葉を投げ掛けるターさん、恐らくは以前にも他の冒険者を連れて此の見世へと来て、同様の状態に成った者が相応に居るのだと思われる。
「むぅ……実は私としては生野菜もそうだが、甘い酒と言うのも余り得意では無いのだよ。しかし料理と合わせて呑んで居たならば又違ったのだとは思うのだがね」
曰く鳳凰武侠連合王国では、古くから大きく分けて蒸留酒の白酒と醸造酒の黄酒の二種類の酒が作られて居るが、その何方もが白葡萄酒の様な甘い酒では無いのだと言う。
広い東方大陸北部全ての地域をくまなく探せば、甘い酒を作っている地域も有るのかも知れないが、残念ながら彼にはそうした物を呑んだ記憶は無いらしい。
……ケツアルコアトルが吐き出した甘酒の様な『甘い吐息』は美味しく呑んで居たと思ったのだが、恐らくアレは彼の中で酒類の区分では無かったのだろう。
ちびちびと少しずつ酒杯を傾けるワン大人の見せるばつの悪そうな表情は、今回の旅の間に見た年長者の頼りがいの有る姿とは違って、一寸だけ新鮮に見えたが其れを敢えて口に出す事はしない。
少しだけ待ってワン大人が酒杯を空けると殆ど同時に、山盛りの色合いの乾酪と思しき物が山盛りに成った台車を女性給仕さんが押してやって来た。
「お好きな物をお好きなだけ御用命下さい、どれが良いか解らない様でしたら、お好みを仰って頂ければ此方でお選びする事も出来ますよ?」
完全献立の中で乾酪と言うのは割と大きな位置を占めるだそうで、見世が出せる最も良い葡萄酒を呑みながら其れを口にしつつ、楽しい歓談の場を提供するのが南方大陸の文化なのだと言う。
台車に乗った物の中でパッと見て、其れが何なのかを俺が即座に判断出来たのは白い円盤状の乾酪で、前世にも比較的良く食べた『カマンベール』だけだった。
他になんとなく解るのは前世で幼い頃に見た『猫と鼠が仲良く喧嘩する漫画映画』なんかで出てきた無数の穴の空いた乾酪だろう……見た目で其れだと思うだけで、味の方は食べた事が無いので解らないけどな。
つか、前世の俺は乾酪と言えば某製乳会社のモッツァレラばかりで、偶に同じ会社のカマンベールを火酒のつまみに食っていた位で、余り詳しい方では無い。
後は……比萨に乗ってる奴とか位か? 偶に頼んでいた宅配比萨屋で『五種の乾酪の比萨』なんてのを注文した事も有るが、其れが何なのかすら理解していなかったな。
「俺は……俺とこの子は癖の無い物を幾つか見繕ってくれ」
お連の分まで頼むのは一寸僭越だったか? と思わなくも無いが、乾酪が一般的では無い火元国から来た彼女には好みを云々する事も難しいと思ったが故の判断だ。
「畏まりました」
即座にそんな返事を返した女性給仕さんは、橙色の大きな塊の乾酪に肉刀で切り分け、その中から数切れを俺とお連の皿に乗せ、続けざまに白い小さな塊を幾つか食べ易い様に切って盛り付ける。
「私はロックフォールを少しとコンテを多めに盛って欲しいのだ」
経験者であるターさんは迷う事無く自分の好みの乾酪を注文した。
「俺はブリーを……いや、クロミエが有るのか? ならそっちを多めに頼む」
続けてテツ氏も注文するが、聞いた事の無い名前の其れで皿に盛られたのは俺がカマンベールだと思った白い乾酪だった。
「ふむ……乳扇に近い物は有るかね? ああ、西方大陸ではカッテージと言うのだったかな?」
カッテージチーズ……名前は聞いた事が有るが食べた事は無いな。
どうやら其れらしい物も用意されて居た様で、女性給仕さんは淀み無く台車の中から乾酪を取り分けワン大人の前へと配膳する。
「では御ゆっくり御歓談くださいませ」
配膳を終えた彼女は給仕服の裾を掴んで軽く膝を落とす優雅な礼を見せた後、台車を押して他の席へと移動して行った。
「ふむ……完全献立の様な料理は東方大陸にも有るし、私の拠点としているワイズマンシティでも食べる事は出来るが、正直ラウがラウが作るソレよりも美味いと感じるとは思わなかったよ」
乾酪を一口食べてから葡萄酒で口を湿らせたワン大人が開口一番そんな事を言う。
食べ慣れた自国に原典を持つ凄腕の料理人が作る物よりも、美味い物は無いと彼は思っていたのだが、真逆外つ国の其れが自分の舌を唸らせるとは思っても居なかったらしい。
「ヤベェ……チーズもワイズマンシティで手に入る物とは比べ物に成らねぇよ。ワインも選んだチーズに合わせて変えてるのか? って事はあの姉ちゃんソムリエも兼業してるってのか?」
テツ氏は自分の酒杯とワン大人の酒杯を見比べ、その色味が違う事から別の葡萄酒が注がれて居る事に驚きの声を漏らす。
「此処は私が知る限りで最高のレストランなのだ。此の街には他にも幾つもレストランは有るけれど、此処程全てのスタッフがしっかりと教育を受けている見世は他には無いのだ」
青黴色の乾酪を口へと運びながら、丸で自分の事の様に胸を張ってそう言うターさん。
確かに言うだけの物を食べていると思う、今食べている乾酪も俺が要求した通り、癖が無く乾酪初心者にも食べ易い物を選んでくれたらしい。
「乳の味が濃くて美味しいです。でも此れは葡萄酒と合わせるともっと美味しいんですよね? 早く大人に成って試してみたいですねぇ」
猪山藩では乳牛の飼育はしていなかった筈なので、お連が牛乳を飲んだのは江戸の屋敷で風呂に設置してある冷蔵庫に入った瓶牛乳だけの筈だ。
にも拘わらず、乾酪の乳臭さに怯む事無く美味しそうに其れを食べる事が出来て居る辺り、血は他所の藩に原典を持っていても、食に貪欲な猪山藩で育っただけの事は有ると言う事だろう。
……酒に興味を持って居る事だけは褒められないが、未だ自分が子供で有り呑む事が許されないと理解して居るだけ、非行少年達よりはマシと思うべきか。
「さて……チーズを味わうのもワインを味わうのも良いけれど、私が君達を此の見世に招待した一番の理由は、この先……甘味の更に先、珈琲と共に出される猪口齢糖なのだ。此処に私が知る最高の猪口齢糖職人が居るのだ」
そのまま歓談を続け、乾酪と葡萄酒が三分の二程なくなった頃、ターさんが俺達を此の見世へと案内した理由を口にしたのだった。




