千百四十七 志七郎、教育と環境を考え紅玉の果実に手を伸ばす事
あれ? そーいや、案内されるがままに普通に此処まで来たが、収穫時期とかどうなってるんだ? 妖精の珈琲の実は日持ちしないって話だし、さくらんぼ狩りの様な感じで、採ったらそのまま食うって感じだよな多分。
果たして今の時期に妖精の珈琲の実が木に実って居るのだろうか?
そんな心配をしつつ女王様の先導に従い、鏡の様に無数の花々を映し出す美しい汀を歩いて行く。
その際に気が付いたのだが……未だ花が咲いている木にも、実が付いている物が幾つも有る。
俺の乏しい植物の知識では、花が咲いて受粉しそれから花が落ちて実が育つ……と言うのが普通の筈で、花と実が同じ木に混在すると言うのは有り得ない筈だ。
まぁ此処は超常の異能が当たり前に存在する幻想な世界だし、そう言う生態なんですと言われりゃソレまでだし、そもそも植物が二足歩行し言葉を喋る様に成った魔物なんてのも居るんだから今更と言えば今更か。
「此れは……凄いな。花が咲いているのに果実がたわわに実っている。他の場所では目にする事の出来ぬ光景だ、流石は噂に聞く妖精郷と言った所か」
とは言え此処のそうした状況は此の世界の住人に取っても希少な風景の様で、ワン大人が感嘆の溜息を漏らす。
「本当です! お花が有るのに実が生ってますよ! 花が咲くのも実が生るのも季節の移り変わりだってお母様に習ったんですが……此処は違うんですね!」
言われて気が付いたらしいお連も驚きの声を上げるが、
「へー、そう言う物なのか。草とか木とかワイズマンシティじゃぁ見る機会なんざぁ無いからなぁ……そもそも未開拓地域って年から年中暑いし、季節が変わるなんて事が有るのか?」
生まれ育った土地柄故か、今ひとつピンと来てないらしいテツ氏がそんな言葉を口にした。
ワイズマンシティは海風に依る塩害と温暖過ぎる気候が相まって、領土の殆どが荒野と言っても過言では無い立地だからな。
其処で生まれ育ったテツ氏が植物の生態に付いての基本的な知識すら無いと言うのも不思議では無いのかもしれない。
ただ此れって前世の世界では小学校で習う理科の範囲の話なんだよな。
精霊魔法学会のお膝元であるワイズマンシティの魔法以外に関する教育に付いて全く気にして来なかったが、義務教育なんて制度が無けりゃこんな物なのかね?
ちなみに火元国にも義務教育と言う制度は無いが、幕府直臣の家の子ならば志学館に通うし、陪臣家の子でも各藩が国許で運営する藩校と呼ばれる学校で相応の学問を学ぶのが普通である。
そしてそうした学問所は何も武家だけの物と言う訳では無く、跡目を子に譲った御隠居さんが小遣い稼ぎに町民階級の子供を集めた私塾を開く……なんてのは割と何処でも当たり前に行われている事らしい。
なお神々が実在し其の権能が割と身近に存在する此の世界には『自力で悟りを開いて解脱を目指そうぜ』と言う仏教は産まれる土壌すら無く、其れ故に時代劇では定番とも言える学問所である『寺子屋』と言う名称は影も形も無かったりするが、まぁ些細な事だろう。
ついでに言えば寺小屋ってのは上方……つまりは近畿方面での呼び方で、江戸の場合には筆学所やら手習いなんて呼ばれていたとかどっかで読んだ覚えが有る。
何方にせよ火元国は武士は勿論、都市部に住む町人階級から農村部に住む所謂『百姓』と呼ばれる農家の皆様まで含めて文字の読み書きが出来ない者は殆ど居らず、草双紙なんかの娯楽本が一般庶民にまで流通していたりするのだ。
対して外つ国の場合はどうかと言えば……ぶっちゃけ其の国に依るとしか言い様が無いらしい。
ワイズマンシティは流石に『知の都』とまで謳われるだけあって、識字率は略々十割近い数字を叩き出して居るそうだが、お隣のニューマカロニア公国辺りだと比較的裕福な家庭ならば兎も角、そうでない家の子は読み書き計算すら覚束ないのが普通だと言う。
田舎から出てきた少年が冒険者に成って人生一発逆転! なんてのは、前世に読んだ幻想世界を題材にした小説では割とありふれた展開だったが、冒険者組合で依頼を受けようと思えば読み書きが出来なきゃ話に成らない。
なんせ組合で依頼を受けるには、掲示板に張り出された依頼書を読んで其れを選ぶ必要が有るからな。
とは言え俺が知っているのは識字率の高いワイズマンシティの冒険者組合だけなので、他所の国ではもしかしたら組合職員が代読や代筆なんかの業務を提供して居る可能性も零では無いがね。
「我々は花の蜜のみを糧として生きる生き物だからな、我等の翅から落ちる鱗粉は草木の成長を促し、何時でも花が咲いて居る状態にする効果が有るのだよ。とは言え一匹二匹居ただけでは自分の食い扶持を維持するのが精一杯程度の効果しか無いがね」
俺が教育云々に考えを巡らせている間に、女王様が此の土地が特別な理由を開示した。
「密林にだって季節は有るのだ。まぁ北の土地の様にはっきりとした四季が有る訳では無く、乾季と雨季が割と短い期間に繰り返すだけだけれどもね」
ターさん曰く、未開拓地域は三ヶ月程度毎に二つの季節が交互に入れ替わるのだと言う。
「ああ、確かに前に来た時はずっと雨ばっかりだったっけな。成程なーアレが雨季で今が乾季って訳か」
そして翅妖精の鱗粉はそんな季節すらも丸っと無視して花を咲かせ、木々に実を付けさせる効果がある……と。
「果実も我等は食べぬが此処へと来る動物達の糧になるし、そうして食った実の中に有る種は他の場所で糞と一緒に大地に落ちて、その地で草木が新たに根を張る事が出来る。つまり我等も草木も此処に来る雄達も子孫が繁栄出来ると言う事だ」
……翅妖精との間に産まれる子供は皆翅妖精である以上、雄に取って子孫繁栄に成っているのかどうかは少々微妙な気もするが、出すもの出して気持ち良く成れるのであれば自他共栄の関係と言えるのか?
パッと見ただけでも俺の知らない色とりどりの果実が生って居るのが見て取れるが、そのどれもが翅妖精達の鱗粉の効果を受けて成長した結果なのだろう。
「ちなみに妖精の珈琲の実以外の果実も他の場所の物と比べると栄養満点だと言われて居るけれども、味と言う点では少々水っぽくて甘みが薄いからあんまり美味しい物では無いのだ」
やはり不自然な促成栽培には不利益も有る様で、果物として食べるには残念ながら人間の口には合わない物だと言う。
「我々は果実を口にする事は無いからなぁ……まぁ花の蜜もターの言う通り他所の花に比べると少々甘みが薄く水っぽい気がしないでも無いな」
女王様も此の地から出る事無くずっと育ってきたと言う訳では無いそうで、先代の女王が未だ生きて居た頃には縄張りの外を冒険していた事も有るのだと言う。
その際に飲んだ普通の花の蜜と比べると、此処の草木の蜜は確かに濃縮されておらず味が薄いのだそうだ。
「じゃぁ妖精の珈琲の実は他の果物とは違う特別な物なのか?」
前世に全国から捜査官を集めた特別捜査本部が設置され、其処に出向した際に北海道から来た同僚に聞いたのだが、畑を荒らす蝦夷鹿や羆の食害は作物を全部綺麗に食べる様な事は無く、多くの場合一番美味しい所だけを摘み食いされるのだと聞いた事が有る。
他にも犬や猫の様なペットが出された食餌を選り好みすると言う様な話も聞いた事が有るので、動物にだって味の好みや好き嫌いと言う物は有るのだろう。
にも拘わらず此処の味が薄く水っぽいと評される果実を普通に食べるのは、其れだけ未開拓地域に生きる動物達に味の違いで食べないと言う選択が出来る程の余裕は無いと言う事なのでは無かろうか?
「妖精の珈琲の実も普通の珈琲の実の方が美味しいのだ。まぁ珈琲の実は珈琲に加工する為に育てられている物が殆どで、果実として食べる機会は早々無いけれどもね」
確かに比較対象と成る物を口にした事が無ければ、其れが普通の物より美味いのか不味いのか判断する事は出来ないだろう。
……そう言う意味では、他の見た事の無い果実を試しに食べて見るのも有りなのでは?
そんな事を思ったが、どんなに身体に良い物だって食べ過ぎれば毒に成る、今回俺が食うのは目の前に鈴生りに実っている真っ赤な紅玉の様な輝きを見せる果実だけにするべきだろう。
そう判断し俺は実の重さで垂れ下がった手近な枝へと手を伸ばすのだった。




