千百五十三 志七郎、栄養力を漲らせ無事を願う事
美味ぁ!? え、一寸待って、前世と今生通して考えても、此れより美味い甘酒呑んだ事無いぞ?
向こうの日本なら何処にでも有る便利屋で見かける缶の甘酒も決して不味くは無いが、其れよりも高くて上等な……酒蔵が直接販売して居る様な物だって呑んだ事は有るが、其れ等と比較しても間違い無く此れが一番美味い。
口に含んだ瞬間に微かに香る酒精の風味は全く嫌な感じが無く、後に鼻に抜ける林檎と茘枝の中間を思わせる爽やかな風味は、前世に可也上等な大吟醸を呑んだ時を思い出させる。
舌の上で感じられる甘味も砂糖の様な強烈な甘さでは無く、魚沼産のコシヒカリを上手に炊いた上で、少しの塩だけを使って握った塩むすびを、ゆっくりと咀嚼し呑み込んだ後に舌に残るそんな優しい甘さだった。
「うわ……睦義姉様が作ってくれた甘酒より美味しいです……」
睦姉上が猪山藩江戸屋敷で作る甘酒は、江戸州内に有る幕府御用の酒蔵から米麹を買い入れ其れを使って作る方法で、酒粕を使って作る方法とは違い酒精は含まれていない奴だ。
前世に便利屋で偶に買っていた缶の甘酒は米麹で作った甘酒と、酒粕で作った甘酒を良い感じに混合させた物で極々微量の酒精が含まれていると聞いた覚えがある。
対してケツアルコアトルの甘い吐息は酒粕で作った甘酒同様に僅かな酒精が含まれている様では有るが、恐らく一分未満で向こうの世界の法律でも子供が呑んでも良いとされて居る範疇だろう。
……此れを攻撃用の吐息として吐き出したとして、幾ら傷口から直接酒精を接種させる形に成るとは言え、即座に眠りに落ちるとは一寸考え辛いのだが、其処は竜の吐息と言う物が持つ幻想的な異能なのだろう
「……確かに、此れは美味いな。出す所を見てさえ居なければお代わりを所望したく成る味わいだ」
お米の国である鳳凰武侠連合王国出身のワン大人の口には合った様で、吐き出す際の絵面に問題が有る物の、味としては最高級の一杯だと彼も認めてくれたらしい。
「んー、俺はもっとガッツリ甘味も酒精も効いてる方が良いなぁ。女子供が飲むにゃぁ良いんだろうけどな」
対して濃い味が好まれるワイズマンシティ出身のテツ氏には、此の優しい甘さは物足りない物と感じられた様だ。
「此れは今回の旅で口にして来た他の食材とは違って、劇的な効果が出る様な代物では無い様だな。けれども……うん、腹の中から身体中に力が漲って来るのが解かる」
即座に身体へと変化を齎す様な効果は無いのは間違いないが、身体に足りない何かがかっちりとハマり、乾いた砂が水を吸うように全身へと巡って行くのが感覚的に解かる。
多分、此の甘い吐息の凄さを一番実感して居るのは俺だろう、此処暫くの間に接種した様々な霊薬や食材の効果で、一気に成長期に入った身体が優れた栄養素を求めて居たのだろう。
此れの本来の用途は戦闘の為に吐く吐息では無く、卵から孵ったばかりの幼竜を育てる為の物……つまりは『母乳』の様な物だ、身体の成長を促進する為に必要な栄養素が満載でも何ら不思議は無い。
其れに加えて此れは飽く迄も俺の推測に過ぎないが、恐らく森林竜の幼竜は卵から孵った時点で様々な植物を消化する為に必要な酵素を持って居らず、親竜から甘い吐息を与えられる事で其れを獲得するのではなかろうか?
俺の記憶が確かなら濠太剌利の代表的な動物の一種である子守熊は、主食として居る有毒植物の有加利の葉を消化する為の物質を親の糞から摂取すると言う話だった筈だ。
ちなみに子守熊は一日の大半……二十~二十二時間とマジで起きて居る時間が殆ど無い程に寝るのだが、此れは有毒の有加利に中って居るからと言う訳では無く、繊維質が多すぎて消化が困難な上に栄養価が極めて少ない為に活動に回す体力が無いのが原因らしい。
動かない事に定評の有る樹懶の睡眠時間が十八~二十時間らしいので、子守熊は樹懶よりも怠け者と言えるかもしれないが、他の生き物と食べ物を奪い合わない事で生き易く進化した結果なのだろう。
と、その辺の事を考えれば幾ら栄養価が高いとしてもンコ食うよりは大分マシだと言えるな。
とは言え微生物的な視点で見れば発酵食品だってンコ食ってる様な物と言えなくも無いんだよなぁ。
酒なんて麹菌が糖分を食って排出した酒精を、麹が出した排泄物を呑んで居ると言っても間違いでは無い訳だ。
まぁ腐敗と発酵の違いは人間に取って有益か否かの違いでしか無いと言う話だし、嘔吐物も排泄物も有用なら……うん、やっぱ嫌だわ。
美女が出した物ならば……なんて言う業の深い性的嗜好が有ると言うのは『わいせつ物頒布等の罪』に関わる捜査の過程で、知りたくも無かったが知ってしまったので、そう言う趣味の人間が居る事は知っているが残念ながら俺にそっちの趣味は無い。
……前世の親友の一人なら美幼女の聖水なら『御褒美です!』とか言い出しそうな気もするが、彼奴の言を信じるならば飽く迄もそっちの趣味は二次元だけと言う話なので無い筈である。
「どうだい? 私も幼い頃にケツアルコアトル様から甘い吐息を頂いたからこそ、密林の王者と呼ばれる戦士に成れたのだ。君達にも良い効果が有る筈なのだ」
どうやら俺達、世界樹の神々の信徒? まぁ一応は信徒と言う事に成るのだろう……正直な所、そうした自覚は殆ど無いが……が、様々な功績を上げた際に氏神様に特定の願い事を叶えて貰える様に、彼等も折々で森林竜から恩恵を得る事が出来るらしい。
スー族長がスー族の名を自身の名として名乗る事が許されたのはターさんの祖父であるパーが英雄と呼ばれるに相応しい功績を上げたからで、スー族長の功績はターさんに甘い吐息を飲ませると言う形で報いられたのだそうだ。
なお俺達が甘い吐息を貰えたのはアーマーン討伐の功績に報いる為で有り、当然ながら其れに参戦して居た彼にもその権利は有るが、ターさんはこの先子供が出来た際に妊娠中の奥さんに飲ませる積りなのだと言う。
「いやターさん、其れは駄目だ。此れ極々微量だと思うけれども酒精が含まれてるっぽいから、妊娠中に飲むのはお勧め出来ない。飲ませるならターさんが飲んだ時と同じ様にある程度成長してからにした方が良い」
上記した通り甘い吐息は酒粕から作られた甘酒と同様に、極々微量ながら酒精が含まれている様に俺の舌と鼻では感じられた。
米麹から作った甘酒ならば酒精を含まないので妊婦さんが飲んでも問題は無いが、酒粕から作られた甘酒は微量とは言え酒精を含む為、妊娠中に飲む事は推奨されて居ない。
「ぬ? そうなのか? いや……妊婦に与えた事は何度か有るが……確かに産まれて来た子が大成した事は無いな」
妊娠中の飲酒が子供に与える影響に付いて詳しくは無いが、妊婦の飲酒が良くないと言う事だけは知っていたのでその事を俺が告げた所、なんとケツアルコアトル自身からそんな言葉が返って来た。
霊獣ってのは基本的に寿命の軛から外れた存在で有り、個体に依っては古代精霊文明期から生き続けて居る者さえ居ると言う。
ケツアルコアトルが何時から存在して居るのかは詳しく聞く積りは無いが、人間の尺度から見れば永遠にも近しい時間を生きて来たのだと思われる。
その中でターさんと同じ様に、産まれてくる子供を思ってケツアルコアトルから甘い吐息を貰い、妊娠中の女房に飲ませると言う行為は何度も行われて来た事なのだろう。
ケツアルコアトルが記憶して居る限りでは、甘い吐息を妊婦に与えても必ずしも母子共に無事だったと言う訳では無く、早産や流産に死産なんて事も決して少なくは無かったらしい。
医学の進歩した現代の日本でも妊娠出産に絡む事故は零にする事は出来ず、殆ど経験則だけを頼りにした産婆さんの協力で行われる出産は、前世の世界とは比べ物に成らない程に危険と隣合わせで、甘い吐息の酒精がどれ程の影響が有ったかは解らない。
それでも全く影響が無かったと断言出来ない限り、避けれる危険は避けた方が無難だろう。
「成程なー。ならば私も私がそうだった様に七つの祝いに飲ませる事にするのだ」
身体中に漲る圧倒的な栄養力を感じつつ、俺はターさんに無事子供が出来、その子が健康に育つ事を猪山藩の氏神足る天蓬大明神様に祈るのだった。




